「この地球の上に、天の川のような美しい花の星座をつくりたい。 花を見る心がひとつになって、人々が仲よく暮らせるように」
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国道156号線にはかつて、この道の上を走る路線バスが存在した。名を、「国鉄(JR)バス名金線」と言う。その名の通り、名古屋と金沢を結ぶ路線だった。太平洋につながる伊勢湾岸に位置する名古屋市と、日本海に面する金沢市を結ぶ路線である。距離にして266km、停留所数は150を超えるという路線バスとしては規格外の長さを誇り、当時は日本国内の最長路線だった。2002年に廃止。 佐藤良二さんは、このバスの車掌だった。ある時佐藤さんは、このバスが走る路線に立つ「荘川桜」に取りすがって泣く老婆の姿を見た。荘川桜は、日本で初めての大規模ロックフィル式ダム・御母衣ダムの底に水没した村から、現在の国道156号線沿い御母衣湖畔に移植された巨大な桜の老木だった。老婆は、「移植しても枯れる」と言われていた荘川桜が、見事な花を咲かせるようになったことに感極まって泣いていたのだった。桜の花にこれほど人の心を動かす力があることを知った佐藤さんは、「太平洋と日本海を桜でつなごう」と思い立つ。佐藤さんは名古屋と金沢を結ぶ路線伝いを中心に、12年間で2000本の桜を植え、昭和52年に47歳で亡くなった。 佐藤さんの功績はNHKの中部地方ローカル番組で紹介され、やがて全国ネットでも放送された。映画化もされている。そして、「さくら道」と言うタイトルで書籍化された。この「さくら道」を紐解くとき、佐藤さんの行ったことが必ずしも世間一般の感覚をもって賞賛される性質のものではないことに気づく。桜を植え続けると言う行為は、少なからずの家族の犠牲の上に成り立っていたように思う。しかしそれでもなお、全うした生とは、善悪や是非と言ったものを超えて尊いものであると思う。 |
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![]() 佐藤さんが昭和41年にに植えた1号桜は、「日本さくらの会」から送られてきた30本の苗木だった。同会に荘川桜の移植写真を送った返礼に受け取ったものである。佐藤さんの写真は、前代未聞の難事業である巨大な老桜の移殖の様子を記録したものとして、それほど価値のあるものだった。 |
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![]() 既述の通り「初代」1号桜は、枯死している。「2代目」は、事情を聞いた良二さんの姉・てるさんが持ってきた桜の苗木が根付いたものだとのこと。佐藤さんは後に、荘川桜の花実から苗木を育てるようになった。2代目が植えられたのは佐藤さんが亡くなった後の事なので、今ここに立っている2本の桜は、荘川桜の子供と言うことになる。 |
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![]() 1本1本はただの桜なので、現在となってはそれらが一体どこに植えられたのか、よくわからなくなっているものも多い。ただ、1000本目になる記念の桜の所在がよくわからないのは少々意外だ。同じ城内には、きんさんぎんさんが記念植樹した桜があり、こちらにはその説明もあるのに。 |
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![]() 荘川桜の移植は、御母衣ダムの建設に携わった電源開発総裁の高碕達之助氏の発案で行われた。しかし、この計画の行方は関係者から注視されていたと言うが、裏を返せば計画を疑問視する人が多かったことの現われでもある。当時の村人たちのでさえ、移植しても桜が活着するはずが無いと考え、無残に枯死する姿を見るぐらいなら水底に沈めてやった方がよいという声も多かった。高碕氏の要請を受けて、この難しい移殖を成功させたのは、『桜博士』と呼ばれた笹部新太郎氏だった。 |
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![]() 兼六園のこの場所には、1500号桜が植えられた。何本か植えられたうちの一本が1500号だったのだろうか。兼六園一帯には多くの桜が植えられており、春ともなれば花見の名所として賑わう。1500号桜が植えられているあたりも、花のころには桜色の並木道となる。 |
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▼参考文献 中村儀明、1994年、『新訂版・さくら道―太平洋と日本海を桜で結ぼう』、風媒社 |