エイズ伝説を考える


 エイズの世界へようこそ
 2003.02.08

 一人の男性があるとき、バーで魅力的な女性を見つけ急速に親密になった。そして二人は一夜を共にしたのだが、楽しい一夜が明け、目を覚ますと相手の女性は姿を消していた。代わりに、バスルームの鏡には、真っ赤な口紅でこう書かれていた。
「エイズの世界へようこそ!」

 
上のような話は、俗に『エイズの世界へようこそ』とか、『エイズ・メアリー』、または『エイズ・マリー』と呼ばれる都市伝説です。男性が主人公のエイズ・メアリーに対し、主人公が女性の、『エイズ・ハリー』と呼ばれるバージョンもあります。

 ある女性が旅先で、一人の男性と出会った。この男性は優しく知的な物腰をしており、ルックスも悪くない上に、経済力もあった。まさに絵に描いたような理想の男性で、彼女はすっかり彼に一目ぼれをしてしまった。そして二人は、一晩中愛し合った。
 やがて、女性が帰途に着く時がやって来た。男性は女性になにやら小さな箱を手渡し、「飛行機の中で開けて欲しい」と言った。
 彼女は男性から言われたとおりに飛行機の中で心躍らせながらこのプレゼントをあけた。
「エイズの世界へようこそ」
 中にはそう書かれたメッセージと、棺桶の形をしたブローチが入っていた。

 
なお、一夜の関係を持った相手にエイズをうつす女性の通称”エイズ・メアリー”ですが、これはエイズ・メアリーの伝説よりもずっと以前に、自分がチフスに感染していることを知りながら、なんらの措置も講じず、多くの人にチフスをうつした実在の女性、”チフス・メアリー”にちなんで名づけられたものです。この女性に関しては、本名は紛れもなくメアリーでした。ハリーに関しては単にメアリーと韻が似ていることから付いた名前でしょうか。

 エイズ・メアリーとエイズ・ハリー。都市伝説には何らかのメッセージ性を持つものも少なくありませんが、二つの話が伝えようとしているメッセージはそれぞれ微妙に異なっているのかもしれません。両者に共通しているのは、霊現象などとは違った、もっと現実的な恐怖の具象化でしょうが、エイズ・ハリーの場合はエイズ・メアリーよりもさらに性の放縦さを戒める度合いが強く、”女性は貞淑であるべきである”という価値観に基づくメッセージが見え隠れしているような気がします。

 ただ、そのようなメッセージが強い効果を発揮するためには、やはりこの話が恐い教訓話で無ければなりません。本来タブーとされていることを踏み越えてしまったためにペナルティを課せられた人たちの物語であればこそ、そこに隠されたメッセージも聞く人の胸に強く迫ることでしょう。エイズという”病気”は、奔放な性に対する戒めの物語を作るためには格好の材料だったのかもしれません。誰かが意図的にこの話を生み出したとまでは言えないにしても、性風俗の乱れを嫌った人々が、この話を好んで広めたということも実際にありえたのではないかという気がします。

 エイズ伝説の成立から伝播に至るまでの背景を断定的に語ることは出来ませんが、一つだけ確かなことは、この都市伝説の成立時期は、エイズというそれまで正体のはっきりしなかった”病気”が、ぼんやりとながらその姿を現し始めた時期であったということでしょう。エイズがどうやら性感染症であるらしいことがわかり始めてきたのは、1980年代の初め頃の事です。

 はじまりはアメリカでした。当初は男性同性愛者同士の間で広まるものと言われていたエイズが、異性間のセックスによっても感染することがわかった時、一部ではある種のパニックさえ発生したと聞いたことがあります。この話の成立時期は、そのような騒動が起こった頃とそれほど離れてはいないでしょう。すると、エイズ伝説は誕生から20年前後が経過した話であるということになります。

 有名な都市伝説の中には、すでにクラシックと呼んでも問題ないほど、誕生から歳月を経てきた話も少なくありませんが、エイズ伝説はそれらと比べればずっと歴史の浅い話です。とは言え、私はもうそろそろ今あるエイズにまつわる都市伝説の多くがリアリティを失い、過去の異物となる時期にさしかかっているような気がします。

 現行のエイズ伝説の多くは、20年前のエイズに関する情報に立脚して成り立っているものです。一方現実のエイズ事情はこの20年の間に大きく様変わりしています。そこでまずは、現段階でのエイズに関する研究成果などをまとめておきましょう。

 エイズ(AIDS=Acquired Immuno Deficiency Syndrome)は、日本語では「後天性免疫不全症候群」となります。一般にはエイズという固有の病気があるように認識されていますが、HIV(Human Immunodeficiency Virus:ヒト免疫不全ウイルス)に感染し、それによって発症する様々な症状が、実際に現れた段階で”エイズ発症”と診断されるそうです。HIVはヒトの免疫系の働きを不完全な状態にするウイルスで、これに感染すると、健康体なら簡単に押さえ込める病原体が体内に入っただけでも様々な感染症を発症してしまう、”日和見感染”をはじめ、腫瘍などが出来たりします。現在のところ、エイズ発症の基準とされる病気は23種類指定されているそうです。もっとも、これらの病気はHIVに感染していなくても発症することはありますし、HIVに感染し、23種のうちのいずれかの病気の症状があらわれたとしても、最終的にエイズに感染したかどうかの判断は、診察した医師に委ねられているそうです。以下では簡単のために、慣例通りエイズを一つの”病名”として扱い、上の23種の症例を”エイズの諸症状”としています。

 順番が前後してしまいましたが、HIVに感染してから”エイズの諸症状”を発症するまでには、ある程度の潜伏期間があります。HIV感染時から1ヶ月ほどした頃、人によっては微熱やのどの痛みなど、風邪に似た症状が出ることがありますが、これ以降の潜伏期間に入ってしまうと表面的には全く健康体と区別がつかなくなります。ただ、感染初期の風邪に似た症状にしても、それだけでHIVの感染を判断するのは不可能に近く、HIVに感染した事実を確認する方法は、結局のところ正規の検査以外にはありません。この検査も、感染したと思われる日から3ヶ月程度たってから行わないと感染の事実をつかめないことがあり(この3ヶ月間をウインドウピリオドと呼びます)、このことが非常に厄介な問題を引き起こすこともあります。このウインドウピリオドの間もHIVは体内に存在するので、諸々の感染経路から他の人にうつる可能性があるためです。

 感染から発症までの期間ですが、早い場合には一年ほど、長い人なら10年以上、平均的には7,8年ほどといわれています。発症までの間、劇的に症状が悪化することはありませんが、免疫能力は確実に低下していくようで、最近では、体の不調に気付いて検査を受けたらエイズがかなり進行していることがわかった、という場合が増えているようです。

 感染経路に関してですが、HIVは非常に感染力が弱いため、ごく限られた経路しか存在しません。HIVは空気に触れただけでも死んでしまう程度の脆弱なウイルスなので、HIVが多く存在する感染者の血液、精液、膣内分泌液などが何らかの形で体内に取り込まれないかぎり、感染することはありません。主な感染経路と感染確率についてですが、輸血・血液製剤などによる感染の確率が90%以上、母子感染の場合で約30%、セックスの場合で0.1〜1%、注射器の使いまわしで0.5〜1%であるといわれています。HIVに感染した血液が大量かつダイレクトに体内に入り込んでくる輸血などは非常に高い確率で感染しますし、出産の時の出血や母乳(母乳の成分は血液由来だそうです)を介して感染する機会が多い母子感染がそれについで高くなっています。そして、セックスですが前2者に比べるとかなり確率が低くなっています。セックスでは感染者の精液や膣内分泌液と接触する上に、普通の皮膚と違って粘膜は、表面に付着した体液を吸収してしまうため感染経路に上がっているわけですが、からだの構造上相手の体液が体内に残りやすい女性の方が若干感染率は高く、すでに他の性感染症に感染していたり、性器に傷がついていたりすると感染率が高くなるようです。ちなみにキスですが、お互いの口の中に傷でもないかぎり感染の可能性は限りなく0に近いそうです。注射器の使いまわしによる感染確率も同じようなものです。

 セックスの感染率は、思っていたより低いという印象を受ける方が多いのではないでしょうか。エイズの予防というと、真っ先に言われるのがコンドームの着用ですから、セックスによる感染率はかなり高いように思われるかもしれません。実際には、感染率が高いから関係当局がさかんに注意を呼びかけているわけではなく、他の感染経路が極めて特殊なケースばかりである中で、セックスはもっともありふれた感染経路であり、実際に感染経路としてもっとも多いのがセックスだと考えられているからです。上で挙げた主な感染経路の中で、セックス以外は一応医療関係者の介入する余地があります。輸血用血液などはHIV感染の有無は当然の如く検査しています。もっともここで前出のウインドウピリオドの関係で、HIV感染血が検査をすり抜けてしまうことがごく希にあるようですが。母子感染に対する対策も確立されているようですし、注射器の使いまわしは、医療関係者はまずやりません。覚せい剤使用のためなどというのは論外で、エイズ予防の啓蒙の埒外ということでしょう。そのため、セックスに関しては各自で自衛してください、ということのようです。

 現在のところ、残念ながらエイズの根治療法はありません。しかし、感染から発症までの潜伏期間を、薬によって十年近く遅らせることが出来るようになっています。これには単なる時間稼ぎという以上の意味があります。十年の時間を稼ぐことが出来れば、その間にさらにエイズ医療が進歩し、有効な対策を立てることも可能になるでしょう。このあたりに希望があります。HIV検査が重要なのは、感染を広げないためであるのと同時に、初期に感染を発見しておけば情況は十分に好転しうるためです。

 簡単ながら、現在のエイズに関する情報は大体このようなものです。デリケートな問題なので、機会があったら信頼のおける資料で改めて確認していただけるとありがたいところです。

 都市伝説においては、エイズが性感染症であることが重要です。もともとエイズ伝説以前にも、アメリカではセックスにまつわる話というのは少なからず存在していたようです。この種の話は、それなりに人気のあったジャンルだったわけですが、その中でもエイズがらみの話というのはごく初期の頃、かなり異質なものだったといえるでしょう。もともとこの種の話題は、いわゆる”猥談”の域を出ない下世話な話が中心だったのに、エイズは正体不明で治療法の無い性感染症だったために、身近に迫った死の恐怖という、それまでセックスがらみの話とはおよそ縁遠かった要素が入ってきたわけです。当初はそのセンセーショナルさゆえにこの話が広範囲に伝播したと考えられますが、すでに触れたような、エイズという病気の実態が分かってくると、行きずりの関係の挙句エイズをうつされるという典型的なエイズ伝説は、あまりリアリティの無い話のように思えてきます。

 エイズ伝説はセックスの話であると同時に、生命の危機の話でもあります。HIV感染者と普通にセックスした場合の感染率は1%以下です。もちろん感染の危険そのものはあるわけですし、現実問題として何の予防策も講じずに不特定多数の相手と関係を持つことはエイズの蔓延を助長するものに間違いありません。しかし、一度きりの関係のあとに『エイズの世界へようこそ』と告げられたとしても、当然心中は穏やかではないでしょうが、それが直ちに絶望的な状況に直結するかのような各種エイズ伝説は、やはり話の域を出ないものではないでしょうか。まして話のバージョンによっては、その後の検査で陽性反応まで出てしまっていますが、それほど簡単に感染するものではない以上、今ひとつリアリティがありません。可能性としてそのようなことがあったことまでは否定できませんが、それにしても同様の話が多すぎます。また、夜の街の噂には、特定の店の従業員、あるいはお客がHIVに感染していて、その店の関係者はことごとくウイルスをもらってしまっている、といった類いのものも在るようですが、そこまで行ってしまうとほとんど虚構でしょう。むしろそれほどのっぴきならない状態に陥る前に、どこかでブレーキがかかる方が、はるかに現実的な気がします。

 ついでに付け加えるならば、エイズにはまだ根治療法こそないものの、発症をかなりの期間遅らせることが可能となっている事実も、エイズがまさしく死病だった頃に生まれた古いエイズ伝説のインパクトを、かなり弱める要素になるでしょう。

 そういった状況は度外視しても、発生当初から大した変化のないエイズ+セックスの話は、食傷気味になってきている感があります。そのためかどうか、次のような話も生まれたようです。いずれも当サイト掲示板からの投稿です。

 駅の周辺にはエイズに感染して気が狂った男が自分の血液を注射にいれ、無差別に歩行者を襲うという。ある女性があるいてると、ちくりとした痛みが走ったのでみてみると、注射がささっていた。あとで注射を調べてみると、エイズ入りの血液が混入されていたという。

 中国の河南省のある村は村人全員がエイズに感染し(薬害で)にっちもさっちもいかない状態になっている。そこで、省政府は軍で村を包囲して村人を監禁しているらしい。先日、一人の男が脱走して、群集にこのことを涙ながらに訴えてたのが、目撃されたという。


 二つ目の話は日本のものではなく、話の舞台も広まっている場所も中国の話ですが、エイズにまつわる二つの話両方がセックスがらみの話ではなくなっています。注射器を使って無差別にHIVを撒き散らそうとする男の話は、むしろ通り魔の話でしょう。手口が異常な犯罪の話です。ちなみに、アメリカでは映画館などで女の子に対し、気付かれないうちに麻薬を注射して意識が混濁したところで、親切を装って誘拐しようとする犯罪者の話があります。この話では、女の子は前後不覚に陥る寸前に、何かに刺されたような痛みを感じたことを告げる場合が多いようです。何かに指された痛み、注射器と、似通ったモチーフを持っているので、もしかするとこの話から何らかの影響を受けた話なのかもしれません。なお、このエイズ男の話の感染経路は、注射器の使い回しではなく輸血に近いでしょう。実際にこのようなことがあったとしたら、セックスよりも感染確率は高くなると思われます。また、現段階でこの男は殺人罪か殺人未遂罪に問われることもあるかもしれません。

 中国の話は公権力の暗黒面にまつわる話という解釈が出来ます。HIVは100%空気感染はしませんし、単純に感染の拡大を防ぐためなら村ごと隔離するような真似をする必要はありません。ここでは、薬害で村全体がHIVに感染したとされているという部分がミソでしょう。日本の例もありますが、血液製剤などを介してHIVに感染した事例は、結局のところ国の怠慢によって引き起こされたものといってよいでしょう。その過失を隠蔽するために公権力が振るう、理不尽で強大な社会的暴力の恐怖を語っているのかもしれません。

 遅かれ早かれ、いつかは必ず人類がエイズという病気を克服する日が来るでしょう。医療の進歩に伴って人類対エイズの戦いに、『人類側勝利』という決定的な決着がつくその日まで、エイズという病気に対する恐怖は少しづつ薄れていくことでしょう。そのあおりを受けて、エイズがらみの都市伝説や噂は、エイズという病気そのものに対する恐怖を中心にすえた話から、それ以外の恐怖を伝えるための小道具としてエイズが使われる話に変わっていくのかもしれません。