都市伝説に興味を持ってこの分野に首を突っ込むようになった人なら、まず例外なく口裂け女の名は知っていると思います。昭和の末期に世の子供たちを恐怖に震え上がらせた、あの口裂け女です。一応同じコラムの中で口裂け女を扱った回へのリンクをはっておきます。もともと穴が多い上に、掲載から時間が経ったこともあって情報が陳腐化してきているのですが。
一般にどう思われているかは何ともいえませんが、個人的にこの口裂け女と言う存在は、良くも悪くも昭和と言う時代と心中した都市伝説怪異であるように思います。元号も平成に移った現在では、かつてほどにはかえりみられることのなくなった存在でしょう。都市伝説としてはすでに古典の領域に入ってしまっているため、今さら口裂け女の噂が流行った所でなつかし物のリバイバルヒットという以上のものにはならないような気がします。
そんな口裂け女も、比較的最近にちょっとしたニュースダネになることがありました。そのうちの1つは、2004年の韓国においてネット発の噂として流行したというもの。韓国版は「赤いマスク」と呼ばれていたのだそうです。そしてもう1つが、2000年から2001年にかけてフジテレビ系で放送されていたアニメ番組「学校の怪談」に関するものです。同番組の第3話は当初は口裂け女がらみの内容として企画されていたのに、実際の放映では総集編に差し替えられ、口裂け女の話がお蔵入りになったのです。言ってしまえばどちらも「何を今さら」と言うような話です。が、今回の話は口裂け女放送禁止騒動から入っていくことにします。
口裂け女の何がNGだったのでしょうか。実は世の中には口唇口蓋裂という障害を持つ人がいて、そういう子供を持つ人たちの団体から「同じように口の裂けた口裂け女が子供向け番組の中で化け物として取り上げられてしまうと、特に番組を見た子供たちの間で口唇口蓋裂の子供に対する差別が助長されるのではないか」という旨のクレームがついたのでした。ここでは表現上「同じように口が裂けた」とはしましたが、厳密には伝えられる口裂け女の風貌と、口唇口蓋裂の実際の症例は違いますので、どのような症状なのかはこちらのページを参照してください。
その団体の言わんとしていたところは理解できます。「学校の怪談」という番組そのものはそれほど流行っていたわけでもないようですが、それでもおそらく番組が引き金となって、口唇口蓋裂の子供に対するいじめは起こっていたでしょう。だからといってその主張を全面的に認めるべきなのかという疑問もあります。当サイトでも「学校の怪談」の話はまるっきり対岸の火事というわけでもありません。実際のところ過去にはちょっとした「物言い」がついたこともありました。別に高尚な意義があるわけでもなく口裂け女の話を紹介してしまっているのですから耳の痛い話ではあったのですが、結局はなあなあのまま終わらせてしまいました。この種の差別論は言い出すと切りがなくなるもので、口裂け女が差別的でNGということになると他の話とのバランスまで考えなければならなくなるため、口裂け女だけを特別扱いにできないということもあります。あえて口唇口蓋裂の話を持ち出すことの方が差別にあたるのではないかという疑問もあります。
ただ、それも今回の主題ではありません。私が面白いなと思ったのは、そうした「物言い」をした人の中にで、「口裂け女の噂が流行った早い段階で口唇口蓋裂という障害を持った人たちの存在が公表されていれば、情報飢餓の状態が改称され、うわさは収束していったのではないか」と指摘された方がいたことです。今から一年程前に掲示板でちょっとした論争になっていたのですが、話の流れからこの内容が主題とは大して関係ないものになっていったこともあって、そのときは特に拾い上げることはしませんでした。結論から言ってしまえば、口唇口蓋裂に関する啓蒙めいた事を行っても、口裂け女の噂を鈍化させることはなかったでしょう。まかり間違えば火に油を注ぐ結果にさえなっていたのではないかと思います。
順を追って話をしましょう。流言研究の大家にG・W・オルポートとL・ポストマンという学者がいて、その著書『デマの心理学』の中で、こんな公式を定義しています。
R=i×a
R:Rumor(流言の流布量)、i:importance(重要性)、a:ambiguity(曖昧さ) |
流言がどの程度の規模まで広まるかは、話者にとってのその話の重要性と、話自体の根拠の曖昧さの積という形で決定されるという、あまりにも有名な公式です。要は、ものすごく大事な話なのに情報が一切伝わってこないような場合には憶測が憶測を呼んで奇妙奇天烈な流言蜚語の飛び交う状況が現出するのだけれど、誰にも見向きもされない無価値な話や、憶測の入り込む余地もないほどネタが割れてしまっているような話は流言としての伝染力が弱いと言っているのです。ただし、上記の公式は実験室的環境の中から生み出されたもので、定義された時期も半世紀前と、かなり古典的な物であるのも事実です。そこでアメリカの社会心理学者のA・コーラスは、この式に「critical sense(批判能力)」という要素を加え、R=i×a×(1/c)という形を提唱しています。この公式によると、流言の拡大範囲はその担い手の批判能力に反比例することになります。コーラス説には否定的意見もあるようで、これが流言の社会学のスタンダードにはなっていないようですが、オルポートとポストマンの基本形にせよ、コーラスの発展形にせよ、それほど的外れなものでもない様に見えます。
ところがどっこい、最近では流言の中にはどうもこの公式だけでは説明できない伝播形態を持つ物があることがわかってきました。基本公式自体が古いものですから無理もありません。そしてそのイレギュラーこそが他でもない、都市伝説だというわけです。ただし「都市伝説」という呼称は民俗学由来のものなので、社会学の視点からはその名が前面に出てくることは余りありません。「いわゆる都市伝説」という扱いをされることが多くなります。
さて、オルポートとポストマンが考案した式に則って表現すると、都市伝説の場合は一般に、まず「重要性」の部分が話としての単純な面白さ、すなわち「話題性」に置き換えられるようです。しかし問題はその後の、aの部分の扱いです。もちろん、情報の不足が都市伝説の流布に一役買うことは間違いありません。しかし、中には最初から情報不足とか根拠の曖昧さ(あるいは確かさ)などを度外視してしまった上で成立しているとしか思えないようなうわさが存在するのも事実で、例えばタクシー幽霊、そして口裂け女を含めた怪談話の系統に属する話がそれです。常識的に考えれば、およそ「幽霊」と呼ばれるような存在や、「100mを3秒で走りポマード」が弱点などという無茶苦茶なプロフィールを持つ女がいるわけがありません。「化け物だから何でもあり」というのも屁理屈で、そもそも化け物というのはこの世に実在しないようなもののことを指します。(ただし口裂け女に限って言えば、これがあくまでも子供のうわさだったのも事実で、その点では根拠の正当性を無視しているとばかり言えない面もあります。子供の判断力では口裂け女は実在し得るものと見なされるわけで、ここで具体例の一つとしてあげるのにも問題があるのですが)。
そもそも都市伝説の場合、話題性の部分だけが極端に肥大化してしまって、情報の確かさや曖昧さの検証がおろそかにされるどころか、かえってその部分を無視ようとする心理的作用があるのではないでしょうか。これまでに掲示板で都市伝説がらみのやりとりを見て来た経験では、「同じようなうわさはずっと昔からある」とか、「科学的に根拠のある話ではない」と諭されても「自分が聞いたこの話は絶対に事実である」と強弁する人を時折見かけます。これは話題性を優先するあまり、それを損なう恐れのある情報の曖昧さの判断をスポイルしようとする心性によるものなのかもしれません。廣井脩「流言とデマの社会学」の中では、「ホームルームで口裂け女なんていないとうわさを否定した教師が、生徒から総スカンをくうという事態まで起こったという」とされています。うわさパニックのセオリーに沿って考えれば教師の発言を事態収束のための方便=一種の「対抗神話」と判断した生徒が多かったということになるのでしょうが、これなども果たしてそれだけことだったのか。当時の子供たちがどの程度真剣に口裂け女を恐れていたのかははかりきれない所がありますが、騒ぎが一段落した頃には口裂け女が漫画のキャラクターとして登場し、それなりの人気を博したという話もあります。子供たちの中に、自分たちに刺激をくれる身近な怪異・口裂け女を愛好する意識がなかったとは思えません。そしてそれをふいにするような情報に対する拒絶反応は存在しなかったのでしょうか。確かな根拠に基づいた論ではないですが、どうもそういう反応はあったような気がします。そしてその防御反応は、「口唇口蓋裂で苦しむ人がいる(だから面白半分にこの話を口にするのはやめなさい)という道徳に訴えかける静止策さえも拒絶していたのではないでしょうか。子供というのは残酷で、いじめも平気で行います。もちろん子供とひとくくりにするのは問題ですが、一クラス何十人かの子供がいれば、道徳意識によって好奇心を押さえられる子だけではなく、面白半分で茶化しだす子も必ず現れるでしょう。そして都市伝説とは、往々にしてそのような興味本位の好奇心に支えられて広まっていくものなのです。
そういう意味であのときの指摘は、都市伝説の心理を考える上で興味深いきっかけになったと思います。
口唇口蓋裂のおはなし |
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