「赤マント」は、トイレに入ったときに、どこからか「赤いマントはいらんか」という声が聞こえ、適切な受け答えをしないと、まるで赤いマントを身にまとったかのように、自分の血で衣服を赤く染めて死んでしまう、という話です。トイレと言う場所で、色にまつわる問答を強要されるタイプの話はいろいろありますが、その中でももっとも有名な部類に入る話と言ってよいでしょう。なお、今回は似たような名称がいくつか出てきますので、一般的な都市伝説怪異を「赤マント」と表記しています。
例によって様々なバリエーションがある、「赤マント」の話全てについて言えるわけでは無いのですが、学校のトイレでの話が多いので、特に学校の怪談と呼ばれるジャンルに分類されるのが一般的です。マントのほかに、「赤いちゃんちゃんこ」、「赤い半纏」と言った話もありますが、亜種というよりは9割9分まで「赤マント」と同じ内容です。名前からも分かるように、マントをちゃんちゃんこや半纏に置き換えただけのものです。おそらくは、最初に存在していた「赤マント」の話の、怪談話としての出来が良かったため、類話が多く発生したのでしょう。また、謎の声によって尋ねられる色も何パターンかあり、赤のほかに青や白、黄色などの中から好きな色を選ばせるというような場合もあります。
ある意味でもっとも基本的な部分なのですが、トイレで問答を強いる怪異・幽霊・妖怪(謎の声の主)が「赤マント」であるのか、それともナイフなり何なりの刃物で刺されて、赤いマントをまとったかのような状態になる怪奇現象一般をさして「赤マント」と呼ぶのかは、意外と判然としていません。
今でこそ学校の怪談でトイレと言えば花子さんのような状態になっていますが、トイレに現れる怪異・「赤マント」の話は、花子さん以前からあった古い話です。既出の『ピアスの白い糸』では、昭和10年代(1930年代後半〜1940年代前半)あたりの時期に、京都の学校で言われだしたのが確認できる同様の話の中で最も古い例と述べられていますし、別の文献ではやはり昭和初期、長野県安曇野地方のとある学校が発祥であるとしています。
さらに同時期、東京に謎の怪人・赤マントが現れ、警察が出動する騒動が発生したと言う記録もあります。いずれにせよ、「赤マント」のルーツは、最近の学校の怪談に登場する妖怪に比べて、古いところに求められそうです。そのために却って、新しく勃興してきた今様の妖怪に駆逐されてしまいつつあるようにも思えるのですが。
この話が最初に発生したと考えられている時期は、世界情勢に、戦争の予兆を思わせるきな臭い動きが見え隠れしていた時期でした。日本国内でも昭和初頭の金融恐慌など、暗い話題が多い時期で、不透明な世情の中、軍部がその影響力を増大させていました。そのため、こういった不安な世情から、「赤マント」の成立には、当時の子供達の憲兵隊に対する潜在的な恐怖が関係しているという分析も、一部でなされています。子供達にとって、マントが憲兵隊の象徴だった、というのがこの説の主張するところです。ちなみに、私は旧日本軍が着用していたという軍服の実物を見たことがあります。品自体が相当古いせいか、赤とか紅とか、鮮やかな感じではなく、色あせたえんじ色といった雰囲気の色をしていました。確かに、布にこびりついて長時間が経過した血の色に似てなくもない物でした。
さて、現代的な恐怖の具象化が多い都市伝説怪異の中では、どうにも古めかしいイメージが漂う「赤マント」ですが、サッちゃんなどの都市伝説と同様、この「赤マント」にまつわるものと思われるチェーンメールも出回ったことがあります。
紅いマント
これはその人が信じるかどうかによって結果が変わるものです。この話は1904年2月9日にあった日露戦争の時に起こった事件の事です。この時代の子供たちは、日本軍の着ていた紅いマントがとても気にいっていました。要するにすべての子供がこの紅いマントを持っていたということです。しかし、福岡県筑紫野市高雄3丁目4114番地に住んでいた、矢島剛はこのマントを持っていませんでした。彼の家は貧しくマントを作って貰えませんでした。そんなある日のこと彼が学校の近くにあるトイレに入った時彼はいつも彼をイジメている子供達にそのトイレに閉じ込められました。そして、その時周りにいたイジメっ子達がこう言いました「あーかいまんとはいーらんか。」「紅いマントはいーらんか。」と、これに剛君はたえかねて自分の背中を持っていたカッターで挿し自害しました。そして1時間ぐらいしてドアをあけるとそこには血で染まった紅い紅いマントを着た剛君が死んでいたそうです。
時は流れ、あれから95年経った今こっちの世界に剛君が来ています。もし貴方がトイレに入った時「紅いマントはいらんか。」「ア カ イ 卍 斗 ハ イ ラ ン カ」と、聞こえた時、あなたがこの話を信じているのなら助かるでしょう。しかし、信じていないのなら貴方は剛君とお揃いのマントを着ることになるでしょう。そう、血に染まった紅い紅いマントを。もし、信じているのならそれを証明して下さい。12時間以内に5人の友達にこのメールを送りなさい。でもきっと貴方は送らないでしょう。しかしそれはそれでいいでしょう。だってそうしたら僕と会えるんだもん。でも、一つ悲しい事があるんだ。それはね、それはね、貴方を殺さなくちゃいけないこと 「フフフフフフフフフ」ねぇ、聞こえるでしょ?僕の悲しみの声が 「紅いマントはいーらんか。」ほらほら聞こえてくるでしょ?ドンドン大きくなってくるよ。「ア カ イ マ ン ト ハ イ ラ ン カ」聞こえた
?聞こえなかったのぉ。まぁいいや。聞こえなかったのなら今度トイレで会ったときにキカセテアゲル。楽しみに待っててね。そして、お揃いのマント着ようね。どんなマントがいい
?紅いのがいいよね。ア カ イ ノ ガ。しかも、紅いあかーい血のついたやつ 要するに貴方の血。心配しなくても大丈夫だよ、痛くないように殺してあげる
「赤マント」(文中では紅いマント)の事を話題にしていますが、受信したメールを「12時間以内に5人の友達」に送るように指示しているあたりは、不幸の手紙と同じです。最近では、不幸の手紙(メール)も、何の脈絡も無くただ単に「送らないと不幸になる」といって不安を煽るものはほとんど無くなり、いろいろな工夫をして、メールを送らないことによって降りかかる不幸や災難に真実味を持たせようとしています。このあたりの分析、考察、解説はまたの機会に。「紅いマント」のメールの場合は、もともとある程度認知されている「赤マント」の話を取り入れることで、製作者が不幸のメールの不気味さを際立たせようとしたのでしょうか。メールの内容を見る限りでは、このメールの製作者は赤いマントの話についてある程度の知識があったのではないかと考えられます。
日露戦争と、都市伝説「赤マント」が誕生したと考えられる昭和 10年代では、年代にかなりの開きはあるものの、マントと軍部を結び付けているあたりに何やら作為的なものが感じられます。普通京都などが発祥の地と考えられている話の、始まりの場所を福岡に設定している理由は分かりませんが。もしかしたら作者にこの地方の土地鑑があるとか、そういう理由からなのでしょうか。
しかし、このメールには「達者」メールのような緻密さが無い印象を受けるのも事実です。と言うより、はっきり言ってかなりひどい内容です。ここに書かれている内容には、誤字脱字、妙な言い回しなどの文法的な誤りに始まり、年代考証その他のシチュエーションの設定などの部分に、いくつか不自然な部分があります。
第一に、当時子供に赤いマントを買い与えられるほど裕福な家庭などそれほど多くなかっただろうことは、想像に難くないのに、マントが買えないという理由で「剛君」が周囲から浮き上がってしまうというのは、かなり考えにくい状況です。また、終戦後しばらく経った時代の子供ですら、“肥後守”と呼ばれる小刀か、今でいうバタフライナイフに近い、飛び出しナイフ様の刃物を使っていたというのに、日露戦争の時代にカッターがあったとは到底思えません。しかも、それで背中を刺す(挿す、は当然誤字です。変換ミス?)のも、あまりにも不自然です。もしかしたら、この文章を書いた人に、マントといえばスーパーマンなどがそうしていたように、“背中から羽織るようなまとい方をするもの”という頭があったのかも知れません。百歩譲って、当時すでにカッターが存在して、しかも、不自然な状況ではあるものの、「剛君」が背中をカッターで刺したとして、この凶器が人体にそれほど致命的なダメージを与えるほどの強度をもっているのでしょうか。頚動脈を切る、とか言うのならともかく背中を刺すとは。それでなくても自分で自分の背中を刺すという体勢では、満足に力をこめることも出来ないでしょうに。
このように、「紅いマント」のメールからは、話としてはあまり洗練されていない印象を受けます。従って、以前から広範に存在し、広く人口に膾炙されていた話というよりは、メールの製作者に近いところでささやかれていた比較的マイナーな説であると考えるか、さもなくば製作者が「赤マント」の話をもとに創作した話と考えるかのが妥当でしょう。このような稚拙な内容の話が、多くの人々の話題にのぼり、その人たちから加えられる批評に耐えられるとは到底思えません。
それでもなんだか不気味なメールだから、と言う理由である程度の数が転送され続けたら、それなりに広範に広がる話とはなりうるでしょう。本来それほど広範に広がるだけの力を持っていなかった話が、ふとしたことからあちこちに伝播した場合、その先はどうなるのでしょうか。
[補足]赤マントの起源
最近、掲示板の方で2・26事件と赤マントのつながりに関する情報が提供されました。魔王と呼ばれた特異な思想家・北一輝の影が見え隠れする2・26事件と、都市伝説怪異「赤マント」の結びつきについては、何やら怪しい魅力を感じてしまいましたが、それ以上に刺激的であったのが、2・26事件と、わずかながらすでに情報を得ていた怪人赤マントを結ぶ線が見えてきた事です。すでに今回のコラムの草稿が出来上がった段階で得た情報であり、文章の再編が厄介であったので、不精をさせていただいて補項という形にしておきます。
東京市に怪人赤マントが現れたのは、2・26事件の翌年、昭和12年の事です。2・26事件の翌日、2月27日から同年の7月末まで、東京市は戒厳令下に置かれています。この異常事態は、東京市民に大きな動揺を与えたことでしょう。そして、その翌年に現れた謎の怪人赤マント。この赤マント事件については、あまり詳細が分からないのですが、実害が出たのではなく、ある種の集団ヒステリーに近い騒ぎだったようです。東京市民にとっては、赤いマントはかなり不気味な存在だったのでしょう。人々は、強烈なイデオロギーを持ち、それに従って軍事クーデターを企て、志半ばにして処刑されていった将校達の心中を察し、同時にその怨念の深さを思ったのでしょうか。あるいは、処刑された将校達と同じ思想を持った政治犯が再来し、再び東京が混乱に陥いる事態を恐れた、とも考えられます。正体不明の怪人赤マントが身にまとう赤いマントは、人々に(様々な意味での)2・26の“亡霊”を想起させ、恐怖を呼び起こしたのかもしれません。トイレに現れるという「赤マント」は、当時の大人たちが漠然とした恐れを抱いている「赤いマント」という言葉を、子供達が特有の感性で具象化した存在、という解釈が可能です。
もっとも、「赤マント」の話の初出が東京ではないのがこの推論の弱みです。また、今ほどメディアが発達していなかった当時、比較的短期間に同様の話があちこちで見られるようになったことも不思議な点です。口コミは、思った以上に強力な情報の伝播経路なのでしょうか。 |
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