この国にはいつの頃から、「ポックリさん」と呼ばれる信仰の形が存在しています。「ポックリさん」というのは意外と説明に苦労する概念なのですが、あれこれと調べてみたところを総合すると、「『歳をとっても他人に下の世話をかけないように』という願いをこめた信仰、およびその対象」というのが、オフィシャルな言葉で「ポックリさん」を言い表したものということになりそうです。この表現は世間一般の解釈からは乖離してしまったちょっと欺瞞的なものであるのも事実で、草の根レベルでは「死ぬ時は長患いをせずに、ポックリ旅立ちたい」と願う信仰としたほうが直感的でしょう。
一体このサイトに出入りする人の年齢分布がどうなっているのかは、管理人であるところの私でも見当がつきませんが、かなりの割で確からしいと思う事は、「ポックリさん」を信仰するほどのアダルト層は少数派であろうということです。訪問者の大多数は「ポックリさん」と言われてもピンと来ない年齢層の人であるに違いありません。私もこの信仰について詳しい事は知りません。しかし、「年寄り嫌うな行く道だ」などと言いますから、この機会に、かねてから気になっていたお年寄りの都市伝説・「ポックリさん」について注目してみます。
大雑把なところから入っていきます。「ポックリさん」について触れたサイトなどを覗いていると、昨今(といってもここ2、30年のことですが)の「ポックリさん」信仰の火付け役になったのは、有吉佐和子著の『恍惚の人』だったのではないかとされています。そして、元祖「ポックリさん」を標榜しているのは奈良にある吉田寺というお寺のようです。こちらのサイトでは、ポックリは「ほくり」という万葉言葉からの転訛としています。意味は円満などといったところのよう。
この「ポックリさん」、キリスト教の教会はもちろん、神道の神社でも基本的には守備範囲外の信仰領域らしく、専ら仏様が請け負った信仰と見てもよさそうです。ただ、「扇の的」で有名な那須与一は晩年に下の世話を他人にかけることになったと言われており、「死後自分を祀ってくれたら、自分を信仰する人に同じ思いはさせない」と言い残した事から、彼も「ポックリさん」としての信仰を集めるようになっています。与一の場合は神道的な性格も強いのかもしれませんが、京都にある彼ゆかりのお寺「即成院」もやはり、「ポックリさん」としての信仰を集めています。
「ポックリさん」を祀ったお寺は、ポックリ寺などと呼ばれます。お寺に祀られていない「ポックリさん」の例としては、北向きのお地蔵さんが信仰の対象になっているという話もあります。「北向きのお地蔵さんは珍しいものだから、一風変わった功徳がある」という理屈付けのようです。これはかなり俗信に近いものなのかもしれません。地蔵の向きなどこれまでさほど注目してきた事はありませんが、どうやら北向きの地蔵が珍しいものであることは確かなようです。「子供の解熱にご利益がある」とされたり、仏教の考えというよりは心霊学(そんなものがあればですが)に近いのかもしれませんが、「多くの人のエゴを背負い込んで悪い気の吹き溜まりになっているから関わらない方が良い」というようなことを書いているサイトもあります。北向き地蔵は大坂の梅田駅にあるものが有名なのだそうですが、この北向き地蔵は一願本尊とか呼ばれるものらしく、そのご利益も「一心に信仰すればどんな願いも一つだけかなえてくれる」というものです。梅田の北向き地蔵は「ポックリさん」そのものではないのですが、もともと北向き地蔵一般が供えていた一願本尊としてのご利益が拡大解釈されて、「ポックリさん」信仰という、ややヤクザでアナーキーな信仰を請け負う事になったのかもしれません。
しかしアナーキーとは言うものの、「ポックリさん」もやはり仏の道ですから、「ポックリさん」側が「長患いせずポックリ」という後ろ向きな触れ込みでご利益を売り込む事はしません。一般的な認識でいえば「ポックリさん=安楽死」というイメージが定着してしまっていますが、本来の教義に従えば、「ポックリさん」のご利益は「天寿を健康に全うする」という極めてまっとうで前向きなものであり、「人生の時間が残っていても、しんどくなったらタオルを投げ込んでくれる」というのとは似て非なるものと言わざるを得ません。最前は思わせぶりに『恍惚の人』の話などを持ち出したので、「ポックリさん」が高齢者問題の顕在化してきた高度経済成長期以降ににわかに勃興してきたある種の新興宗教のようなものに見えてしまうかもしれませんが、既述の吉田寺や那須与一は10世紀から11世紀ごろの話ですから、「ポックリさん」信仰の正統は、場合によってそのあたりまで起源を遡り得ます。
同時に、「ポックリさん」とは表裏一体のように存在している「安楽死」の考え方にしても、ここ最近になってはじめて姿を現したものであるとは思えません。少し前に「切腹と介錯」のことが掲示板で話題に上りましたが、介錯という行為は紛れも無く安楽死です。切腹の歴史は長いですが、いつの頃からか介錯というオプション(命を絶つ手段としてはむしろこちらがメイン)が加わっているのです。
もっと一般的な例で言えば、「死に水」の習慣も安楽死と取れなくもないのだそうです。人は臨終の間際にしきりに水を欲しがり、望みどおりに水を与えると、張り詰めたものが切れてと言うのか、はたまた安心してと言うべきか、間もなく息を引き取ると言われています。この場合は厳密には「願い水」と言うらしいですが、水を飲めば死ぬ重病人に水を与える行為が安楽死にあたるというわけです。「助からない者に長く苦痛を味あわせるよりは、一思いに…」という発想は、日本に伝統的に存在していたものと考えた方が良いでしょう。しかし、現代のように「死なせない医術」が発達していなかった時期には、安楽死の大衆化のような風潮は存在しなかったのだと思います。
『恍惚の人』以後に巷へ溢れ出した安楽死を願う「ポックリさん」は、昔ながらの「ポックリさん」とは似て非なるもので、それは時代を映す鏡なのでしょうか。今回初めて『恍惚の人』を読んでみたのですが、やはり独特の読後感はありました(読後雑感はこちら)。今につながる高齢者問題をはじめて大々的に世に問うた小説ですから、この分野のパイオニア的作品と言えます。それだけにその内容は今となっては陳腐化してしまった面もあるのですが、やはり、読み終わったあとは「うーん」とうならざるを得ません。妙にドラマチックにストーリーを盛り上げていくわけでもなく、悲壮さはありません。正直に言うと私は、もっと悲惨な家庭崩壊的展開を見せられるのかも身構えていたのですが、ひたすら淡々と「恍惚の人」を抱え込んだ家族の姿を描きだしており、それ以上でもそれ以下でもない作品です。しかし、発表当時もそして今も、たいていの人はこの本を読み「こんなになるまで生きたくはない」とか、そこまで露骨ではないにせよ、長生きする事に対して疑問を持つようになると思います。新しい形の「ポックリさん」がその発想の先にあるだろうことは想像に難くありません。
この「ポックリさん」やポックリ寺ですが、身近にないものかと探してみたところ、思いがけず、ありました。名古屋市昭和区・八事山興正寺。自宅からは自転車で10分ほどの近所です。五の日には市が出ると言うことなので、せっかくだからそのタイミングで行ってみると、まさに黒山の人だかり。もっとも、集まった人の平均年齢は極めて高く、その辺の盛り場とは明らかに雰囲気が違います。まさに大人の社交場の様相を呈していて、青二才などお呼びでない雰囲気です。しかし、どこかに「ポックリさん」信仰について説明がないかとうろうろしていると、市にやって来たお年よりの一人が、明らかに場違いな若造を見咎めて声をかけてきました。渡りに船とばかりに「ポックリさん」のことを聞いてみると、近隣の高齢者にとっては周知の情報だということです。
それがどうもテレビなどで大々的に取り上げられたものではなく、かなり純度の高い口コミ情報でもあるようで、そういう意味ではまさにお年寄りの都市伝説という感じです。学生時代のフィールドの真似事では農村部の高齢者の生活の聞き取り調査をやった事がありますが、高齢者にとって同輩の動向はかなり関心の高い情報であり、実はかなり周到に構築された口コミのネットワークによって、コミュニティー内の高齢者の動きは驚くほど正確に把握されているようです。若い頃からユイとかエイとかいう互助態勢の中で生活してきた農村社会であるだけにかなり密なネットワークが出来ていたのかもしれませんが、それを差っ引いても、高齢者の口コミネットワークは侮れません。
それはさておき、その時のおばあさんも「ポックリさん」を「苦しまずに往生させてくれる安楽死請負人」のように理解されていたようです。さすがに年齢までは聞きませんでしたが、30年以上前に一大センセーションを巻き起こした『恍惚の人』の主人公世代が順調に歳をとって行けば、目の前にいるおばあさんになるのだと思います。果たして『恍惚の人』当時、この作品を身につまされる思いで読んだ読者層は、日本の現状を想像したいたのでしょうか。「ポックリさん」とお年よりの組み合わせには、悲壮感はありませんが、何か厳粛なものが感じられました。
よくよく考えてみると日本語には、「大往生」という言葉があります。三省堂「大辞林」では、「(天命を全うして)安らかに死ぬこと。また、立派な死に方」説明されています。「ポックリさん」信仰本来の姿をあらわす言葉として、これ以上ふさわしいものはないでしょう。「『ポックリさん』信仰とは大往生を願う信仰」。安楽死を願うのではなく、長生きを厭うでもなく、それが当たり前のことになればよいのですが。作り事でも、老いの風景を見せ付けられると、そう思わずにはいられません。
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