振り返れば振草,花祭の里(東栄町)
奥三河の「花祭」
『奥三河の花祭と国学者』 新刊案内

山水清(地図上の位置)
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鬼 東栄町
東栄町の玄関口 JR飯田線の東栄駅
花祭のマスコット=
「オニスター」が迎える。

岩山
尾籠の岩山(標高:700m)からの眺め
(手前の集落は尾籠〔おろ〕)
町歌「みどりの風も さわやかに
山河えがく 大絵巻」

本郷
トンネルを抜けると広がる本郷平
(右端は(「花祭会館」、その左方の森「大森」には「諏訪南宮神社」がある。)

東栄町
写真左が東栄町別所,右が本郷,
その真ん中を振草川(大千瀬川)が流れている(つなぎ写真)。
左端の建物は東栄中学校
「振草川」は、右方向に流れ,
天竜川に注いでいる。
本郷(本郷平)
西手の弘法山から「東山」を望む。眼下は本郷(本郷平)の町並み(つなぎ写真)
東山手前の森(大森)には、明神山の隣:「諏訪南宮神社」がある。
筆塚
中井大介顕彰と思われる筆塚
(本郷・龍洞院内)2016.09撮影
右側の文字は
「カキノ山本太良左衛門」と読める。

花祭
テーホヘテホヘ 中設楽の花祭
(「花祭」)  (「花祭」))
花祭
中設楽の花祭
花祭
中設楽の花祭 「花の舞」

花祭
月の花祭
花祭
テーホヘテホヘ 月の花祭
(「花祭」)  (「花祭」))
花祭
月の花祭 「おつるひゃる」
本郷
東山中腹から本郷の町並みを望む。
中央の高い所に中学校、
左方に弘法山、右方に花祭会館。
神社
加賀野の子安様と楽壱王神社
子安様の天井画
花祭会館

花祭会館


まつり日は おとゆたけしや 川の上に したら本江(ごう) はれわた流なり
          迢空
本郷

花祭会館=花祭の用具や資料の展示、解説パネルにより、
花祭の歴史と魅力が分かる。

花祭会館の脇に折口信夫(おりくちしのぶ、号は「釈迢空」)の歌碑が建っている。
釈迢空
 歌碑の裏面には、次のような記載がある。
「折口信夫(釈超空)一八八七〜一九五三 国文学者(慶応大学教授) この歌は当地の花祭り等研究に訪れた昭和 十五年に作られたもの まつり日は おとゆたけしや 川の上に したら本江(ごう) はれわた流なり 超空 平成十三年三月吉日建之 東栄町 ふるさと歌会 くるみ句会」 (「超空」は「迢空」が正字。スペース毎に改行)
滝
柿野釜淵の三段ポットホール

柳瀬川原
柳瀬の川原
最奥(西方)の半円形の山は
「御殿山」(標高:789m)
滝
寄近橋の滝とツツジ
森山坂を下った寄近橋から見る
柳瀬川原に注ぐ手前の段々の滝
明神山
明神山(標高:1016m)
東栄町の最高峰
町歌「明神晴れて 昇る陽に
心も真澄む 朝ぼらけ」
振草川
振草川(大千P川)の板敷きの清流
(市場の新橋の上から上流を望む)
御殿山
御殿山(標高:789m)
中設楽東端から御殿山を望む。

山と清流が歴史と文化の源

東栄町の盆踊りと盆歌
盆歌

さんさ-おせおせ 下の関までも
おせば港に さんさ-近くなる
さんさ近くなる
おせば港に さんさ近くなる
(長養院入口近くにある看板)

振草川
振草川(大千P川)の板敷きの清流
(市場の新橋の上から下流を望む)
この下流に下方の滝がある)
 東栄町内を流れる振草川(大千瀬川)は元々天竜川に流れ下る天竜川水系であるが、

 その川の水は、東栄町中設楽に設けられた振草頭首工 (川の水をせき止める導水施設)により一部取水され、宇連ダム貯水を経て豊川に流れ、豊川用水の水不足を補っている。このため、本来の水量より少ない場合がある。
淵
奥三河のナイアガラ「蔦の淵」
「とうえい温泉」 から徒歩1分)
温泉 温泉
早朝の「とうえい温泉 花まつりの湯」
「日本国内でも数少ない天然療養泉」とされている(東栄町のじかん)。 隣には、
宿泊施設「とうえい健康の館」がある。
振草川

鮎釣りは振草川
東栄町の鮎は日本一おいしい

設楽城
中設楽の「城山」にある設楽城跡

別所
別所地区宮平にある別所城跡
(現在の東栄中学校の敷地外)

奈根
奈根・長峯神社上の亀ケ城跡

柱状節理
別所の坂道にある柱状節理

柱状節理
本郷から奈根に至る東山旧道途中にある
柱状節理

柱状節理
東山北端に至る林道端にみえる
柱状節理の露頭
先端部は五角形になっている。
 振草郷の地域では、太古の時代、大きな火山活動があった。
 明神山、御殿山は、デイサイトと呼ばれる溶岩の一種でできているとされる。
 「柱状節理」とは、火山活動によってできた溶岩やマグマが冷えて固まる際にできる五角形又は六角形の柱状の割れ目をいう。
柱状節理

 加賀野から振草川の対岸(柿野側)に見る柱状節理
 この上部にある国道151号線の道路端にも、その露頭が見える。
 中設楽、本郷、市場、下田等の平地は、川の浸食によってではなく、火山活動による流紋岩の岩床によってできあがっている(『東栄町誌』)。
 愛知県北設楽郡東栄町は,江戸時代,天領(幕府領)で「振草郷」と呼ばれ,山間に17の村が点在していた。

 『日記』(議定論日記)を読むと、振草郷は山奥ではあるが、天竜川を背骨にした「三遠南信」の中にあって、この地域の人々は広範囲に繋がりを持ち、貧しく時に対立しながらも、信仰心に富み、活力に満ちた生活を送っていたことが分かる。
(2018年9月発刊『江戸の裁判-花祭の里の天保騒動記-』参照)

 今、この東栄町でも、過疎化、高齢化が進み、65歳以上が過半という「限界集落」化が囁かれるようになっている。限界集落化で何が失われるか。「限界集落」の概念を提唱した大野晃教授によれば、第一に伝統芸能・文化の衰退、第二に山村の原風景の喪失、第三に山の荒廃が挙げられている。地域の再生が喫緊の課題となっている。戦後の一時期は一万人を超した東栄町の人口も、今や江戸・天保時代の人口より少なく三〇〇〇人を切っている。しかも六五歳以上は五〇%を占めるに至っている。〔Web東栄町2025年「人口・世帯」〕
 歴史を知り学ぶことから、過去と現在との「繋がり」が実感される。これまで先人が営々と築き上げてきた伝統と文化の深みを知れば、歴史観も変わり、そこから何がしか、これからの時代を拓く知恵やヒントが得られるのではないだろうか。
 若い頃に読んだE・H・カーの『歴史とは何か』(岩波新書・1970年)に、「歴史とは・・・現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」だとあった。史料や文献をひもとき、過去に思いを馳せ、その時代と対話をしたい。


古地図
三河国の古地図
(天保8年〔1837〕)
振草郷
天保8年〔1837〕頃の
振草郷の村々(幕政村)

古地図
別所村・寄近村の古地図
(文化11年〔1815〕頃)

中設楽
中設楽大坂山麓に残る
大坂杜氏の墓(元禄時代建立)
さい
本郷・岡本のさいの神
病や災害から村人を守る守り神
地蔵
本郷から九十九折りの坂道を登った
与良木峠にある「地蔵」
昔は「首なし地蔵」と呼ばれていた。
隣の石塔は,横死(不慮の死)含霊供養塔)
馬頭観音
峠道の馬頭観音
(天保13年〔1842〕制作)
みな,やさしい表情をしている。
柳瀬川原
議定論騒動のあった柳瀬川原
表に「溺死亡霊供養塔」,
裏に「文化四丁卯年六月八日」
と彫られている。

役所
裁判のために出頭した「赤坂役所」の門
(中泉代官所赤坂出張陣屋)
東海道赤坂宿にあったが,
移築され,現在「法雲寺」に残る。

柳瀬川原
本郷平から森山を見下ろす。
煙突のある建物が湯浅酒造所
左の半円形の山は御殿山。
右下の坂道を下ると柳瀬川原。


寄近橋
森山坂を下った寄近橋から見る
柳瀬川原に注ぐ手前の段々の滝



中設楽

せきれい橋の袂にある
「一称一礼」,
「金光明最勝王経」
と刻まれた石碑(明和4年建立)

中設楽東
中設楽の東側(写真左)に
「設楽城」のあった城山が見える。
右側方面に集落が拡がっている。

中設楽

中設楽にある
「秋葉」を指す道標
(南から北方を望む)

中設楽西

中設楽西の冨田新田
正面の山は,「大坂山」
(北から南方を望む)

中設楽
(廃校前の中設楽小学校)
中設楽

中設楽小学校跡地

中設楽

旧墓地にある石碑・高さ約180cm
(「金光明最勝王経」と刻まれている。)