さかがきいっとうき
新刊案内『坂柿一統記(抄)』
(菅沼昌平著,山本正名校訂・解説) 風媒社から令和2年9月1日発売(2000円+消費税)
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「医は仁術なり」
村医者であった菅沼昌平は,『坂柿一統記』(以下「一統記」という。)の中で,「医は仁の術なり」と書いている。
江戸時代の医者のあり方として,よく「医は仁術」という言葉を聞く。
今から三百年以上も前に書かれた貝原益軒の『養生訓』(1712年著)には,
「医は仁術なり。仁愛の心を本とし,人を救ふを以て,志とすべし。わが身の利養〔利益〕を専らに志すべからず。天地のうみそだて給へる人をすくひたすけ,万民の生死をつかさどる術なれば,医を民の司命と云,きはめて大事の職務なり。」
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とある(「養生訓・和俗童子訓」(岩波文庫)巻第六・124頁)。
「医は仁術」という言葉の出典は,中国・明代の医書『古今医統』の中にあるという(布施昌一「医師の歴史」(1979年・中公新書))
「仁」とは何か。儒教が説く五常の徳「仁・義・礼・智・信」の「仁」である。思いやりの気持ちであり,慈愛の精神である。一言でいえば「愛」・・・。
論語にも,「樊遅(はんち)仁を問う。子曰く、人を愛す。」とある(「論語」顔淵第十二の二二)。
江戸時代,「仁」とは,わが身の利益は顧みず,ひたすら病者を憐れみ救う意味であった。仁術は,理念的には,愛の心を持った医の才能と技術と仁心がなければならない。「医となる者は,まず儒書をよみ,文義に通ずべし」と言われた(前記「養生訓」125頁),
医の理念は,弱者を助ける仁愛の術であり,医者が受け取るのは,医療や薬の対価や報酬ではなかった。薬代,薬礼(やくれい)であり,謝礼金でしかなかった。医者の本意が「仁」であることから,心ある医者は,謝礼の受け取りには相当神経を使ったようである(前記「医師の歴史」)。
その一方,高い薬礼を要求したり,効能のある医薬や処方については他の医者には教えずに秘方として独占したりして,金儲けに走る者も存在した。江戸時代,医者になるには試験も免許を必要なかったので,たいした知識や能力がなくても,医者を名乗り,医者として通用することがあったようである。
江戸時代の医者として有名な「赤ひげ先生」は,こう怒鳴る。
「――医が仁術だなどというのは、金儲けめあての藪医者、門戸を飾って薬礼稼ぎを専門にする、似而非(えせ)医者どものたわ言だ、かれらが不当に儲けることを隠蔽するために使うたわ言だ」
「仁術どころか、医学はまだ風邪ひとつ満足に治せはしない、病因の正しい判断もつかず、ただ患者の生命力に頼って、もそもそ手さぐりをしているだけのことだ、しかも手さぐりをするだけの努力さえ、しようとしない似而非医者が大部分なんだ」(山本周五郎「赤ひげ診療譚」)
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これは小説の中の話で,医者を目指す弟子に対して浴びせた言葉であるが,菅沼昌平は「似而非医者」だったのだろうか。赤ひげはどうだったのか。何を言いたかったのだろうか。
「一統記」の昌平は「似而非医者」ではなかった。なぜか。その実態は,彼が書いた実録『坂柿一統記』の中から読み解くしかない。
(1) 昌平は,医者をめざし,地元の眼医竹内玄洞の下で療法を学ぶが,目の前の患者が亡くなり,重く悩む。「天命の逃れざるところか,自分の医療ミスか」。学ばずして医療を施すことの危うさ,医術を学ぶ必要を痛感する。結婚したばかりであったが,妻と母を残し,信州飯田へと医術修学に旅立つ。相当な覚悟である。また,その後は京都の著名な医師・吉益南涯の門人ともなって,最新の医術を意欲的に学んだ。
(2) 昌平は,医者であるとともに,儒学を学び村民に儒教を教える儒者でもあった(儒医)。昌平の「医」の心構えは,「仁」への強い思いで支えられていた。
(3) 当時,村で傷寒(現在の腸チフス類似の流行病)が流行った時,村人は皆狐狸(こり)の仕業を考え,しきりに祈祷や立願に依存していたが,昌平は,これを信じずに,ひたすら実証的な医術による全快を目指した。吉益南涯の父東洞のいう「人事を尽くして天命を待つ」教えに従っていたに違いない。
(4) 「一統記」には,治療後,昌平が患者から謝礼を受け取らずにいたところ,同伴の懇意の者から受領を勧められ,50銅銭のうち12銅銭しか受け取らなかった話が記されている。その時,同伴者からは,謝礼は「辞するなかれ,不足を請うなかれ」と教えられたという。貧窮の病者に対する優しい心があった。
(5) 昌平は,患者から僅かの謝礼しか受け取らなかったところ,高値の薬種を使用し高額の謝礼を受け取ったという医者の話を聞き,金儲けにつながることには嫌悪感を持った。「人として定まった徳心,志がなければ,医者にはなれない」という論語の言葉を引用し,賤道(昔,医業は賤しい仕事とみられていた。)よりも,まだ商いや農耕の方が増しだと不満を抱いたこともある。
(6) 昌平はまた,吉益南涯同門の者を遠路訪ねて秘薬の伝授を請うたが断られ,自分は「望みがあれば,当家の秘方秘薬残らず伝えるのに」と怒る。そこでは医術の共有を求め,仁と礼の大切さを強調している。どこまでも儒教の教えを大事にする人であった。
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「一統記」には多くの事柄が記され,医療に関する記述はわずかしかないが,以上によれば,誰しも昌平の姿勢に「医は仁術」の一貫した精神をくみ取ることができるのではないだろうか。
次に「養生訓」から引用する。
「医とならば,君子医となるべし。小人医となるべからず。君子医は,人のためにす。人を救ふに,志専一なるなり。小人医はわが為にす。わが身の利養のみ志し,人をすくふに,志し専ならず。医は仁術なり。人を救ふを以って,志しとすべし。」。
ここで君子医の「君子」とは,徳と品性を備えた人格者を意味する。
「医となる人は,まず志を立て,ひろく人をすくひ助くるに,まことの心をむねとし,病人の貴賤によらず,治をほどこすべし。これ医となる人の本意なり」。
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「養生訓」に繰り返し述べられる「医は仁術」の心。昌平は,百年ほど前に書かれたこの書を,読んだのだろうか。「一統記」には読んだとは書かれていないが,「一統記」に「医は仁の術なり」の言葉を記し,養生訓めいた健康保持の秘訣も記述した箇所もある。
昌平は,どこでその心を学んだのだろう。師と仰ぐ地元の眼医竹内玄洞から学び,飯田・江戸の蘭方医本山良純に修学し,京都の吉益南涯に学び,また多くの医書や漢書を読み村民の治療に当たる中で,「仁」の精神を胸に刻み込み,「仁の道」を求め続けたのではなかったか。
昌平は,その道を求めたが,聖人君子でもなかった昌平にとって,道はなお遠かった。昌平は,「これ予の辞世なり」と,次の句を残している。
今入るや まだいらざるや 仁の道
一生願ふ浄土とぞ知る
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この句は文政2年(1819年)の時で,昌平は41歳。辞世の句を残すにはまだ早く,どういう心境だったのだろう。
昌平は,文化14年(1814年)に三河で初めての種痘を長男に実施したが,文政3年(1820年)2月,その長男(跡取り)を病死させてしまう。懸命の治療をしたが,種痘の失敗か,療治の不十分さがあったのではないかと自らを責め悔やむ。
(注) 当時は,ジェンナーが開発した牛痘法ではなく,天然痘患者の膿やかさぶたを利用して免疫を得させる人痘法であり,安全性,確実性は十分でなかった。
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その後,昌平は,息子を失った寂しさから生活が荒れたことを告白している。
昌平が亡くなったのは,弘化3年(1846年)享年68であった。
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