実務の友     同一交通事故から生じた物的損害賠償債権相互間の相殺の許否
(2002.6-2020.4)
 同一交通事故によって生じた双方の物的損害賠償債権について,
 相互に相殺することは認められるか。


 これまで判例,学説に相違があったが,民法改正(令和2年[2020年]4月1日施行)により,その相殺が認められるようになった。

旧民法
(不法行為により生じた債権を受働債権とする相殺の禁止)
第509条 債務が不法行為によって生じたときは、その債務者は、相殺をもって債権者に対抗することができない。

改正民法
(不法行為等により生じた債権を受働債権とする相殺の禁止)
第509条 次に掲げる債務の債務者は、相殺をもって債権者に対抗することができない。ただし、その債権者がその債務に係る債権を他人から譲り受けたときは、この限りでない。
1 悪意による不法行為に基づく損害賠償の債務
2 人の生命又は身体の侵害による損害賠償の債務(前号に掲げるものを除く。)



(旧民法時の解説)
 民法509条は,「債務カ不法行為ニ因リテ生シタルトキハ其債務者ハ相殺ヲ以テ債権者ニ対抗スルコトヲ得ス」と規定し,相殺を禁止している。
 この趣旨は,(1)被害者に現実の弁済によって損害の填補を受けさせることと(2)不法行為の誘発を防止することにあるといわれている。 

 最高裁判例は,双方の不法行為によって生じた損害賠償債権について,自働債権,受働債権が別個の不法行為によって生じた場合はもちろん,自動車衝突という1個の事実によって生じた場合でも(後記判例1),相殺は許されないとする。学説(通説)も,この判例を支持している。

 しかし,自動車衝突事故のように同一の事実から双方に損害賠償請求権が生じた場合については,民法509条の適用を否定し相殺を認める学説が現れ(加藤・不法行為法255頁,下記参考文献4参照),これに沿う学説や下級審判例も見受けられるようになった。相殺を認めるのは,(1)上記のような場合にまで相殺禁止とすると,一方の不法行為者のみの保護を重視することになり片手落ちであること,(2)同条による不法行為誘発防止の趣旨は,上記の場合には当てはまらないこと,(3)相殺を許した方が紛争の一体的解決に適すること等の理由による。

 こうした中,最高裁は,昭和49年に,同一の交通事故によって生じた双方の物的損害に基づく損害賠償請求権相互間における相殺について,これも許されないと判断した(後記判例2)。受働債権が人損,自働債権が物損の場合に限らず,物損相互間でも相殺は許されないことを明確にした。学説の多くは,この判例には反対している。

 その後,最高裁判例は,昭和54年に,上記判例を再度確認し,同一交通事故によって生じた物的損害賠償債権の相互間の相殺が許されないとして(後記判例3参照),相殺否定説を明確にした。
  この判決には大塚喜一郎判事の反対意見があり,「人的損害については,人の生存がかかわるものであるから現実の弁済を受けさせる必要があるとすべきであるが,物的損害にあっては,右のように解すべき合理的理由を見出しえないから,本件のような双方的不法行為によるもので,受働債権が物的損害賠償債権の場合は,民法509条は適用されないと解するのが相当」とし,限定的に相殺を肯定している。

 最高裁として前記判例を再確認した実務上の意義と影響は大きいと思われるが,その後20年以上が経ち,社会や法制,国民意識の変化,交通紛争解決の定型化が進み,交通裁判の迅速解決の要請等が強くなってきていることから,今日,実務家の間では判例の見直しを求める声もある。
 とりわけ簡易裁判所における少額訴訟では,紛争を1回で一体的に解決することが衡平の観点と紛争の迅速解決に資すること,庶民感覚にも適うことから,改めて問題意識が持たれているところである。

 ところで,民法509条は,立法趣旨からみても,不法行為の被害者の保護を目的とする社会正義に関する規定であり,強行法規と解されている。したがって,同条に違反する内容の契約をあらかじめ締結した場合,法律上無効と言わざるを得ない。
  しかしながら,既に発生している不法行為による損害賠償債権について,当事者が相殺契約を締結することは認められている(大判大正元年12月16日民録18輯1038頁参照)(後記参考文献4参照)。

 交通事故に基づく物損についての損害賠償請求事件の場合,判決となると,前記判例の趣旨から消極説が多いと思われるが,和解・調停で解決を図る場合においては,簡明直截な紛争の一回的解決,当事者間の公平,互譲による柔軟な紛争解決を図り,当事者の納得も得やすいことから,双方の損害額,過失割合を確認した上,相殺を認めて残額を支払う形式で解決を図ることが多いようである(文例は,後記参考文献5)。

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【判例】
(判例1)
 最高裁昭和32.4.30第3小法廷判決(民集11巻4号646頁)
 「上告人の負担する債務が上告人自身の不法行為によるものでないとの理由により,黒田の自動車破損による損害賠償請求権をもってする相殺は許容すべきであるとして,民法509条の擬律錯誤を主張する。しかし民法715条の使用者責任が使用者自身の過失責任を理由とするか,純然たる結果責任であるかの問題は別とし,仮りに後者であったとしても不法行為による債務であることに変りなく,民法509条の条文も彼此区別していないのみならず,同条の趣旨が不法行為の被害者に現実の弁償済によって損害の填補を受けしめようとするにある以上,これを除外すべき何等の理由がなく,所論のように自己の不法行為でないとの理由により同条の適用を免れ得ないと解すべきであるから,これと同趣旨の原判決の判断は正当である。  論旨はさらに自働債権が不法行為による損害賠償請求権であること等の理由をあげて,本件に同条を適用すべきでないと主張するが,右に述べた同条の立法趣旨に照らせば,所論はいずれも採用に値しないこと明かである。」

(判例2)
 最高裁昭和49.6.28第3小法廷判決(民集28竄T号666頁)
 「民法509条の趣旨は,不法行為の被害者に現実の弁済によって損害の填補を受けさせること等にあるから,およそ不法行為による損害賠償債務を負担している者は,被害者に対する不法行為による損害賠償債権を有している場合であっても,被害者に対し,その債権をもって対当額につき相殺により右債務を免れることは許されないものと解するのが,相当である(最高裁昭和30年(オ)第199号同32年4月30日第3小法廷判決・民集11竄S号646頁参照)。したがって,本件のように双方の被用者の過失に基因する同一事故によって生じた物的損害に基づく損害賠償債権相互間においても,民法509条の規定により相殺が許されないというべきである。」

(判例3)
 最高裁昭和54.9.7第2小法廷判決
 「本件のように上告人,被上告人双方の各被用者の過失に基因する同一事故によって生じた物的損害に基づく損害賠償債権相互間において民法509条の規定により相殺が許されないことは,当裁判所の判例(昭和47年(オ)第36号同49年6月28日第3小法廷判決・民集28巻5号666頁)とするところであり,このことは,双方がいずれも運送業を営む会社であっても同様であるというべきである。」
 大塚喜一郎裁判官の反対意見の抜粋
「 私は,当事者双方の過失に起因する同一の交通事故によって生じた物的損害に基づく損害賠償債権相互間においては,相殺が許されると解すべきものと考える。
 多数意見は,上告理由第一点について,右債権相互間の相殺は,民法509条の規定により許されないとして,その旨を判示した当裁判所の判例(昭和47年(オ)第36号同49年6月28日第三小法廷判決)を引用する。ところで,同条が不法行為債権の債務者は相殺をもって債権者に対抗することができないとする趣旨は,不法行為の被害者に現実の弁済によって損害の填補を受けさせること及び不法行為の誘発を防止することにあるとされており,右判例も,その旨を説示するのであるが,この法理を本件のような双方当事者の過失に起因する同一交通事故によって生じた不法行為(以下,双方的不法行為という。)債権相互間の場合に適用することは果たして当を得た解釈といえるであろうか。判例を踏襲する多数意見によるとすれば,双方的不法行為者のうち先に損害賠償請求権を行使した原告は,現実の弁済を受けることができるのに対して,同一事故に基づく損害賠償請求権を有する被告は,原告の右請求に対抗する手段を封ぜられたまま,現実弁済の履行を強制される不合理な結果を生じ,更に,右原告が被告から現実弁済を受けた後に支払能力を喪失した場合には事実上の不公平な結果を生ずることとなる(被告は反訴又は別訴の提起によって相殺禁止の不都合を避けられるとして判例を支持する考え方については,被告が反訴又は別訴によって債務名義を得れば,結局,相殺を許す場合とどれほどの径庭もないとこととなるであろう。)
 現在多発しつつある自動車事故による不法行為は,一般に,過失によるものとされているが,本件の如く双方的不法行為による反射的な作動による運転ミスの場合,未熟な機械的運転ミスの場合など,伝統的な過失概念ではまかないきれないものがあり,これらの事故は,性質上,損害賠償債権の相殺を許さないことによって誘発を防止することを期待できないものである。したがって,民法509条による新たな不法行為の誘発を防止しようとする法意は,故意または伝統的な概念での過失による不法行為の再発を防止する意味で是認せられるとしても,本件のような双方的不法行為による事故発生を防止する現代的意義を喪失しているというべきである。
 もっとも双方的不法行為の場合であっても,それによって生じた損害のうち治療費,逸失利益等による人的損害については,人の生存がかかわるものであるから現実の弁済を受けさせる必要があるとすべきであるが,物的損害にあっては,右のように解すべき合理的理由を見出しえないから,本件のような双方的不法行為によるもので,受働債権が物的損害賠償債権の場合は,民法509条は適用されないと解するのが相当であり,当裁判所の判例は,この限度において変更されるべきである。」

【参考文献】
1 判例1について
 ・ 最高裁判例解説民事篇昭和32年89頁(北村解説)

2 判例2について
 ・ 最高裁判例解説民事篇昭和49年度28頁(井田友吉解説)

3 判例3について
 ・ 最高裁判例解説なし
 ・ 判例タイムズ407号78頁(本判例紹介)
 ・ 判例時報954号29頁(本判例紹介)
 ・ 錦織成史「同一交通事故から生じた物的損害賠償債権相互間の相殺」別冊ジュリスト(No.137)「民法判例百選(第4版)」96頁
 ・ 神田孝夫「同一交通事故によって生じた物的損害賠償債権相互間の相殺」判例タイムズ439号134頁
 ・ 潮海一雄「運送業者同士の物損の相殺禁止」別冊ジュリスト(No.152)「交通事故判例百選」178頁

4 不法行為による損害賠償請求権と相殺契約
 ・ 「注釈民法(12)」(有斐閣,1970年)434頁(乾昭三担当)
 ・ 加藤一郎「不法行為(増補版)」(有斐閣,1976年)254頁
   「双方が自動車の衝突のような同一の事実から生じたものである場合には,相殺を禁止する理由がなく,むしろ相殺を認めるのが妥当だと思われる。なお,契約によって相殺をすることはもとよりさしつかえない(大判大正元年12月16日民録18輯1038頁)。」
* 大判大正元年12月16日民録18輯1038頁(判決要旨)「不法行為ニ因ル債務ノ相殺ヲ以テ債権者ニ対抗スルコトヲ得サルモ当事者ノ契約ヲ以テ之ヲ約スルハ法律ノ禁スル所ニ非ス」
 ・ 前田達郎「民法6(2)」(青林書院新社,1980年)402頁
   「当事者双方が,契約によって,不法行為にもとづく賠償請求権を受働債権として相殺し消滅させることは,509条に無関係である。」
 ・ 内田貴「民法3(債権総論・担保物権)」(東京大学出版会,1997年)232頁
   「不法行為から生じた損害賠償債務を受働債権として行う相殺も,相殺契約によれば可能である。」
 ・ 奥田昌道「債権総論(増補版)」(悠々社,2000年)576頁
   「相殺契約については,509条は適用されない。」

5 和解条項
 ・ 裁判所書記官研修所実務研究報告書「書記官事務を中心とした和解条項に関する実証的研究」118頁(法曹会)
  【24】 双方の過失により発生した衝突事故による損害賠償債権の相殺を約した事例
 原告と被告は,本件交通事故による車両損壊の損害賠償債務として,被告は,原告に対し,金○○円の,原告は,被告に対し,金○○円の各支払義務のあることを相互に確認する。
 原告と被告は,前項の両債権につき対当額をもって相殺する。
 被告は,原告に対し,前項による残債務金○○万円を令和○年○月○日限り原告の○○銀行普通預金口座(口座番号○○○○)に振り込む方法で支払う。
 被告は,原告に対し,本件交通事故について第1項のほか,原告の人身傷害による損害賠償債務として金○○万円の支払義務のあることを確認する。
 被告は,原告に対し,前項の金員を令和○年○月○日限り第3項の方法で支払う。
 原告において,前項の金員について直接請求の方法により自動車損害賠償責任保険から支払を受けるときは,被告はその手続に協力する。
 原告と被告は,本件交通事故に関し本和解条項に定めるほか,何らの債権債務のないことを相互に確認する。
 訴訟費用は各自の負担とする。
漢数字は算用数字に修正し,注記は省略した。




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