●法の支配と本来の憲法九条
  政府、国民の国防義務

 

 日本も米国や英国のような「法の支配」が貫かれる立派な自由主義国家でなくてはならない。法は議会で制定される法律とは異なる。「英国の憲法原理である『法の支配』の〃法〃とは、元来はゲルマンの各部族に共通する、いわゆる『永遠の真理』で、人間の意志を超越した神の啓示のようなものであったが、英国でのみこの〃法〃が『国の共通的一般慣習法』、つまり、コモン・ローに発展したのである」(中川八洋教授『正統の憲法 バークの哲学』六四頁)。法の支配とは、国王も大統領も政府も議会も裁判官も国民も法の下位にあり、法の支配を受けるということである。法に反する法律は無効だ。だから法の支配の思想と、「悪い法律」であっても、それに基づいてなされた行政を「合法」とする「法治国家」の思想は、本質的に異なる。後者の典型は、ナチスドイツのユダヤ人に対するホロコーストだ。

 米国は立憲主義と法の支配の思想に基づいて、理想的な憲法を制定した。そして「米国はこの〃法〃の一つとして憲法を位置づけた」(前掲書二二六頁)のである。

 法が国の政府と政治家に、国家と国民を守る義務を課しているのは自明すぎることである。法が国民にも国家防衛の義務を課していることもまた明白だ。明治憲法という主権を排した立派な憲法を見れば、そのことに疑問の余地はない。米国憲法でもしかりである。

 だが今日の日本政府と日本国民の法の支配の思想や立憲主義は、極限的に脆弱になってしまっている。それは、憲法九条二項を自衛のための軍隊の保有も禁止したもの、と完全に誤った亡国的な解釈を続けてきたことに顕著に現れている。憲法一条に法の支配・立憲主義に背反する「国民主権」が謳われていることでも明らかだ(国民主権が法の支配・立憲主義に敵対することは前掲書一四二頁以下参照)。

 「法の支配」を厳守する真の保守主義者の芦田均氏は、一九四六年の憲法制定議会で、九条二項の原案の冒頭に「前項の目的を達するため」の文言を入れる修正を行うことによって、自衛のために軍隊を保有できるようにし、主権回復後の日本の自衛権を米国等と法的に同等にしたのであった。この芦田修正はGHQのマッカーサー元帥も承知していたし、十三ヶ国で形成された日本を管理した連合国極東委員会もまた、原案と全く異なった九条になったことを承知していたのである。これがもともとの憲法九条である(この点については私の0一年十一月十日付他の文を参照して頂きたい)。

 吉田茂内閣をはじめ歴代内閣の九条解釈は、法の支配違反、憲法九条違反なのだ。国を亡ぼす政治的大〃犯罪〃である。しかし前記の事実が、日本の保守系マスメディアによって明らかにされ、広く国民に伝えられることは一度もなかった。憲法学界は内なる侵略勢力たる左翼が占領しているが、彼らはこの事実を熟知しているはずだ。だが知らないふりをして、祖国の社会主義国に日本を侵略させて日本を社会主義国化するために、周知の九条解釈と平和憲法論をプロパガンダしてきたのである。日本の国防を不可能にし、武装解除するためだ。保守勢力の思想的敗北以外の何者でもない。

 保守マスメディア、政治家、識者は九条改正を主張してきた。だが、もし彼らが「首相と内閣は従来の亡国的な九条解釈を直ちに破棄し、本来の九条に復帰せよ。それは、法の支配、九条の支配を受ける首相・内閣の最大の義務だ。国民はこの国防義務を果さない政治家を厳しく批判し、選挙で罰していかなくてはならない。なぜなら国民にも国防義務があるからだ」と正しく主張してきていたら、日本はとっくの昔に正常な国家になっていたはずだ。保守勢力の思想的弱さが、半世紀以上も時間を無駄にしてしまったのである。首相が義務を果せば、一日で憲法九条、自衛権は正常化するのだ。

                 二00三年六月三日記


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