水無月の雨が、すべてのものから色を洗い流している。せっかくの絢爛な塔も、洗練された屋敷も、どんよりとした重い空気に包まれていた。しかし、初めて都風の雅な文化を目のあたりにした徳寿丸にとっては、目に映るものは何でも珍しく、光り輝いて見えた。もともと陽気な性格の徳寿丸だったが、山口に入ってからはさらに饒舌になり、同行してきた磯兼景道や井上春忠を苦笑させるくらいしゃべりまくっていた。
「竹原も美しい所と思ったが、山口の美しさは格別じゃ。」
普段は、十三歳とは思えないほどの利発さと落ち着きで器の大きさを感じさせる徳寿丸だが、今日ばかりは少年らしく無邪気に見えた。
「やれやれ、人質として赴いたというのに、随分と陽気なことですな。」
春忠の言葉に、徳寿丸はきょとんとして答えた。
「人質といっても、何も
取って食おうというわけではあるまい。兄上とてこの山口で暮らされたことがあるのじゃ。いい機会と思って、山口の文化をしっかり学ぼうと思うぞ。」
けろりとしている。
「徳寿丸さまには負けまする。」
そう言った春忠と景道の視線が絡み合った。どちらともなく笑った二人は、春忠が毛利からついて来た守役、景道は竹原小早川家家臣と立場は違うものの、ともに徳寿丸の人柄に惹かれている。
もう少しで大内館にたどり着くというところで、あらぬ方から徳寿丸を呼ぶ声がした。
「徳寿丸さま。」
声はちょうど徳寿丸の真上から聞こえてきたので、まるで空から聞こえてきたような気がして徳寿丸はどきりとした。しかし、上を見上げてさらに驚いた。夏椿の木に、薄紅色の着物をきた幼い少女が座っていたからだ。夏椿の白い花と、少女の着物、苔の緑がそれぞれに鮮やかで一枚の絵のように目を引いた。少女はにこりともせず、くりくりした黒曜石の瞳をまっすぐに徳寿丸に向けていた。なぜ自分の名前を知っているのかいぶかしく思いはしたが、徳寿丸はこの少女がかなりびしょぬれであることの方が気になった。徳寿丸は馬を止め、少女に話しかけた。
「そんなところでどうしたのじゃ。おてんばが過ぎて、降りられなくなったか?そんなに濡れてしまっては、風邪を引いてしまうぞ。」
人なつっこい笑顔の徳寿丸をじっと見つめたまま、少女は口を開いた。
「待ってたの。」
「‥‥そんなところで、誰を?」
「徳寿丸さまを。」
「‥‥え?」
困惑した徳寿丸に向かって、少女はさらに続けた。
「助けてくれる?私を。」
少女は感情のない口調で言った。正直、徳寿丸は謎かけのような言葉を投げるこの少女の真意ははかりかねていた。しかし、その瞳は言葉とは裏腹に、すがるような光をおくっているように徳寿丸には思えた。
この娘をたすけなければ――
徳寿丸の行動は速かった。
「あっ、徳寿丸さま」
春忠が言うより先に徳寿丸は馬から下り、少女のいる木に登りはじめた。兄・元春と野を駆け回って育ったやんちゃな徳寿丸は、当然木登りも得意である。すぐ、少女の元にたどり着いた。
「もう大丈夫だよ。私の後からゆっくり降りておいで。下から支えるから。」
少女は頷き、徳寿丸に支えられながら木を下りた。途中、足を踏み外しそうになり、見ているものをひやりとさせたが、徳寿丸がしっかり受け止め、けがもなく無事に地面に立つことができた。
「よかったなあ。これからはあまり、無茶するなよ。」
徳寿丸が優しく少女に言うと、始めて少女は笑った。その愛らしさに、徳寿丸はどきりとした。心臓がせっかちに動いていた。体は濡れて冷たいのに、顔だけが妙に熱い。
「徳寿丸さま、おけがはありませんか。」
「まったく、無茶をなさいますなあ。」
春忠と景道が徳寿丸に走り寄った。しかし、徳寿丸は少女の肩を支えたまま、視線を外せずにいた。少女は自ら、すっと体を離して言った。
「やっぱり、あなたは私を救ってくれる人なのね。」
「えっ‥‥さっきから、何の話をしてるんだい?」
「そのうちわかるわ。ありがとう、徳寿丸さま。すぐにまた、会えるわ、きっとね。」
姫はいたずらっぽく笑い、去っていった。
「おかしな子じゃ。こんなところで木登りとは。着ているものはかなり立派だったが。」
「どこかの姫君なのかのう。」
春忠と景道が呟いたが、徳寿丸の耳には入らなかった。心はすっかり、芯の強さと、隠された脆さを感じさせる幼い少女が心を埋めつくしていた。
木からこぼれ落ちた白い花は、緑の静寂の中でしっとりと雨露を含み、枯れゆく前の一瞬の輝きを放っていた。
徳寿丸は大内義隆に歓迎され、内藤興盛の屋敷に預けられることになった。義隆は、隆元の生真面目さとは違う徳寿丸の明るさがいたく気に入ったようで、何やかやと大内館に呼んでは、能や雅楽、茶会や歌合わせなどを徳寿丸に見せた。徳寿丸もそれらをよく吸収し、義隆を喜ばせた。しかし、徳寿丸は聡い少年である。もちろん、文化としてのそれらの催しには興味もあり、学ぼうとした。だがその一方で、義隆の遊興三昧と、それを苦々しく見ている陶隆房・内藤興盛・杉重矩らの重臣の心が離れていることを冷静に観察していた。
大内は、すでに傾いている。
内から崩れるか、他家に攻められるか。いずれにしても、もはや長くあるまい。徳寿丸の眼力はそこまで見抜いていた。
一度だけ、義隆を試してみたことがある。
「お屋形さまには、この徳寿丸、さまざまなことを教わりました。しかし、いまだにお屋形さまが教えて下さらぬことがござります。」
「何と、わしは惜しみなくそちに学ばせておるというのに、疑っておるのか?それは何じゃ。言うてみよ。」
義隆は心外、とばかりに聞いてきた。
「はい、それは武芸にござりまする。」
とたんに、義隆の優雅な笑みが消え、露骨に嫌悪を示した。そして、
「そのようなこと、わしは教えぬ。学びたければ、隆房にでも聞けい。」
と言い放ってそそくさと逃げてしまった。
義隆自身のことは嫌いではない。教養人としてはすばらしいと思っているし、尊敬もしている。また、慣れない山口での生活を人一倍気遣ってくれる優しさもあった。しかし、武士として、多くの家臣を抱える大名としては残念ながら習うところはない。徳寿丸とて幼いながらも当主であり、家臣をまとめなければ、という自覚も責任も持っている。今の義隆は、国を治める能力に欠けているのだ。 大内はいずれ滅びる。
そのことを考えたとき、徳寿丸の胸は少しだけ痛む。義隆に対する同情ではない。例の少女のことだ。
あの時、徳寿丸の心を波立たせた少女は義隆のただ一人の娘、麻姫だったのだ。麻の母方の実家は内藤家で、大内館を嫌っている麻は内藤屋敷にちょくちょく顔を見せた。それで徳寿丸は麻と再会することができたわけだ。
『大内の姫は陰気で笑わぬ姫』と、城下では噂されており、それは徳寿丸の耳にも入っていた。しかし、徳寿丸の前では麻はよく笑い、話をした。だが、確かに他の人にはあまり笑顔を見せなかった。乳母の操や興盛の娘・寿といったごく一部の人としか関わろうとしなかった。徳寿丸は操に、姫は昔から人見知りが激しかったのかと聞いてみたことがある。操は困った顔をして、小さいころはむしろひとなつっこかったんですけどね、と言いよどんだ。どうも、麻の母親の死と何か関わりがあるらしいが、そのことについては誰もが口を閉ざした。
それにしても、どうして自分には簡単に防御をといてみせたのか――麻の心の底は、まだまだ徳寿丸には見渡せない。
麻は草花を見るのが好きで、徳寿丸はよく一緒に出掛けた。花の知識にかけては麻のほうが上で、徳寿丸はいつも聞き役だったが、美しい花を見るのも、名前を知るのも楽しかったし、何よりも麻の生き生きとした姿が見られることがうれしかった。
「見て見て、撫子がとってもきれい。あそこのが藤袴でしょ、それから、あのまるいのが千日紅。」
「ほんとによく知ってるね。あ、あのうす紫の花は?」
「あれは葛の花よ。」
「へえ、そうなのか。きれいだなあ。」
二人ではしゃいで走り回っては、野原に寝そべって青空と流れて行く雲をぼんやり眺めて過ごした。
そんな徳寿丸の様子を、春忠と景道は温かく見守っていた。だが、二人の心の中には多少の不安もあった。やはり大内家の姫が小早川分家と縁組されるとは考えにくい。それでも、今はそんなことを考えることもないとも思っていた。
しかし、徳寿丸の気持ちが麻に傾いていくことを誰よりも恐れ、心配している人物がいた。ずっと徳寿丸に仕えてきた、忍びの平太だった。平太は徳寿丸の人格と才能をいち早く見抜き、惹かれた。それで、徳寿丸の忍びとして働いてきたのだ。また、四つ年上と年が近かったこともあり、これまで相談相手ともなってきた。そんな平太だったから、麻にのめり込むことが危険と感じられたのも無理はなかった。
「少し、親しくなりすぎではありませんか。」
竹原の動きについて報告した後、平太は強い口調で言った。
「親しくしてはいけないのか。」
「大内はいずれ滅ぶ、と仰せになったのは殿ですぞ。」
平太はたたみかけた。その勢いにも圧倒されず、徳寿丸は切り返した。
「そうじゃ。でも、姫のことは私が守る。」
「無理を申されますな。どうせ姫が小早川へ嫁ぐことはあり得ないことです。それは殿も――」
「平太、それ以上言うと、嫌いになるからな。」
徳寿丸は叫んで、平太の言葉をさえぎった。
「‥‥分かってはいるんだ。でも、止められない。だから、何も言うな、平太。」 だからこそ心配なんだ。平太はそう言いたかった。でも、いつもそれは飲み込んで、徳寿丸の傍で働き続けた。何かあったときのために。
徳寿丸が山口へ来てから半年になろうとしていた。いつしかすっかり季節は秋になり、錦繍が美しく山口の町を彩っていた。徳寿丸はいつものように、内藤屋敷の自分の部屋で書を読み耽っていた。ふと人の気配を感じて徳寿丸が振り返ると、麻が柱にもたれてこちらを見ていた。徳寿丸は笑って、
「どうしたのです。声もかけないで。」
と、書を閉じて麻のほうに向き直った。ところが、麻は徳寿丸と目を合わせず、ぼんやりと庭のほうへ視線をそらしてしまった。徳寿丸と遊ぼうと思ってここに来たはずなのに、なんだか迷っているような、所在ない印象を受けた。徳寿丸は自分が書に夢中になっていて、麻に気づかなかったことで気を悪くしたのかと思って言った。
「麻姫、いらしていたことに気づかなかったことを怒っておられますのか?だとしたら、あやまりますから。」
「違うの。」
徳寿丸が言い終わる前に、麻はものすごい勢いで振り返り、叫んだ。その後また、逡巡するように遠い目をして何かを考えていた。麻の迫力に圧倒された徳寿丸は、どうすればいいのかわからず、ただ麻を見つめていた。
やがて麻は、突然徳寿丸のほうへ走り寄り、徳寿丸の肩をつかんで、一息に言葉を吐き出した。
「徳寿丸さま、すぐに吉田へ帰りなされ。母上が亡くなられるやもしれないのです。父上に言えば、一時的に吉田へ戻ることくらいは可能でしょう。母上に一目、会って来なされ。」
「なんだ、そんな話ですか。母は私が吉田にいたころから病がちで、確かにここのところ思わしくないようです。でも、帰れと言われても、そう簡単にはいきますまい。」
「そんなこと言ってる場合じゃないわ。徳寿丸さまのお願いなら、父上もきっと折れてくれるはず。とにかく、何とかして帰るのよ。」
「でも――」
「‥‥徳寿丸さま、麻を信じてくださいますか?」
麻は張りつめた眼差しで徳寿丸を見つめていった。
「実は‥‥麻には生まれたときから、不思議な能力があるの。」
「‥‥?」
麻は急に徳寿丸の肩をつかんでいた手を離し、縁側のほうへ歩きながら話を続けた。
「夢で、先に何が起きるかを知ってしまうのです。今までも私の夢は、先に起こることを見せ続けてきたの。そして、今まで外れたことはない‥‥。」
「じゃあ、姫は私の母が死ぬ夢を見たのですか?だから、一目会うために吉田に帰れと?」
麻は後ろを向いたまま頷いた。
「そうだったのか。だから、今日は何か言いづらそうにしていたんですね。」
徳寿丸はそう言って立ち上がり、麻のほうへ歩み寄った。麻はびくっとして体を引いたが、徳寿丸は麻の手をそっと握って笑顔を見せた。
「姫、よく教えて下さいました。母はもう長くないだろうとは思っていました。でも、私は人質としてここに来ている身、もう二度と、生きている母と話はできぬと諦めていました。もし、お屋形さまにお許しいただけなければそれまでですが、思い切って頼んでみます。」
「とにかく、すぐお帰りなされ。」
そう言うと、麻はそっけなく徳寿丸の手を離し、そのまま小走りに去ってしまった。
幸い、徳寿丸は義隆から許しをもらい、大内家臣の見張り付きであったが吉田へ帰ることができた。徳寿丸が吉田に着いたときには、すでに母は危篤であった。しかし、母と話をすることはできた。
「まあ、不思議なこと。徳寿丸の幻が見えるわ。」
「いやだなあ、母上、本物の徳寿丸ですよ。義隆さまが一日だけ、山口から帰して下さったのです。」
「でも、本当によく帰って来てくれました。今度はだめなような気が、自分でもしていたの。どうして分かったのでしょうね。やっぱり、不思議なこと。」
母は苦しい息の下で、気丈に笑って言った。
「母上、それは違います。私は死ぬ前に一目、と会いに来たわけではありません。母上が私の顔を見て、元気になってくれないかと戻って来たのです。さあ、早く元気になってたくさん話をしないと、また山口に帰ってしまいますぞ。」
徳寿丸は懸命に笑顔を作って、母を励ました。
だが、麻の予言どおり母は翌日、眠るように安らかに息を引き取った。徳寿丸はもちろん悲しかったが、一方で麻を信じていたから、母はもう助からないと覚悟もしていた。それでもあふれる涙は止まらず、その日は床の中で一晩中泣いた。 母の葬儀が終わり、徳寿丸は再び大内へ戻った。麻に会ったらお礼を言おうと、麻が内藤屋敷へ現れるのを待っていたが、一向に麻は来なかった。もどかしい気持ちのまま、半月が過ぎた。徳寿丸が大内館に赴くと、偶然麻と庭園で鉢合わせた。徳寿丸は屈託のない笑顔で麻に話しかけた。
「ああ、姫。やっとお会いできました。このごろは内藤屋敷にもあまりおいでにならないので、ずっとお礼を言いそびれてしまったこと、心苦しく思っていました。」
麻は徳寿丸を避けるようにその場を立ち去ろうとした。しかし、徳寿丸は麻の後を追いかけた。
「姫、どうして私と話してくれないのです?何か、気に障るようなことでもしましたか。」
麻は立ち止まり、やっと徳寿丸の方を見た。その顔は何だか変な表情に、徳寿丸には思えた。
「怖くないの、私が。」
「怖くなんかないさ。どうして?」
「だって、私は先のことを言い当ててしまうのよ。しかもいいことじゃなくて、悪いことのほうが多い。私のこの能力を知った人はたいてい『気味が悪い』って言ったわ。」
「でも、言わなかった人もいたんでしょう。」
「それは、いたけど――」
そうか、麻の顔が変だと思ったのは、麻が泣きそうなのを堪えていたからなんだ。徳寿丸は一生懸命肩肘を張っているこの小さな姫に、優しく微笑んで言った。「徳寿丸は姫を気味が悪いなんて思ってません。能面師が能面を作る才を持っているのと同じで、姫は少しだけ、先のことを知る才を持っている。そういうことだと思いますよ。だから、私には意地を張らないで下さい。」
見る間に、麻の目から大粒の滴がぽたぽたと落ちた。それはしだいに川となって、麻の頬を流れていった。
「昔、母上が死ぬ夢を見たの。灯籠が倒れて、下敷きになって――それを父上に言って、注意してもらおうとした。でも、取り合ってもらえなかった。やっぱり母上が死んだ時、父上は私に言った。『そなたがあんな不吉なことを言ったから、母上は死んだ』って。父上も悲しくてわけが分からなくなってたと思う。でも、私はその言葉がすごく重くて、苦しくて――」
「もういいよ。」
泣きながら話す麻の頭をなでて、徳寿丸は言った。普段は背伸びしている麻が、今はとても頼りなく、小さく感じられた。徳寿丸は、麻には勝てないな、と心から思った。
年が明け、桜の季節がやってきた。徳寿丸は義隆の加冠で元服し、義隆の一字と故・小早川興景の一字をそれぞれもらい、隆景と名乗ることになった。義隆は隆元の時と同じくらい祝いを贈ってくれたし、吉田の父や沼田小早川家からも祝いの品が届いた。
元服の式の後で、退出する前に隆景は義隆に呼び止められた。
「隆景は、麻と仲良うしておるようじゃが。」
どきりとした。どう答えたらよいのか。
「はい、年が近いので、兄妹のように親しくさせていただいております。」
義隆は特にその「親しさ」については触れず、続けた。
「麻が明るくなってきたのはそなたのおかげじゃ。礼を申す。」
「そんな、お屋形さま。お礼などおっしゃられては、もったいのうござります。」「いや、本当にそう思っておるのじゃ。わしは、麻とどう接してよいのか、わからぬからのう。」
それを聞いた隆景は、もしかすると麻も義隆も不器用であるゆえにすれ違ってしまっているのでは、と思った。
「優しく笑いかけてさしあげれば、きっと通じ合えましょう。」
隆景は義隆がそれほど麻を疎んじていないことに安心した。
「まあ、そうやっておられるとやはり隆元さまにも似ておられまするなあ。すっかり立派になられて。」
寿は嬉しそうに口元をほころばせながら、隆景を眺めていた。
「寿さまには、実の弟以上にかわいがってくださり、感謝いたしております。」「いいえ。これからも、姉と思って何でも相談してくださいね。」
あたたかい笑みをたたえている。寿は、ただ穏やかに笑っているだけで周りにいる人を和ませる。隆景は、兄・隆元から、
「寿どののような、控えめで賢い女子はおらぬ」
と、山口に来る前に何度も聞かされていたし、実は二人は秘密にしているつもりだろうが、文をやりとりしていることも知っている。いずれ、義隆が認めれば寿は本当に隆景の姉になるのだ。そんな思いもあって、寿の前ではうちとけて話してしまう。
自分と、麻姫はどうなるのか‥‥
義隆との話で少し期待できるかとも思ったが、家格を重んじる義隆が、自分のたった一人の姫を小早川分家になど、嫁に出すはずがない。あっけらかんとして陽気な隆景でも、さすがによい策は思いつかない。 ぼんやり、そんなことを考えながら庭の池の周りを歩いていると、麻が足早に近づいてくるのに気がついた。
「姫、どうしたのです、そんなにあわてて。」
「隆景さま。今日、私は大変な夢を見てしまいました。」
かなり急いでここまで来たらしい。麻を休ませるため、縁側に座らせてから隆景は尋ねた。
「それで、どんな夢だったのです。」
麻が語った内容はこうだった。陶隆房が、麻のいとこにあたる大友家の子息に、義隆のあとを継いでほしいと頼み、承諾を得るというものだった。
「隆景さま、これは隆房に謀反の意志あり、ということなのでしょうか?それとも、父上か、生まれたばかりの義弟が死ぬということなのでしょうか?」
隆景には、単に義隆が死ぬだけとは思えなかった。重臣たちの不安と、義隆の貴族趣味批判はますます大きくなるばかりだった。特に隆房は相当不満をつのらせている。麻が見たのは、将来起こるであろう密議の場面だったのだろう。しかし、今は証拠がない。隆房はまだ何もしていないのだから。
麻の見た夢を、どのようにして生かせばよいのか。
隆景は少し考えたあとで麻に言った。
「私が言うことは、姫にとってつらい選択です。それでも、姫は落ち着いて聞いてくれますね?」
麻は大きく頷いた。
「まず、姫が見る夢は今までずっと当たってきました。このままでは、義隆さまは死ぬか、討たれるかどちらかになるでしょう。」
麻がごくん、と生唾をのんだ。
「そして、今はまだ、陶どのも潔白ということです。まだ、姫の見た密約は結ばれていません。だから、陶どのを罰するわけにはいきません。でも、私の見る限り、義隆さまがこのまま遊興を続けるなら、陶どののみならず、他にも謀反をたくらむものが現れるかもしれません。」
「そうよね。父上への信頼は薄れる一方だから。」
麻も淋しそうに言った。
「そこで、姫にはつらいでしょうが、義隆さまに夢のことを教えるのです。そうすれば、先が変わる可能性もあります。義隆さまが今、陶どのに耳を傾けるだけで、不満は爆発するほどではなくなるかもしれないのだから。」
麻は唇をかんで、首を振った。
「でも、それは――」
「分かっています。だから、私はやりなさいとは言いません。あとは姫しだいです。」
「‥‥わかった。考えてみる。」
麻はそう言って、隆景を残して歩いていった。その後ろ姿はまだ揺れているように見えた。隆景は少し胸に痛みを感じた。
数日後、大内館を訪ねた隆景は、血相をかえた操に呼び止められた。
「隆景さま、お助け下さい。麻さまが大変なのです。」
「どうしたのです。」
「分かりません。今朝、義隆さまと話されてから急に、部屋のものを壊しはじめて‥‥」
隆景は冷たいものを背中に感じた。すぐに麻の元へ駆けつけた。麻は、部屋にある茶器や絵、書を壊していた。その姿を見て、隆景は自分がどれほど残酷な提案を麻にしてしまったか、その罪の深さに目眩がした。
「姫、やめて下さい。隆景のせいです。私があんなことを言わなければ、姫は傷つかずにすんだのに‥‥」
しかし、麻は止まらない。混乱しきってしまっていた。
「こんな力いらない。何のために、先のことなんか知らなきゃいけないの。知りたくないのに、分かったって何の役にも立たないのに!」
麻は泣きわめきながら壊し続けた。隆景は見ていられなくなり、麻を強引に自分の腕の中に引き込んだ。茶器のかけらで隆景の腕が切れ、激痛とともに血が滲んだが、麻の心の傷に比べたらどうということはないと思った。
隆景の胸に吸い込まれた麻は、はっとして動きを止めた。
「姫、隆景は姫の能力のおかげで母の死に目にあえました。私にとっては姫の力は十分すぎるほど、役に立ったのです。だから、自分で自分を傷つけるようなことはしないで下さい。」
隆景は必死だった。自分のうかつな一言が、麻をここまで追いつめてしまった。それは取り返しがつかないことだが、せめて自分は、麻のおかげで救われたのだと分かってほしかったのだ。
「隆景さま、あなたは悪くないわ。」
麻はようやく落ち着きを取り戻し、隆景に言った。隆景はゆっくり麻から体を離した。
「やっぱり、隆景さまは私を救ってくれる人なのですね。」
「いいえ、私は姫を傷つけてしまった。」
「違うわ。悪いのは大内家よ‥‥。」
麻は何かを諦めたように、ふっと笑っていた。その笑みは隆景の胸を締めつける、哀しいものだった。
この時から、隆景も麻も夢の話はしなくなった。麻が内藤屋敷に来る回数も減り、隆景もあまり大内館を訪ねないので、今までのように会うことは少なくなった。しかし、隆景の麻に対する想いはますます強くなった。たとえ麻を嫁にもらえなくても、いつか大内が滅び、麻が館を失ったら、何としてでも自分が守ろう、と心に誓っていた。麻にとってはもちろん、隆景は唯一自分を理解してくれた大事な人だった。このころが、二人にとって一番平穏で幸せだったのかもしれない。
(このままではいけない)
平太は以前にも増して不安を覚えていた。隆景はあいかわらず当主としての務めを立派に果たしており、春忠や景道はその成長ぶりに目を細めていた。しかし、隆景の心の微妙な変化を平太だけは見逃さなかった。最近では、麻と会うことも少なくなり、表面的には落ち着いてきているように見えた。
(だが、それは逆だ。殿は何かとてつもないことを考えているのではないか)
平太にしてみれば、隆景のこの沈黙こそが恐ろしかった。ある日突然、麻を連れ出してどこかへ消えてしまいそうな危うさを秘めているような気がした。
平太が大内館の近くで麻に出会ったのも、麻に呼び止められたのも、偶然ではなく運命のいたずらであったのかも知れない。
「あら、あなたは隆景さまのところの‥‥」
何食わぬ顔で通り過ぎようとした平太は驚いて止まった。平太の存在は、義隆でさえ知らないはずだった。それなのに、なぜ麻が知っているのか。麻の側から見ればそれは簡単なことで、麻が平太を夢で見たからだ。しかし、平太は麻の不思議な能力のことまでは知る由もない。単純に、隆景が打ち明けたものと思い込んだ。そして、間諜の存在まで隆景が麻に話していることにかなりの衝撃を受けた。
平太の様子がおかしいことを麻も察知し、言葉をつなごうとした。しかし、それよりも早く平太は麻の足元にひれ伏し、哀願した。
「お願いです。私たちから、隆景さまを取り上げないでください。」
まさに、体の方が先に動いた。平太自身、自分がこんなことをするとは思わなかった。自分にとってかけがえのない主君である隆景に去っていってほしくなかった。それだけだった。
突然の平太の行動に戸惑いながらも、麻はそのことの重さは苦しいくらいに理解できた。麻もそのことでずいぶん悩んできた。隆景から離れなければ、と何度も思った。でも出来なかった。ただ、隆景を独り占めできないことは十分に分かっていたし、それが何を意味しているかも知っていた。麻はなりふり構わず頭を下げている男の背中を見つめ淋しそうに言った。
「大丈夫よ。そんなことはしないわ。」
はっとして顔を上げた平太に、麻はぽつりと言った。
「ずっと守ってね。隆景さまを。」
兄・元春が吉川に養子に入った年、隆景は竹原に帰ることを許された。どう麻に伝えよう、と隆景は考えあぐねていたが、ちょうどそのころ麻が妙によそよそしくなってきた。何かあったのだろうか、と気には掛かったが、麻とは会えぬままに竹原に帰る日が来た。奇しくも来たときと同じ、水無月だった。
「山口に来たのが昨日のような気もするのに、長かったようにも思える。面白いものですな。」
景道が感慨深げに言う。
「そうだな。あっという間だったな、私にとっては。でも不思議だと思うのは、来るときは徳寿丸で、出るときは隆景だっていうことなんだ。どちらも同じ、私なのにね。」
「たった二年で、本当に殿は大きくなられました。来るとき言われていたように、たくさんのことを自分のものにしてしまわれた。」
「楽しかったよ、いろいろあったがな。」
ちょうど、麻と会った夏椿の木が見えてきた。麻に文しか書けなかったことが心残りだな、と考えながら木を眺めていると、麻が木の後ろから現れた。隆景は自分の想いが通じた気がして、笑みを浮かべながら麻に歩み寄った。しかし麻は、出逢った日のように無愛想に言葉を放った。
「お気をつけて、隆景さま。お元気で。」
麻の冷えた雰囲気に押されたものの、隆景は力強く告げた。
「麻姫、またお会いしましょう。必ず。」
これで最後にはしない。何とかしたい。隆景はそう決意を固め、麻の前を過ぎた。すると、麻の鋭い声が隆景の耳を刺した。
「隆景さま、沼田をお継ぎなされ。」
えっ、と思い、隆景が振り返ると、麻はもう踵を返していた。そんな麻を見て、春忠と景道は、
「会ったときも別れるときも、突拍子もないお方じゃのう。」
と笑っていた。しかし、隆景だけは、麻の言葉が心に焼きついて離れなかった。 隆景は、竹原に帰るとすぐに備後神辺城攻略で活躍し、初陣を飾った。義隆はその戦ぶりに感服し、隆景の働きを高く評価した。これを元就が見逃すはずがない。かねてより本家・沼田小早川の又鶴丸が幼いうえに盲目であることを理由に、沼田と竹原を合併して隆景に治めさせようともくろんでいた元就は、義隆に隆景の沼田相続を認めてもらうべく動き始めた。隆景も、父の思惑とはまた違う気持ちで沼田を継ぎたいと思っていた。小早川を一つにまとめ、強い家に育て、安芸の国の戦を早く終わらせたいという願いがあった。自分を信じてついて来てくれる、春忠や景道、平太といった家臣のためにも。そしてもう一つは、麻が「沼田を継げ」と言ったからでもあった。きっと何かわけがあるに違いない。それに、沼田を継いで小早川家をまとめれば、以前から考えていた麻の保護もできるようになる。隆景の心に迷いはなかった。
一方、麻は山口で一人物思いに沈んでいた。麻が隆景によそよそしくしたのには理由があった。それは、ついに麻の夢が止まったからだった。はじめは、ようやく疎ましい夢から解放されたかと思った。しかし、麻はしばらくして、夢を見ないということは、そこから先の自分の人生はない、すなわち死ぬということなのではないか、と思い至った。そう考えると、すべてが見えてくる。繰り返される同じ夢。山野を巡っているような風景、勝ちどきの声が遠くで響いている。そして最後は、木々の間から見える、抜けるような青い空。
――ああ、私はそうやって死ぬのか。
来るべきときはいつか、それは分からない。しかし、自分の死を予知してからは、隆景にわざと冷たくし、隆景が早く自分を忘れてしまうようにしようと考えた。それは思いのほか苦しく、隆景に自分の本心を知ってほしい、という衝動に時折麻は駆られた。でも、そうするしかないと思った。
そんな麻をそっと見守ってくれていたのが、義隆の信頼厚い二条尹房の息子、良豊であった。
良豊が都から山口へ来たとき、一緒に猫を連れてきていた。ある日その猫が、首につけた鈴の紐を木ににからませてしまって動けなくなっているのを麻が見つけた。紐を外してやると、猫がすり寄ってきたので、麻はにこっと笑って抱き上げた。ちょうどそこに良豊がやってきた。
「なつめ。麻どのが助けてくれたのか。ありがとう。」
「別に、偶然通りかかっただけです。」
麻はつっけんどんにそう言って猫を渡し、立ち去った。
数日後、ぼんやり池を眺めながら、姫が先のことを憂えていると、いつのまにか自分の後ろに良豊が立っていた。麻が振り返ると、
「鯉でも見ているの。」
と、良豊は暖かい眼差しを送り、隣に座った。
「この間はありがとう。」
麻は無視した。それでも良豊は、麻の顔をのぞきこんでまた話しかけた。
「麻どのは、笑ったほうがかわいい。なつめには、あんなに自然にほほ笑んでいた。本当は気持ちの優しい方なのだね。」
麻は苦い思いがした。あのときやはり、見られていたのだ。死を予知して以来、誰に対しても心を開くまい、と誓った麻が一瞬だけ見せた素顔に、良豊は気づいてしまったのだ。しかし自分の能力のことを知れば、きっと良豊も麻を恐れるに違いない。そう思った麻はわざと良豊を挑発した。
「私のうわさは、良豊さまだって聞いてるでしょう。私は先のことを言い当てられるの。人はもののけ憑きだとか、気狂いだとか言っているわ。本当は良豊さまだって私を、気味が悪いと思っているのでしょう?」
しかし、良豊は怒らず、優しく笑っていた。
「気味が悪いと思っていたら、声をかけたりしないよ。」
「口では何とでも言えるわ。」
「本当だよ。本当に、私は麻どのを好きだよ。」
「信じられない。」
「それでもいいよ。私は勝手に麻どのを好きでいるから。ただ、そばにいることだけ、許して下さい。」
温もりのある声に、麻のかたくなな心も一瞬、揺らいだ。
「お好きになさればいいわ。」
「はい。」
良豊がそばにいてくれることで、麻はずいぶん救われた。強がっていても、本当は一人でいることはつらかった。良豊といると、春の日だまりにいるような暖かさを感じられた。それでも、心が求めているのはやはり隆景だった。柔らかい声、手のぬくもり、優しい笑顔。隆景なら、もしかすると自分を迎えに来てくれるのではないか、とも思った。それは無理だと分かっていても、隆景なら、と思ってしまう。そんな自分は、愚かだがいとおしい気がした。
隆景が山口を父・兄とともに訪れることになったのは、翌年の早春のことだった。もう二度と交わらないはずだった隆景と麻の運命の糸がふたたび絡み合った。隆景は密かにある決意をしていた。義隆に、麻とのことを認めてもらうよう頼み込むつもりだった。とても成功するとは思えない話だが、もし麻が同じことを願い出てくれれば、あるいは、という淡い望みを隆景は抱いていた。
山口での歓待、祝宴の中で、隆景はひたすら機会を待った。義隆と偶然、庭園で二人きりになったのは隆景の強い想いが引き寄せたのかも知れなかった。
義隆と、山口での思い出を語り合った後、隆景は思い切って言った。
「義隆さま、お願いがござります。」
「何じゃ、言うてみよ。」
隆景は、義隆に対しひざまづいた。
「麻姫を、この隆景に下さい。」
義隆は一瞬、あっけにとられた。そしてすぐに言った。
「隆景はもう少し賢いと思っておったが‥‥それは無理な話じゃ。」
「それは承知でお願いいたしております。」
隆景はさらに詰め寄った。
「困ったのう。‥‥実は、麻には二条家の嫡男とすでに内約があるのじゃ。」
隆景は蒼ざめて顔を上げた。
「そ、そんな‥‥義隆さま、姫の気持ちを聞いて下さい。」
「いや、それがな、麻が良豊どのと親しくしておるから決まった話なのじゃ。」 隆景は深い闇の中へ落下していった。麻も同じ気持ちだと思えばこそ、捨て身で頼もうとした。しかし、麻はもう心変わりしていたのだ。それが隆景を深く傷つけた。
「お屋形さま、ご無礼を申し上げました。戯言とお聞き流し下さい。」
「いや、よいのじゃ。わしはこのことを忘れる。だから隆景も忘れることじゃ。」「ありがたきお言葉。いたみいります。」
隆景は失意におおわれたまま、山口を後にした。かろうじて自分を保っていられたのは、皆の期待を裏切らないように、という責任からだった。
この話は、操を通じて麻の耳にも届いた。
「そう、隆景さまがそんなことを‥‥」
麻は目を閉じた。涙がわき出て、頬をつたった。
「姫さま‥‥」
「操、これはうれし涙なの。隆景さまにそんなに想われて、私はもうそれだけで十分。」
操は麻を抱きしめて言った。
「本当にこれでよいのですか?」
「父上はいずれにせよお許しにならないわ。それに――」
麻は哀しそうに微笑んだ。
「死が近づいている私じゃ、隆景さまを幸せにできないもの。」
「姫さま‥‥」
麻の背中をなでながら、操も泣いた。
年も改まり、小早川家では正月の祝賀が行われた。今年はいつもにも増して華やかである。それは、隆景と沼田小早川家の汐姫の婚約が披露されたからだ。隆景の沼田入り反対派も、姫の婿となるとあっては承服せざるを得ない。春忠や景道はもちろん、平太もこの祝事を喜んだ。
当の隆景は、あの山口での記憶も少しずつ薄れてきていたが、受けた傷は癒されていなかった。また人を好きになって傷つくことを恐れ、必要以上に人に近づかないようにしていた。だから正直なところ、自分の相手が汐でほっとしていた。汐は隆景と六つ違いで、まだ本当に幼い。沼田で何度か顔を合わせたが、素直でおっとりした気立てのよい姫で、隆景も好感は持っていた。汐に恋はできないかもしれない。だが、慈しみ護ることはできるような気がした。 しかし、隆景は未だに心のどこかで麻の面影を追っていた。麻に裏切られた苦しさは消えてはいない。それなのに、麻を憎み切れない。今でも麻が鮮やかに思い出される。その度にどうしようもない切なさに襲われた。傷ついたことは少しずつ忘れていくのに、傷口だけは治ることなく、いつまでも血を流している。それを打ち消そうと、隆景は自分を痛め付けるように仕事に没頭した。
平太は、本当にこれでいいのか疑問を感じていた。隆景は平太の見込んだ通り、誰からも慕われる当主となっていた。しかし、隆景自身はなにかあきらめのようなものの中にいた。平太が好きだった屈託のない笑顔は見られなくなり、まるで、何も感じていないかのようだった。春忠や景道は、隆景が大人になり落ち着いたからだと思っているようだが、平太はそうは思えなかった。心から笑えなくなった隆景を見ていると、あの時二人で逃げてしまったほうが隆景にとっては幸せだったのかもしれないとさえ思ってしまう。しかし、平太は隆景を失いたくなかった。自分が仕えるべき唯一の主は隆景をおいて他にはいない。これでよかったのだ。平太は自分に言い聞かせた。それでも、相反する二つの思いが平太の中でぶつかりあっていた。
自分でもどうしてよいのか分からないまま、平太は忍びとしての役目をこなしていた。そして、山口で再び麻に会った。初夏の雨の中、麻は夏椿の木の下にたたずんでいた。麻は平太を待ち構えていた様子だった。
「隆景さまの身辺に気をつけて。」
「どういう‥‥意味ですか。」
「命を狙われてるわ。沼田相続反対派に。」
麻は強いまなざしを平太に向けた。なぜか、麻の言うことは信じられると平太は感じた。
「分かりました。私が必ずお護りします。」
それを聞いた麻はふっと表情を和らげ、平太に背を向けた。平太は麻の後ろ姿に、胸がしめつけられるような淋しさを見た。
麻が立っていた苔の上に、白い花がぽとりと落ちた。麻のはかない運命を暗示するように。
その年の長月、田坂全慶をはじめとする、又鶴丸擁立派の刺客が隆景に送られてきた。しかし、平太が細心の注意を払い、ぴたりとついていたため暗殺は失敗した。隆景はすぐさま、田坂一党を処罰した。その厳しい決断も、和解できない以上仕方ないことだった。隆景は間をおかず、その翌月高山城入りし、沼田小早川家を相続した。同時に汐との婚礼もとりおこなわれた。
平太は高山城で、隆景と久々にゆったりと話をした。
「平太のおかげで、こうして無事に沼田を継ぐことができた。ありがとう。」
「いえ、当然のことをしたまでです。」
「いや、お前がいてくれなかったら、私は今ごろこの世にいなかったよ。」
そういって笑った隆景を見ていて、平太はどうしても言わずにはいられなくなり、口を開いた。
「殿、実は、麻姫が私に『隆景さまの身辺に気をつけて』とおっしゃられたのです。」
隆景の顔から笑みが消え、表情が固まった。
「あ、麻姫が‥‥?」
隆景はかなり動揺したようだった。平太は、なぜこんなことをいうのか、自分でもわからないまま続けた。
「殿、麻姫は今でもずっと、殿のことを気にかけておられます。姫が何を考えているのかまでは、私にはわかりません。でも、姫の殿に対する思いが今も変わっていないことは確かです。」
隆景は信じられないという顔をしていた。しばらくして、隆景はかすれた声で言った。
「独りに、してくれないか。」
平太は黙って隆景に頭を垂れ、その場を去った。
隆景はずいぶん混乱したが、少しずつ頭のもやが晴れてくるといろいろなことが見えてきた。考えてみれば、自分は麻と直接話していない。だから、本当は麻が何を思っているのかは分からないのだ。不器用な麻のことだ、もしかすると離れることが隆景のため、などと思い込んでいるとも考えられるではないか。隆景は自分の視界の狭さを恥ずかしく思った。そして、もう一度麻を信じてみようと決めた。たとえ麻がどう思っていようと構わない。自分は今でも麻が好きだ、とやっと気がついた。
そして、一五五一年。運命の年がやってきた。
五月のこと。隆景が吉田に評定のため赴くと、やはり先年嫁いできていた寿が隆景を出迎えてくれた。そのとき、寿から心配そうに聞かれた。
「隆景さま、陶どのが何やら動いていると聞きましたが、どうなのですか?」「義姉上も聞いておられるかも知れぬが、毛利に義隆さまから申し入れがあった。『もし隆房が挙兵したなら、助力願う』と。」
寿は眉をひそめた。
「もう事態は、そんなに悪いところまで来てしまっているのですか。」
「ええ。陶どののほうは、大友晴英どのを次期大内当主として迎え入れる密約を結んだ様子。今日、私がここに来たのも、今後の毛利の身の振りかたについて評定するためです。」
と答えた隆景の心に、麻がふわりと横切っていった。この知らせを聞いたときには、また麻の夢がひとつ、現実となってしまったとやりきれなさを感じた。今、麻はどんな夢を見ているのだろう。たった独り、やり場のない恐怖や不安にさいなまれているのではないか。隆景は麻に何もしてやれない自分に苛立った。
「麻姫のことが心配だわ。」
隆景は心を見透かされたような気がして、目を閉じた。
麻姫だけは、何とかして助けに行く。父に止められても、春忠や景道に諌められても、きっと聞き入れられない。そう思っていた。
葉月も終わりに近づいたころ、その使者は突然舞い込んできた。
「陶隆房どの、挙兵され、山口の大内館を襲撃。重臣の半分は同調しております。義隆さまは法泉寺にこもり、現在交戦中です。」
「隆景さま、至急評定を行いませんと。」
景道に促されても、隆景はまだ呆然としていた。悪夢の中にいるような気がした。
「殿、しっかりなされい!」
春忠に一喝され、はっとした隆景は、誰もが思いもよらなかったようなことを口走った。
「山口へ行く。麻姫を安全な所までお連れするのだ。」
「殿、無理です。評定もございます。吉田にも行かねばなりますまい。なりませぬぞ。」
春忠と景道は、ふらふらと出て行こうとする隆景を追いかけた。しかし隆景は、すごい力で、押さえ付ける二人を振りはらった。春忠も必死である。すぐはい上がり、今度は隆景を捕まえた。
「頼む、行かせてくれ。姫を連れて帰って来るだけじゃ。誰にも迷惑はかけぬ。」「なりませぬ、殿。もう山口は大混乱です。姫が生きておられるとしても、探しようがありません。絶対に行かせられませぬ。」
「放せ、頼む。」
それは、冷静な隆景が終生ただ一度だけみせた取り乱した姿だった。智略に富み、常に人の先の行動を読んでいた隆景が、無茶と知りながら自分の気持ちを押さえられなくなっていた。
「殿、義隆どのの正室は、寺へと避難されたとのこと。おそらく姫も、どこかにかくまわれているに違いありません。落ち着かれよ。」
それでも隆景は止まらない。しかたなく、景道は隆景の腹に一撃を加えた。ようやく、隆景の体が静けさを取り戻した。がくり、と二つに折れた隆景を運び、春忠と景道は今後の動きについての評定をはじめた。
その頃、平太は山口にいた。
実は、平太は隆房挙兵をもう少し前に知っていた。本来なら隆景に伝えなければならない。しかし、平太はそうしなかった。それは、隆景が何もかもを捨てて麻のもとへ走ることを恐れたからだ。それなのに、平太はまだ山口に留まっていた。自分でも何をしようとしているのか、自分の気持ちが見えなくなってしまっていた。
とりあえず、麻は長門の大寧寺に避難したため、平太も胸をなでおろした。ところが、陶軍に追われた義隆が大寧寺へ逃げ込んだことで、事態は一変した。大寧寺は危険なため、麻は再び別の場所へ逃げることになった。しかし、すでに陶軍が近くまで迫っている。無事に脱出できるかどうか、不安は大きい。
麻はすでに覚悟はしていた。最後まで生き抜く努力はするが、いざという時は、と思っていた。明日には大寧寺を出る。その夜、麻は月を眺めたいと思、い庭に降りた。そこにちょうど平太が来あわせた。麻は驚いて叫んだ。
「誰です。」
「麻姫、私です。隆景さまにお仕えする平太です。」
麻はほっと息をつき、次いで毅然として言った。
「平太、もうここは危ないわ。早く逃げて。」
平太はそれには答えず、思いを巡らせていた。まだ迷っていた。麻は空を見上げ、月を仰いだ。
「月も見納めね‥‥」
麻の震えた声が、平太の歯車を狂わせた。
「姫、私と共に逃げて下さい。必ず安全な所にお連れします。あなたが死んだら、殿は悲しみます。私はそんな殿を見たくない。お願いします。」
かすかに、麻が微笑んだのがわかった。月明かりに照らされた麻の顔は白磁のように美しく、気高く見えた。
「それはできないわ。」
「なぜです。生きようとは思わないのですか。」
「いいえ、最後まで希望は捨てない。‥‥でも、あなたにまで迷惑をかけたくないの。」
ゆうべの夢がよみがえる。目の前にいるりりしい青年が、自分と一緒にいたために斬られる。どうせ自分は助からないなら、それを現実にはしたくなかった。「迷惑だなんて、姫――」
平太も簡単には引き下がろうとしない。麻は静かに、だが力強い声で平太に告げた。
「隆景さまに伝えて。『あなたにお逢いできてよかった』と。」
そして、本堂の中へ駆け込んでしまった。平太は唇をかみしめ、こぶしを握ったまま、大寧寺を後にした。
翌朝、麻は操とともにわずかな護衛に連れられ、寺から抜け出した。豊田の地を目指し、重い足を引きずって歩いた。しかし、麻たちにも陶軍の追っ手がかかっていた。稲見のあたりで、ついに陶軍はすぐそこまで迫って来た。
もはや、これまで‥‥
麻は目を閉じた。まぶたの裏の闇に、隆景が映し出された。もう一度だけ、隆景に会いたかったと思った。
そのとき、聞き覚えのある声が耳に運ばれてきた。
「どうしてここに‥‥」
「言ったでしょう?そばにいるって。」
「何で?私は他の人が好きなのよ。それなのに、どうしていつも優しいの。」
「でも、あなたは独りでいるのは淋しいんでしょう。だから、来たんだ。」
麻は良豊の腕の中で泣いた。
夢で見慣れた、この山野の風景。勝ちどきの声が、空気を震わせて伝わってきた。麻は一気に、懐刀を体につきたてた。温もりが、麻の中からゆっくりと流れ出していった。不思議と痛みはあまり感じなかった。
薄れていく意識の中で、麻は最後の夢を見た。隆景が麻を助けに行く、と必死になっている姿が、麻の脳裏をよぎった。
ああ、隆景さまは本当に、私を助けようとしてくれていたのだわ――そのことが分かってよかった。
麻は、このとき初めて自分の能力を、持っていてよかった、と思えたのだった。 倒れて動かなくなった麻の表情は微笑んでいるように見えた。
〈終〉