その事件は1997年9月29日(月曜日)の夕方、薄暗くなりかけた頃、母親が編み物の習い事から自転車で帰宅する途中に起こったものである。山形市城北にある霞城公園北側通路を「自転車に乗った私服の少年18人の集団(1)」が、車道も歩道も含めて道幅一杯に広がったまま、当時60歳の母親が乗った自転車に対して体当たりしてきたのである。この接触事故で母親が転倒するのをみて「集団の約3分の2の人数が手を挙げて『やった、やった』と喜んでいた」というから、これが故意であることは明らかである。「アッという間で逃げる暇も無かった」という話である。
この事件を目撃していて、転倒の影響で曲がった自転車のハンドルを直してくれた(おそらく近所に住んでいると思われる)50歳代の男性が「彼らは、いつもここを通る山形市立第二中学校の男子生徒たちで、今日は振り替え休日なので私服で自転車に乗っているが、普段は歩いている」と教えてくれたそうである。
母親は、この転倒で左手の中指と薬指を擦りむき、おまけに手の甲まで腫れてきたので、近くで交番を探した。が、見つからず、仕方がないので自転車で20分くらいかけて家に帰り、応急処置として左手を氷で冷やした。その翌日、山形市内にある篠田病院の整形外科に行き、医者の診察を受けた。レントゲン写真を撮って「打撲」という診断結果が出たが、1週間くらいして左肩が挙がらなくなった。それから毎日、マッサージ、赤外線治療、リハビリで病院に通った。2ヶ月半くらいして左肩が挙がるようになった頃、今度は左手の親指が痺れて感覚がなくなり、全体に痛みも出て来た。そのため再度、レントゲン写真を数方向から撮影したところ、ぶつけられた衝撃で、骨と骨の間をつなぐ軟骨が破損している可能性が出て来た。
そこで紹介状を書いてもらって、その日の午後に山形大学医学部付属病院に行き、レントゲン写真を12枚ほど撮られて出た診断結果は、左手親指の付け根の骨がずれている「左母指手根中手関節不安症」というものであった。しばらく通院治療し、痛み止めの注射を打ってもらっていたが、良くならないので手術をすることになった。こうして1999年1月25日に入院し、28日に全身麻酔で約3時間半の手術がおこなわれた。大学病院の宿命でベッド数が足りないので、手術から2週間後には退院を余儀なくされ、同時にギプスまで外された(2)。その後の経過としては、大学病院内の整体師のところへリハビリ通院し、なんとか左手が動かせる状態になったのが、その年の9月末であった。約8ヶ月間かかったことになる。
手術後に担当医から父親が呼ばれ「(レントゲン検査から)接触事故で、右手にも同様の衝撃を受けていた可能性があるので、そのうち右手にも痛みが来るだろう」と説明を受けた。この説明で母親も幾らか覚悟はしていたらしいが、2002年の11月上旬くらいから、右手にも、左手の手術前と同じような痛みが出て来ており、その痛みがずっと続いているのが現状である。お盆の墓参りや正月に私が山形の実家に帰省する度に、母親から「手が痛い」と愚痴を聞かされる。時々、激しい痛みが襲うようで、右手に持った皿やティーカップなどを床に落として、よく物を割っている。
私なんかは「目撃者がいて、場所、時間、人物の特定まで可能な状況で、この故意による接触事故をなぜ警察に届けなかったのか?」と疑問に思うのだが、それには両親なりの理由があるようである。私の父親は「民生児童委員(3)」をかれこれ10年以上やっていて、今時の子供の恐ろしさを嫌というほど知っている。父親が言うには「警察に被害届けを出せば、逆恨みされて、家に火をつけられる恐れがある」ということらしく「泣き寝入りするしかなかった」という話である。
母親の無念を思うと、やりきれないものがある。事件のあった1997年に「中学生」ということは、現時点で成人している者もいることだろう。彼らは自分たちが昔、面白半分で怪我をさせた老婦人が現在でも苦しんでいることなど、これっぽっちも意識せず、のうのうと暮らしているに違いない。もし、この文章を読む機会があり、自分たちが昔やった犯罪行為を思い出すことが出来たなら、今からでも遅くないから、母親に謝って欲しい(刑事事件にするつもりはないようである)。
[脚注]
(1) とっさの出来事で、なぜ18人という人数が数えられたのか定かではないので、母親に確認したところ「20人にちょっと足りないくらいだから......」ということのようである。
(2) この手術と入院だけで掛かった費用は、国民健康保険の「退職被保険者」の2割負担適用で約17万円であった。他にマッサージやリハビリなどの通院治療に掛かった費用を加算すると「いったい幾らになるのか、見当も付かない」という話である。
(3) 民生児童委員: 生活保護世帯の相談に乗り、青少年育成のための街頭指導をおこなう委員。