「イヌは人につき、ネコは家につく」と、よく言われている。しかし、ネコの中には特定のヒト(個人)を認識し、愛着を示すものがいる。一般的には、飼い主、または自分に餌をくれるヒトにだけ愛着を示し、頭や顔、体などをこすりつけたりするが、それ以外のヒトに迎合することは滅多にない。では、餌をくれないヒトに対して示す愛着をどう捉えれば良いのだろうか?
私が新潟時代に暮らしていた下宿は大家の家屋と地続きで、私がいた2014年頃まで、家屋の軒先には数匹の野良ネコがいた。大家の奥さんやその妹さんが餌を与えていたので、当然のことながら、彼女らには懐いていた。初めの頃は私が呼んでも無関心で、近づこうともしなかった。ところが、ある日のこと、1匹の白黒の斑(ぶち)ネコが、突然として私に愛着を示すようになった。「餌も与えていないのに……」である(後に、このネコが妹さんを避けるようになっていることに気づいたのだが、これは、ネコの特性である「不安や害を与えられていることに気付くと、ネコはその相手を避けるようになる」ということだろうと思う)。
このネコはメスで、尻尾が途中から折れ曲がって短く、季節的なものだろうが、老齢というわけでもないのに抜け毛が多い。私の姿を認めると、30mくらいの距離からでも急ぎ足で駆け寄って来て、歩いている私の両足の周りをうろつき、体をこすりつけて来る。私に体を撫でてもらいたくて、いつも砂利の上に体をうつぶせにして、また冬には積雪の上に体をうつぶせにして、わざと私に捕まろうとする。しかも彼女は、体をうつぶせにするだけでなく、お尻を上げて交尾体勢に入ろうとする繁殖期のメスネコそのものなのである。この体勢は、次に真横になって喉をなでられることを期待し、最後には服従するイヌのように仰向けになって、無防備なお腹をさらけ出す。この状態で喉をなでられても、決して爪をたてることなく、私に身を任せている。
このネコに気付かれないように、下宿の敷地内に駐車してある自動車のところまで行き、自動車に積もった雪を降ろしているときでも、そっと近くまで忍び寄って来て、すっと腰を降ろし、こちらの行動を黙って注視しているときがある。目が合って驚き、呼ぶと、そのとき初めて駆け寄って来る。自分の存在を誇示しないところが、ネコらしくて良い。自動車から玄関先まで歩いている最中には、私の両足の周りをうろつくだけでなく、ゴロンゴロンと地面に転がって、お腹を見せてくれるときがある。「喉の辺りを撫でて」という催促のサインと考えられ、他の人には絶対にしない行動であることから推察すると、私のことが、よっぽど好きなのだと思う。
このネコは道路を往来する自動車が恐くて、滅多に下宿の敷地を出ようとはしないのだが、私の帰宅を察知すると、道路のところまで来て、私を出迎えてくれる。自動車が来ていないことを確かめると、道路の中程まで出て、ニャーニャーと擦り寄って来る。それが、ほぼ毎日なのである。いつだったかは「今日は、珍しく居ないな」と寂しく思っていると、隣の屋敷から「ニャ、ニャ、ニャ、ニャ、ニャ、ニャ〜」という声がして、ガサガサと木を登る音がしたかと思えば、このネコが隣家の高い塀の上に急に現われ、塀の上の狭いスペースを忍者走りして私のところまで来ると、さっと飛び下りて駆け寄って来たことがある。まるで「今日は、お出迎え出来なくて、ごめんね」と謝っているかのようであった(1)。
私に対する愛着は、いったい何が切っ掛けだったのか?また、私をどのようにして認識しているのか?遠くからでも駆け寄って来るから、匂い情報によるものではないのだろうが、私の姿・形なのか?いや、冬場などはコートや手袋で完全武装していても駆け寄って来るから、私の顔を認識しているのか?もし顔認識によるものだとすれば、私がヒゲをそった直後でも駆け寄って来ることをどう考えれば良いのだろうか?また、夜中に帰宅して玄関先まで歩いている最中でも、私に気付いて、暗がりから駆け寄って来ることをどう考えれば良いのだろうか?これまでの様々な情報をかんがみると、どうも「私という存在そのものを全体で感じている」としか思えない節があるのだが……。
2013年の秋口くらいから、ゴロンゴロンと地面に寝転がって、お腹を見せる行動を頻繁に採るようになった。尻尾の周りと喉元を含む顔周辺をなでられると弱く、もう私にメロメロであった。なでられるとゴロゴロと喉を鳴らし、私のことを母ネコと認識しているかのような、子ネコ返りの状態と言っても良い。このような状態でも、そのネコは、他の人や自動車が近づくと聞き耳を立てて、すぐに逃げ出し、私以外の人間を受け入れようとはしなかった。また、私が余り構ってやれずに満足できないときは、私の部屋のドア付近に横たわっている細長い板のところで、ガリガリと爪を研ぐという代償行動をする。そんなネコの生態を観察していて、漸く分かったことがある。それは「私という人間の存在を聴覚(足音)で認識している」ということであった。
また、このネコは、私の言葉が理解できるようで、いつだったか新顔のヨレヨレの子ネコが紛れ込んで来て、駐車場の一角に住み着いたことがあった。いつも腹を空かせているのに、人間から餌を貰おうとせず、誰にもなつかなかった。ある日、私が駐車場の端で、その子ネコを呼んでいたとき、私になついているネコが近寄って来たので「この子、連れて行って、ご飯、食べさせてあげて」と言うと、彼女はニャーと鳴いて、まるで子ネコをエスコートするようにして、餌が置かれてある場所まで約50mの距離を歩いて連れて行ってくれたことがある。どう考えても、私の言葉が分かっているとしか思えない出来事であった。
2014年3月10日、このネコが亡くなった。その日、私が帰宅したとき、わざわざ大家の奥さんが訪ねて来て、私に知らせてくれたことである。なんでも眠るように死んでいたとのことで、このネコは、前々日まで私と元気に戯れあっていた。それまで、毎晩のように、私の帰宅を出迎えてくれていただけに、寂しさが募ってしまう(2)。
[脚注]
(1) 何度も言うようだが、私は、このネコに餌を与えたことはない。
(2) 「ネコ好きはネコが知る」と言われていて、このネコと同じように、現在の職場である山形県立博物館の周り(霞城公園の東門を出たところ)にも、50m先からでも私を目掛けて駆け寄って来て、足元でゴロゴロするネコ(茶トラ)がいる。また、なぜか昔から、子供(特に、未就学児)とネコには好かれるようである。