一般的には大学や地方自治体などが管理する「博物館(2)」が、その役割を担っているのだが、日本では博物館を持たない大学が多い。そのため、大学で両生類を対象とする私のような研究者は、証拠試料を自分で保管する必要が出て来る。
新潟大学理学部生物学科では、2002年3月まで動物標本室を所有していた。ところが、この部屋を理学部の改修工事で数学科に明け渡した後は、工事が終了しても動物標本室が生物学科に戻ることはなく、事実上の「消滅」ということになってしまった(3)。
このような経緯で、大学院自然科学研究科の組織学実験室に一時的に置いてある私の証拠試料は、この実験室を使用する他の人たちからみれば完全な邪魔者と化している。かといって他に置き場もなく、これから先どうなるのか、全く予想もつかない不透明な状況である。それというのも、2003年8月に生命科学系大学院の新しい建物が完成する予定で、そのとき組織学実験室の明け渡しを要求される可能性が高いからなのである。今や、私の証拠試料が行き場を失い、右往左往する事態に陥ることは必至の情勢である。
私は、これらの証拠試料を守らなければならない。しかしながら、自然科学の伝統があるわけでもなく、明治時代に入ってから急速に近代化を進めてきた日本の研究者に「証拠試料の保管」という意識が芽生えるのを期待することは、砂漠にオアシスを求めるのに匹敵することなのかもしれない。
[脚注]
(1) ここで言う証拠試料とは、学術論文の中で研究材料として使用されたことを示す、研究済みの標本のことである。これから先、やるかどうか分からない研究のために、大量に採集・保管されている標本のことではない。
(2) 博物館と資料館などの他の施設との違いは、博物館法に基づく専門の学芸員が配置されているかどうかということである。例えば、学芸員の資格を持つ人は多数いても、学芸員として採用された人がいない新潟県立自然科学館は、博物館ではない。
(3) この動物標本室は、ときの指導教官に命じられ、私が間取りなどを設計したものである。その指導教官が1994年3月に退官してからは、この部屋を利用するのは私だけになってしまった。しかし、私は生物学科のスタッフではないので、動物標本室が消滅することに対して、意見を述べる機会が与えられることはなかった。