その日は、知り合いに遭う度に左目をみせて「結膜炎でもないし、眼底出血でもないし、何なんだろうね」と話題にしていると、皆こぞって「医者に行ったほうがいいよ」と勧める中、免疫生物学の教授(細野正道さん)だけが「前に、そうなった人をみたことがある。それは鼻血みたいなものだから、放っておいても大丈夫だ」と言う。初めて、私と意見が一致する人に出会ったので、この言葉で、妙な安心感が生まれたのも事実である。
翌朝、起床して鏡を覗いてみても、昨日と何も変わらない。左目の出血が広がっている気配はないし、どこにも異常は見当たらない。私の悪い癖で「このまま医者に行かないで治してしまおう」とも考えたのだが、この週末から来週にかけては、光学顕微鏡を覗いてデータを採る予定になっていた。自分では幾ら大丈夫だと思っていても、顕微鏡を扱うには、やはり、このままでは不安が残る。「せめて病名と出血の原因が知りたい」と思い、その日の午後、医者に行くことにした。
大学の保健管理センターから紹介してもらった近くの眼科医を訪ね、診察を受けてみた。「結膜下出血」という診断結果であった。この症状は「放っておいても2週間くらいで自然に吸収されますので、治療は致しません(1)」ということで、医院側も「このままでは儲からない」と踏んだのか、病気の診察とは直接的に関係がないと思われる視力や色覚の検査をしたのは、ご愛敬であった(2)。
私の記憶では、眼科医に掛かったのは、42年の人生のなかで初めてかもしれない(3)。もっとも、私が医者に行くこと自体、珍しいことではある。それにしても、診察室を真っ暗にしてから強い光を1分間くらい照射して両目を調べ、最終的な診断を下すだけで、診察料が2,700円とは......。全体の診察時間は、5分間に満たないだろう。医者の極めて高い専門性とはいえ、専門的なアドバイスが全てボランティアで、お金の取れない我が身と比べると、やるせない思いだけが募ってしまう(4)。
[脚注]
[脚注の脚注]
(1) 医者が言うには「結膜下出血というのは、血がベッタリで見た目は派手だが、鼻血よりも軽い症状で何の問題もない」とのことである。医者から手渡された「気になる結膜下出血(慶應義塾大学医学部眼科学教授小口芳久監修)」というパンフレットによると、人間の目は巧く出来ていて、黒目の部分の角膜と白目の部分の強膜は分離・独立し、この強膜を覆うのが眼球結膜である。角膜は血管を持たないが、結膜には大小の血管が数多く存在する。そのため結膜下の出血は、人間の視力や視野に影響を与えない。結膜下出血は、痛みを伴う外傷などの眼局所の要因と全身性疾患によるものでなければ、原因不明のものが多い(1)。
(2) 診察料(2,700円)と検査料(3,830円)を合わせて6,530円。私が医院側に支払った金額は、健康保険の3割負担で1,960円。これが高いのか安いのか判断が付きかねるが「結膜下出血という病名が分かっただけでも収穫はあった」と言えよう。
(3) 高校生のとき、バレーボール部に所属していた関係で、部活動ではコンタクトレンズを使っていた。そのとき眼科医にお世話になったはずだが、眼の病気では今回が初めてだと思う。
(4) 色々と専門的な質問をして来る人たちの中には、大学・大学院で就いている指導教員の研究対象が両生類ではなく、適切な研究指導を受けられずに困り果てた結果、私を頼って来る人が少なくない。本来なら、学生・大学院生の研究上のアドバイスは、給料をもらっている指導教員がおこなうべき性質のものである。しかも彼らが、研究成果を(多くは指導教員との連名で)論文や報告書にした場合でも、私のアドバイスに対して、謝辞すら述べていないケースがほとんどである。
(1) 結膜下にみられる出血が、どのようにして自然に吸収されていくのか、その過程を観察することにした。出血から5〜6日目には、上下の瞼(まぶた)と目尻に近い、隠れた部分の血液の色が、赤から朱へと微妙に変化し、少しだけ白目の部分が出てきた。しかし、外観上は相変わらず、ウサギの目のままであった(野生のウサギの目が黒いことは、もちろん、実際に観て知っている)。8〜9日目になると、血液は全体が朱色に変わり、外観上も瞼に近い部分が白くなってきた。13〜14日目には、目尻に近い部分も白くなり、角膜に沿って僅かに三日月形の血液を残すだけになってきた。19〜20日目には、血液の名残が若干みられる程度で、ほぼ白目と言っても良いまでに回復した。