富田林と天誅組

「石上露子を語る集い」代表 芝昇一氏

大阪府有形文化財・仲村家住宅

(2004年9月12日講演録から引用)

富田林寺内町と天誅組の変

天誅組とは、土佐藩を中心に久留米・鳥取・三河・佐賀などの脱藩浪士が結成した尊皇攘夷の最激派、文久3年(1863年)8月(杉山団郎七歳のとき)中山忠光を擁して大和に挙兵、五条代官所を襲撃して占拠、十津川郷士と糾合して大和高取城を攻撃して失敗した。その間、8月18日の政変により政情は一変し、追討諸藩兵の攻撃に敗れ、翌9月壊滅した。武力倒幕の先駆的役割を果たしたものと記憶されている。この挙兵に河内からも十数名の志士たちが参加した。彼らを天誅組河内勢と呼ぶ。尊皇攘夷思想は本来反幕的なものではなく、水戸学などに源流をもつ委任論、すなわち幕府の将軍も天皇から政権を委任されたものと考え、朝廷の権威によって幕府権力を回復しようとするものであった。それが、反幕府的な性格を帯びるようになるのは、大老井伊直弼による安政の大獄等独裁政治によるもので、これら強権的政治が反対派を結集することとなり、桜田門外の変により直弼は暗殺された。

続く政権も幕府独裁は維持できず、公武合体策で和宮の降嫁を実現するが、開港による貿易の開始は、国内経済への深刻な影響を与え、外国人への天誅の流行など過激化していった。8月13日、攘夷親征のための大和行幸の詔が出された。攘夷御祈願のための神武天皇陵春日神社に参拝し、しばらく御逗留して御親征軍議の上、神宮に行幸のこととなった。しかし、この計画には反対が多かった上、孝明天皇自身が乗り気ではなかった。天皇は強い攘夷論者ではあったが、倒幕の意志はなかった。攘夷の開戦も時期尚早であり、自分の親征は暫く延期したいと中川宮にもらした。大和行幸計画は僅かに心もとないものだった。

8月14日、前侍従中山忠光(大納言中山忠能の三男)の名で、大和行幸の先鋒として大和へ向かう回章がまわされた。京都方広寺に集まった38名は、忠光を大将に出発した。一行は伏見から船に乗り、吉村寅太郎がすでに準備していた甲冑武具の類を積み込んで淀川を下り、翌15日10時頃、大阪土佐堀常安橋に着いた。しばらく休息の後、早船2隻を雇い、長州へ向かう勅使の先手と称し、天保山沖へ出たのち、にわかに船首を転じて堺へ向かった。堺へ向かう船上、陰暦15日の満月のもと、各々髪を切って海中に投じ、元どりを結い実に勇壮な有り様だったという。吉村らがわずか38名という少人数でしかも拙速に挙兵したのはなぜなのかという疑問がある。勿論、河内勢や五条からの参加をあてにしてはいるが、吉村は寺田屋の変のあと、「何分干戈(かんか)を以って動かさざれば天下一新は致さず、然りと雖も、干戈(かんか)の手始めは諸侯決し難し、即ち基を開くは浪士の任なり」といい、挙兵倒幕は大名の手では行われないから、その口火を切るのは自分たち浪士でなければならないと言っている。天誅組挙兵の意図を明確に示している。藩権力を利用できない脱藩浪士の力でできる唯一の方法であった。

16日早朝、堺に上陸した天誅組一行は,10時すぎ狭山に着き、狭山藩主北條氏恭に協力を要請、羽曳野丘陵を越えて午後2時頃に錦部郡甲田村の水郡邸に到着した。水郡善之祐は長子英太郎や地元の同志ら共に忠光一行を迎えた。天誅組一行が五条に行く前にわざわざこの地に立ち寄ったことは重要である。ここで加わった河内勢は天誅組の少なくとも四分の一以上の勢力を占め、直前の準備、人足の調達などもすべて受け持ったのである。河内勢なしにはこの挙兵は不可能であった。では、なぜ当時、富田林地域にこれだけの勢力が存在したのだろうか?

近世中期以降、近在の村々では綿作が盛んになり、河内綿作の中心として、綿の集荷・加工・取引にたずさわる問屋も増加し、富田林は石川谷における産業の中心地として、豪家軒を並べ、商人や近在の農民の出入りも頻繁で町場はにぎわった。又、大阪・堺から大和・紀伊などへの交通が便で京都に出るのも容易であったため、幕末の志士たちが身を隠し、各方面に連絡を取るのに恰好の場所であり、富豪を頼って寄寓するものも多かった。富田林は全国の著名な志士たちの訪れる尊攘運動の地方的中心地になっていた。

5月例会・会報第50号掲載の森田節斎や吉田松陰が仲村家に訪れて前後24日間滞在した。この仲村家の隣が水郡善之祐の祖父喜田万右衛門の隠居所であり、近くで塾を開いていた辻幾之助、仲村家より徳治郎らが天誅組に参加した。同年4月には、熊本の脱藩浪士松田重助が再度訪れ、湯浅権之助と変名して富田林に私塾を開いた。松田は松蔭とも親交があり、天誅組挙兵の際、時期尚早として水郡らを止めようとしたが聞き入れられず、又、自身は元治元年(1864年)の池田屋の変で死亡した。安政六年(1859年)江戸の安積五郎が来て、兵学を講じた。彼は後に天誅組に参加する。また、筑前の平野国臣も安政の末年頃、富田林に隠れ住み、昼は寺子屋、夜は私塾を開いていた。天誅組に呼応して決起した生野の変の中心人物である。熊本の宮部鼎蔵、鹿児島の美玉三平、伊予の三輪田網一郎、三河の松本奎堂(けいどう)など,訪れた志士は百余名にも及んだという。河内十四カ村3267石の飛び地を領有していた伊勢神戸藩の長野代官所に吉川治太夫は文久元年(1861年)長野詰代官として赴任した。その略伝に「配下ノ庄屋水郡長雄・吉年米蔵・医吉井儀蔵(長野一郎) 農八兵衛(武林八郎)等皆門下生二属ス 弘ク天下ノ志士ト交リ謀議画策陰然盟主の観ヲ為ス」とあり、彼自身配下の者を集めて大いに尊攘論を高唱した自身は職務上表面には出ず無関係を装いながら職権を利用して物心両面の援助をした。こうした代官の積極的な加担があって多数の庄屋クラスが挙兵に参加できた。

8月17日、夜半過ぎ天誅組一行は水郡邸を出発した。河内勢として参加した人々は、水郡善之祐・同英太郎・森元伝兵衛・浦田弁蔵・和田佐市(以上甲田村)鳴川清三郎(新家村)仲村徳治郎・辻幾之助・三浦主馬(以上富田林村)吉年米蔵・武林八郎・内田耕平・東条昇之助(以上長野村)泰将蔵(向野村)上田主殿(鬼住村)田中楠之助(法善寺村)長野一郎(大ヶ塚村)であった。途中、三日市油屋旅館で休息して、午前8時頃出発、観心寺に到着、後村上天皇陵、楠木正成の首塚に参拝し準備してきた菊の紋章を掲げて旗上げをした。遅れてきた藤本鉄石らも合流し五条に向かった。途中、吉年米蔵は歩行困難のため一行と別れ、以後、武器、弾薬、糧米の調達や連絡にあたった。

天誅組が五条を挙兵の地に選んだのは、行幸予定の大和にあって吉野・宇智・宇陀・葛上・高市の5郡405ヶ村7万5千余石の天領を支配する代官所であり、彼らの目指すのが討幕である以上、その鉾先は幕府領に向けられる理由があった。幕藩体制下において代官所は、ごく僅かの役人しかおらず、無防備に近く50〜60名の少人数で襲撃することが可能であった。その上、五条は大和平野から紀州や大阪平野に通じる交通の要地であること、古来勤王を以って名高い十津川を背後にひかえていること、勤王僧を多く輩出している高野山も近いこと、南方は山岳相連なり守るに易く攻むるに難しという地形であることなど有利な条件があった。

天誅組が五条代官所を包囲襲撃したのは夕方4時頃であった。代官鈴木源内に対し、代官所と所管の村々を速やかに引き渡すよう要求したが源内がこれを拒否したため即座に討ち取り居合わせた数名を殺害、代官所の役人十三名あまりは捕らえられて制圧は完了、東へ二、三町離れた桜井寺を本陣とし、代官所は悉く焼き払った。河内出身の伴林光平も手紙で参加を求められ、十六日大阪広教寺の歌会に出ていたところ急報を聞き五条へ駆けつけた。

その頃、京都では尊攘派に対して決定的な反撃をすべく、公武合体派の間でクーデター計画が秘密裏に進められていた。文久3年(1863)8月18日クーデターは決行された。午前1時朝彦親王(中川宮)が突如参内し、守護職松平容保(かたもり)・所司代稲葉正邦の指揮する会津・淀藩兵が続々入門し、ついで近衛忠熈(ただひろ)・忠房父子二条斎敬(なりゆき)らが召命され、薩摩藩兵らに護衛され参内した。

御所の九門は厳重に閉ざされ、午前4時警備完了の号砲が轟いた。早朝からの朝儀では、筋書きどおり三条実美ら過激派公卿二十余人の参内・他行・面会の禁止、国事参政・国軍寄人の廃止、長州藩の堺町門警備の解任及び退京命令、天皇の大和行幸の延期などが矢継ぎ早に決定されていった。駆けつけた尊攘派公卿たち、長州藩などは門の中へ入れず、堺町門では薩摩・長州両者の対峙が続き、一触触発の緊張が高まった。

そして双方が撤兵したのは夕刻であった。尊攘派公卿・長州藩士らは軍議の末、ひとまず長州に下って再挙を図ることに決し、おりからの雨の中、三条ら七卿と真木和泉・久坂玄瑞ほか長州藩兵千人余は蓑笠・草履に歩行の哀れな姿で都落ちした。七卿は官位を剥奪され、長州藩へも藩邸から全員撤去するように朝令が下った。こうしてクーデターは成功し、尊攘派は京都から一掃された。

8月26日孝明天皇は、「これまではかれこれ真偽不分明の儀これあり候えども、去る十八日以後申し出ずる儀は真実の朕の存意に候間、このへん諸藩一同心得違いこれなきようのこと」と意志を表明したのである。天皇には始めから大和行幸などする考えはなく、一部過激派の策動によるものであることが明らかになった。天誅組の計画はいまや全く水泡に帰し、一転、朝敵となった。8月21日丹生川上神社神官橋本若狭らの協力を得た吉村寅太郎らは、強引な方法により十津川で募兵を行い、25日朝約一千名あまりの農兵が天辻に終結した。だが、天誅組内部にもなお慎重論を唱える者もおり、そのうちの河内鬼住村の上田主殿ら外1名は斬殺された。8月26日朝、高取城下に天誅組と十津川兵は到着した。軍師安積五郎は「行軍6里を超え戦わざるは即ち兵法なり」と、行軍を続けてきた郷兵たちによる戦闘は無謀だとして反対、水軍善之祐らもそれに同意したが、血気にはやる忠光らに押し切られた。戦闘は午前7時過ぎに始まったが、戦いはあっけなく惨敗に終わった。天誅組は新しい日本への扉を開くための捨て石であった。
(参考文献 富田林市史第2巻)

(注記)
上記内容は「石上露子を語る集い」芝昇一代表が2004年9月12日(日)午後に富田林市立中央公民館講座室で開催された同会9月例会の席上で講演された講演録です。講演内容は「富田林市史」等の資料などから引用・ご朗読されたものです。同会会報9月号「小板橋」(第五十三号)に収録されました文章をそのまま転載させて頂きました。(2004年10月24日、歴史散歩、同会会員・「富田林寺内町の探訪」管理人)



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