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富田林寺内町の探訪

江戸時代の町並みが残る寺内町(じないまち)をご紹介します

大阪市内から近鉄電車で富田林駅まで30分。駅から徒歩10分。
ひっそりとした佇まいを残すお寺や町家を巡りながら、お手軽な歴史散歩に出かけてみませんか? 皆様のお越しをお待ちしています。

石上露子歌碑(本町公園)(2003年6月)


富田林市・寺内町の旧家・杉山家に生まれた明治時代の明星派女流歌人・石上露子(いそのかみつゆこ、本名:杉山タカ、1882ー1959年)の生誕120周年記念歌碑が、「石上露子を語る集い」代表で地元にお住まいの芝昇一様(当時、故人)ほかご関係者のご尽力により、富田林市本町公園内(近鉄富田林駅から徒歩約5分)に建立されました。2003年6月8日には関係者で記念歌碑除幕式が執り行われました。(写真2葉は、じないまちボランティアガイド・長谷英男様からご提供頂きました。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。)

2003年6月4日(水)から29日(日)まで、寺内町センター石上露子生誕120周年を記念して、「石上露子を偲ぶ着物展」が開催され、生前に着用していた幻の訪問着3点が特別展示・公開されました。また、6月15日(日)午前11時と午後3時の2回、地元のお住まいで「石上露子を語る集い」代表・芝昇一様(当時、故人)による着物の解説も行われました。(注:寺内町ご訪問者及び富田林市社会教育部文化財保護課より情報提供を頂きました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。)
 
本町公園 石上露子歌碑
 
(写真提供:じないまちボランティアガイド・長谷英男様)
「みいくさにこよひ誰が死ぬさびしみと髪ふく風の行方見まもる」
 
(写真提供:じないまちボランティアガイド・長谷英男様)

石上露子(杉山タカ)1882年-1959年
1904年(明治37年)2月、世界の列強ロシアと日本が国運を賭けての戦争が始まった。日露戦争である。同年5月金州、南山の攻略は約1ヶ月余りにわたり激しい戦いが展開された。この戦いに大阪第四師団が参加、富田林及びその周辺の村落にも多くの戦死者を出した。この時、戦死者とその遺族の身の上を按じ、国の行末を思い、言い知れぬ深い不安と悲しみにおそわれて詠まれたのがこの短歌で、明治37年7月短歌誌の明星に夕ちどりの名で発表せられた。芝昇一 記 
 石上露子を偲ぶ着物展示(特別公開)(2003年6月)

Information


(富田林市提供、禁無断転載)

石上露子(いそのかみつゆこ、1882年ー1959年)

本名杉山孝。明治15年(1882年)、南河内一の大地主・杉山家の長女として生まれました。幼時から古典や漢籍、琴などに親しみ、二十歳頃から『明星』などに短歌,詩、小説などを発表しました。雅号は夕ちどり。

古典の教養をもとに、華麗さの中に深い憂いを漂わせた作風で評価され、富田林にいながら明治期の中央歌壇で注目を集め、明治36年に『新詩社』(明星発行の結社)の社友となり、与謝野晶子、山川登美子、茅野雅子、玉野花子とともに「新詩社の五才媛」と称されました。旧家の家督を継ぐ運命のため、思いこがれた初恋の人に対するかなわぬ思いを詠んだ“小板橋”(右記)は絶唱と評され、石上露子の名を不朽のものにしました。

二十六歳で父親が決めた相手と結婚し、夫からは作歌活動を禁じられたため、文学界から身を引きました。後年に「明治美人伝」で紹介され、広く人と作品が知られるようになりました。 二人の息子をもうけたが、長男が病死、二男は自殺し、昭和34年(1959年)に七十八歳で死去しました。墓所は高貴寺(大阪府南河内郡河南町平石)にあります。
(注:富田林市ホームページなどから引用・抜粋しています。)




本町公園

富田林駅から寺内町へ向かう本町筋の途中にある本町公園(本町交番南隣)には、寺内町・杉山家に生まれ育った明治時代の明星派女流歌人・石上露子の歌碑・記念碑が建てられています。また、富田林に逗留した作家・織田作之助記念碑(作品「土曜夫人」の原稿)が建てられています。駅から徒歩3分。

重要文化財・(旧)杉山家住宅

杉山家は富田林寺内町の創設にかかわった旧家の一つであり、江戸時代は造り酒屋として栄えました。現存する家屋は寺内町で最も古く、江戸時代中期の大規模商家の遺構です。昭和58年(1983年)国の重要文化財に指定され、富田林市が維持・管理しています。富田林駅又は富田林西口駅から徒歩10分(入場有料)

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