福田明の生い立ち〜青春時代

生い立ち
 福田明さんは、1956年(昭和31年)北茨城市磯原町豊田に生まれました。お父さんは豊田であまり大きくない農家の七人兄弟の末弟でした。末っ子のお父さんは、働くこと以外に自分の行き方を切り開く方法はありませんでした。お母さんもお父さんに劣らぬ働き者でした。
 両親は近くの製材工場に早出、残業をいとわず働きました。この働き者の次男として生れた明さんは、三才頃から遊ぶ場所はいつも両親が働く工場のまわりでした。わずかな休み時間、お母さんは必ず、さりげなく手を握ってくれました。そして一緒に働く人達のお使いをするのが日課でした。幼い明さんの心に強くのこるのは、お父さんやお母さんの生きることの厳しさと母の手の暖かさ、ひたむきに働く姿でした。

スポーツ好きの明るい少年
 昭和三十八年磯原精華小学校へ入学。小学校時代の明さんは、身体こそ小さいがスポーツ万能選手として大活躍、校内マラソン大会で優勝したりしました。中学に進んでは、野球部でホームランを打ち、小さな強打者として鳴らしました。
 こうした明さんが社会に目を開くようになったのは、戦前から戦争に反対し、不屈にたたかった東京の伯父さんや、共産党員として農民運動に真剣に取り組んできた親類の福田孝(元市議)さんの活動などの影響を受けたことでした。

社会に目をひらく
 日立工業高校三年の夏休み、横浜へアルバイトに行きました。焼けつく炎天下の道路工事です。青森から出稼ぎの農家の人達と一緒でした。「昔の出稼ぎは冬だけ、今の出稼ぎは田植えが終わるとすぐ出る。取り入れが終わればまた出稼ぎ、一年中家族は別れ別れ。故郷では間もなく「ねぶた」の季節。家族の姿が目に浮かぶ、早く帰りたいなあ。こんなくらしが何時まで続くのか」彼らの話に明さんは胸をつかれました。
 懸命に働いても、報われることの少ない社会、このしくみを変えねばと明さんの社会変革への熱い思いがわき上がります。

増田市議と共に
 高校卒業後、地元の南海加工機製作所に入社。その年の夏に日本共産党に入党し、悲惨なベトナム戦争に反対する署名や、原水爆禁止運動など平和をまもる運動に若い情熱をそそぎました。一方、「よい映画を観る会」をつくり「二十四の瞳」「幸せの黄色いハンカチ」などの上映運動を行い、青年運動のリーダーとして活躍しました。
 当時、正義感あふれる福田明青年にもっとも大きな影響を与えたのは、共産党の故増田進市議でした。増田市議とともに市庁舎移転やごみ焼却場問題など市政の重要課題にとりくみ、政治や行政の一つ一つを身につけるとともに、「市民のために身体をはって働く」という同市議の生涯の政治信念をしっかりと学びとることができました。

(1983年5月、北茨城民報より)※この年の6月の市議補選で当選。若干26才でした。