視察紀行

● 伊豆の三島市と古都鎌倉市を訪ねて

● 共産党市長の街、狛江市を訪ねて

● 城下町犬山市と北陸の氷見市を視察

● 飛騨の山都、岐阜県高山市を訪ねて

● 黒潮おどる高知県中村市、須崎市、そして高知市へ

● 三木露風、三木清を生んだ街、兵庫県龍野市

● 山陰地方の境港市、出雲市、そして萩市

● 信州、飯田市の国保引下げの実情を視察

● 北陸の富山県小矢部市、福井県敦賀市へ

● 能代の空と市民の健康が心配、秋田県能代火発


伊豆の三島市と古都鎌倉市を訪問(2002年5月)

 市議会の「議会だより編集委員会」は5月1415日の2日間、静岡県三島市と神奈川県鎌倉市を視察しました。視察の主な目的は、「議会のホームページ」開設についてです。

 三島市議会がホームページを開設したのは平成12年1月で、本会議での発言(議事録)はすべて公開しています。また、議会での重要案件の採択状況は翌日には掲載しているそうです。ホームページに関する予算措置は特にないとのことです。

 三島市は、かつて富士山からの湧き水が市内いたるところで見られ、「水とみどりの街」と言われたそうですが、現在は企業による地下水の取水によって、湧水も夏の二ヶ月間だけ見られるそうです。また、新幹線で東京まで45分というなかで、箱根寄りに宅地造成がすすみ、環境問題が大きな課題となっています。

市職員の話しによると「三島の地価は富士が見える場所ほど高い」といわれましたが、これも天下の富士を背にした街ならではの話だと感じました。私たちが訪れた日は、残念ながら曇り空で富士を仰ぎ見ることはできませんでした。

 鎌倉市議会は平成12年5月にホームページを開設し、議会広報を掲載しています。また、点字や声のテープによる広報の作成が市内ボランティアによって行われています。今後の課題としては、議事録の全面掲載やホームページによる議会中継をどうするかであるといいます。鎌倉市議会は地元では「荒れる議会」とよばれ、一般質問を一人で一ヶ月間やった議員がいたという話しには正直驚かされました。「質問は一答一問形式で持ち時間は無制限の一本勝負。これも源平合戦の名残でしょうか」と、いう職員の話しには、古都鎌倉ならではの面白みを感じました。鎌倉の観光客はNHKの大河ドラマ「北条時宗」効果で年間1.800万人にのぼるそうです。

 視察終了後、鶴岡八幡宮に通じる若宮大通を歩いていたら、核兵器の廃絶を求める「平和行進」の大群に出会いました。なぜか、「古都の町には平和がよく似合う」と、実感しました。

鎌倉市議会を視察する「議会だより編集委員
会」メンバー 前列右端が福田明議員


日本共産党市議団が共産党市長の狛江市(東京)を視察(2002年2月)

左から田辺狛江市議・福田市議・鈴木市議・小林日立市議

 私たち日本共産党北茨城市議団(福田明議員・鈴木康子議員)は、二月二十日に共産党員が市長を務める東京都狛江市を視察しました。この視察には日本共産党の小林真美子日立市議も参加しました。

視察の目的は@市長の公務日誌の公開についてA住民参加の行政についてです。

狛江市は九十六年の六月に当時の共産党市議団長であった矢野裕さんが市民に推されて市長選に立候補して当選、関東地方では初の共産党員市長が誕生しました。二〇〇〇年の二期目も当選し、住民本位の市政を推進しています。議員定数二十三名に対して与党は日本共産党(六人)無所属(一人)の計七名の少数与党です。

市長の公務日誌や交際費・食糧費の使途も公開

市長の公務日誌の公開は、矢野市長が初当選した時の選挙公約であり、現在はホームページ上で公開されています。これは日本で唯一です。同様に市長交際費や市長室の食糧費の使途・入札の予定価格等についても詳細にホームページで全面公開されています。

議会では少数でも住民では多数派

 狛江市は土木予算を半減し、低所得者の介護保険料の減免や児童館の内容充実など市民の暮らし最優先の政治を貫いています。

 議会では少数与党ということで、野党による市長問責決議や助役人事の否決など様々な妨害がやられています。議会ではどんな小さなミスも許されない緊張した姿勢で市長や与党議員は臨んでいます。

 視察終了後に懇談した日本共産党狛江市議団の幹事長は三十七才の若い一期目の議員ですが「議会では少数派でも住民の中では多数派である。」と、力強く語っていたのが印象的でした。

 視察団は共産党狛江市議団の与党としての苦労話や議員活動についても意見交換し、お互いに「住民こそ主人公」の政治めざして奮闘することを約束して狛江市を後にしました。


 城下町犬山市と能登半島の氷見市へ (2001年10月) 

 建設委員会は、十月二十四日〜二十六日、愛知県犬山市と富山県氷見市の行政視察を行いました。(私は都合で二十五日夜半に帰宅)

 犬山市では木曽川に架かる犬山橋(通称.ツインブリッジ)を視察しました。この橋は対岸の岐阜県各務原市とを結ぶ重要な橋で、大正時代に架けられた以前の橋は、全国でも数少ない道路と鉄道の併用橋でした。新しく架けられた犬山橋は、道路専用橋ですが、何よりも景観に配慮したシンプルな感じの橋で、そこからの犬山城の眺めは絶景でした。橋梁部の建設予算は五十億円で、それを愛知県が三十五億円、岐阜県が十五億円負担しました。本来、県境に架かる橋の負担は半額づつが基本ですが両県については江戸時代から県境(尾張と美濃)に架かる物を造る場合、お金は全て尾張藩が出すもの決められ、その名残が今でも引き継がれているとの事でした。  

 氷見市では公共下水道施設を見学。公共下水道の終末処理場に農集排水を結ぶなど参考になる点がありました。また氷見港は富山県随一の漁港で、そこで水揚げされる鰤(ぶり)の味は最高との事です。それを食べられなかったのも残念ですが、私にとって、それ以上に残念だったのが、海越しに見えるはずの立山連峰が望めなかったことです。


飛騨の山都、岐阜県高山市を訪ねて (1999年10月)

京と江戸の文化が混じり合う高山市
 岐阜県高山市は、県の北部の飛騨地方の中心都市で人口6万7千人の街です。東に乗鞍、穂高の北アルプスを望み、西に白山を眺める山都です。
 街の歴史は古く、秀吉の命を受けた金森長近が1585年に飛騨を支配し城下町を形成しました。その後、徳川幕府が天領として支配しました。その影響からか、京の文化と江戸の文化が混じり合う高山独特の文化を育んできました。
 視察の目的は「歴史的地区環境整備街路事業」です。高山駅前から歴史的な町並みが保存されている約800メートルを整備する事業で総予算は6億円。来年度には完成する予定です。
 歴史的な景観を損なわないように、路面はアスファルトではなく、焼瓦がひきつめられており、一見、磯原駅東口の本町商店会の通りを連想させるものでした。この道路で驚いたのは、駅前の交差点でも信号機が設置されていないことです。それなりの交通量もありますが、何の支障もなくスムーズに車や人が行き交っています。茨城とは運転手のマナーが違うのでしょうか。

歴史的景観を守ったのも市民の力

 高山市は飛騨の「小京都」といわれ、街の真ん中を流れる宮川沿いの古い町並みは、たしかに京都の祇園に似て風情があります。
 この伝統的な町並みを守った背景について市の課長は、宮川が汚染されてきた昭和四十年代の初め頃、@清流を守ろうと子供会が鯉の放流をはじめた。A婦人会が合成洗剤の追放運動に立ち上がった。B祭りの屋台(鉾)組の住民が中心になって「町並み保存会」がつくられた。「この三つの力が歴史的な街、高山を守った力であると思う」と、語りました。
 現在、高山市は北アルプスの安房トンネルの開通によって関東以北からの観光客が急増し、年間約300万人を数え、経済波及効果は約3000億円になるそうです。かつての主産業であった製材業者は減り、観光が市の中心産業になっています。
 高山の良さについて課長は「出張から帰ってきて駅に降りると、それだけでホットする落着いた街です」と、自慢げに話していました。約80億円を投じて最近完成した市庁舎は豪華な建物でした。
 かつての明治以後の日本資本主義の発達の歴史の中で、繊維産業が果たした役割は大きなものがあります。過酷な労働の実態を暴いた小説「女工哀史」の女工は、飛騨のうら若い女たちでした。一家のために、険しい「野麦峠」を越えて信州の諏訪地方へ行ったわけです。
 帰りの車窓から乗鞍岳を眺めながら、ふっと、当時の女工たちのことを思うと、気持ちは複雑でした。
 高山市の共産党は、今年の一斉選挙で一名増えて、三名の議員がいます。飛騨の山深い街でも、確実に政治革新の芽が育っていることを感じて高山市を後にしました。


 
黒潮おどる高知県中村市、須崎市、そして高知市へ
 (1998年10月)
 わたしは、建設委員会の行政視察(10月14〜16日)に参加しました。

日本の最後の清流、四万十川が流れる街、中村市
 中村市は高知県の南西部に位置し、人口三万五千人の街で、今から約五百年前の応仁の乱の際、前関白の一条教房が戦乱の京都を避けて中村に移住して拓いた街といわれています。その街は京都に似て「土佐の小京都」と詠われ、街の三方が山に囲まれ、その前面を悠々と四万十川が流れています。
 視察の目的は「四万十川清流保全条例」の制定についてでした。市の説明によると、四万十川が全国的に有名になったのは昭和60年にnhkが「日本最後の清流、四万十川」を放映してからのことですが、実はその頃から都市化等によって四万十川の水質は汚れ出し、鮎、アオノリの漁獲量が減少してきたといわれています。
 そうした中で、昭和62年に市民が中心になって、四万十の清流を守るための「保全条例」の制定を求める陳情(5800名)を議会に提出して採択され、その後さまざまな検討を加えて、平成2年に条例を制定しました。
 この条例の前文には「今や貴重な国民的財産といえる四万十川を守り、後世に引継ぐことは、現在に生きる私達の責務である」とのべ、「市民あげて四万十川の清流を守ることを決意する」とあり、行政と共に市民みずからも清流を守るための自主的な努力を求めているのが特徴です。
 例えば、合成洗剤から粉石けんへの切り替え運動がすすめられ、現在では市民の間で定着しています。また、行政については自然景観の保持を義務づけ、景観の悪化につながる開発は条例によって規制されています。工場廃水や農家の家畜糞尿の適正処理も義務づけています。
 中村市の議長があいさつで「四万十川はエビ、鮎、うなぎ、ゴリが採れ、河口ではアオノリが採れる西日本では唯一の川。全国色々な川を観たが、四万十川の清流は日本一だ」と豪語しました。翌朝、私は朝もやの中を悠然と流れる四万十川を観ましたが、その瞬間、議長が自慢するのが納得できました。
 中村市は明治時代の社会主義者、幸徳秋水の出身地です。秋水は日露戦争に反対し非戦主義を貫き「社会主義神髄」などの著作を刊行して、わが国に社会主義思想を広めました。しかし、天皇暗殺計画の首謀者とでっちあげられ、大逆罪で死刑に処されました。四十四歳でした。
 秋水の墓は中村裁判所裏の正福寺の境内にあります。墓地には記帳ノートが置かれてあります。私はそのノートに「あなたの掲げた理想の社会は、かならず近い将来実現すると確信します。政治革新を願う一人として私もがんばります。」と記して、次の視察地である須崎市に向かいました。

国際貿易港かかえる港湾都市、須崎市
 須崎市は高知県の中央部に位置し、人口二万八千人の街です。須崎湾に抱かれた須崎港は県内屈指の自然の良港であり、古くから多くの物質が流通する港町として地域の発展に貢献してきました。幕末大政奉還を迫って奔走した坂本竜馬が嵐を避けるために寄港した港でもあります。
 現在の須崎港は、ニュージーランド最大の輸出港であるタウランガ港と姉妹港の提携を結び、ニュージーランドの木材を積んだ1万トンを濾す大型船が頻繁に出入りする国際貿易港となっています。
 視察の目的は、「水と緑のシンボルロード整備事業」についてです。かつて市街地を流れる池ノ内川は、ハゼ、エビ、ウナギの棲む美しい川であり、市民の憩いの場でした。ところが近年は家庭排水糖の汚水流入により、その面影はなくなり環境の悪化が進むばかりでした。
 そこで池ノ内川を暗渠化(ボックス化)して、その上部に清流を流して「せせらぎ」を持った公園整備を行うという事業でした。総事業費は高知県と須崎市の共同で約20億円です。
 整備された「水と緑のシンボルロード」は東西に800m、幅20〜30mでほぼ一直線のメインストリートであり、親水、休憩、修景の3ゾーンに分かれています。春から夏にかけては、せせらぎで水遊びをする子供たちで賑わい、朝夕は市民の散歩、ジョギング、夏の夕涼みなど憩いの場として広く利用されているようです。
 私たちは詩の説明を受けた後、市議会の案内で「シンボルロード」と埠頭に木材が高く積まれた須崎港を見学して視察を終え、最終宿泊地の高知市に向かいました。

自由民権運動の流れが今も息づく街高知市
 県庁の高知市は人口32万人の県の政治、経済、文化の中心地です。かつての土佐24万石の城下町として栄え、「幕末の英雄」坂本竜馬を生んだ土地でもあります。
 私は夕方、街の中心部にある高知城の公園内を歩きました。公園内では城を背にムシロを敷いて賑やかに将棋を指す多数の市民の姿がありました。ここにも南国高知ならではの開放的な県民性が感じられました。
 城の入り口から続く追手門通りでは、毎週「日曜市」が開かれ、650軒の露店が通りの両脇に並びます。地元の人の話では「日曜市は江戸時代から三百年間,雪の日も嵐の日も一日も休むことなく続けられた」といわれ、土佐人の心意気が伝わってくるようでした。
 翌朝、タクシーで帰路の高知空港に向かう途中、運転手は太平洋が一望に見渡せる場所で車を止めて「これが太平洋です。竜馬は、この海の向こうにカリフォルニアがあるといった。土佐の人間は考えることが大きいんです。」と自慢げに言いました。また、運転手は「土佐では、酒が少々飲める、というのは、男なら一升か二升のこと。女なら五合から一升のこと。土佐は酒の飲めない人にとっては地獄です。」と、楽しい話を聞かせてくれたが、「じゃ私にとっては天国か」と、妙に感心して私自身、聞き入ってしまった。
 土佐は竜馬をはじめ薩摩、長州と並んで明治維新の原動力となった多くの志士を生みました。そして明治の初めには「自由は土佐の山河より」と、いわれるように自由民権運動の発祥の地として、歴史に大きな役割をはたしました。
 そして現在、高知(土佐)は京都に次いで日本共産党の最も強いところとして、衆院議員が2名おり、そして半数以上の自治体は共産党が与党の自治体となっています。
 自由民権運動の歴史の流れが、「国民こそ主人公」をつらぬく日本共産党への支持という形で、現在に引継がれていることを力強く思い土佐の地を後にしました。



三木露風、三木清を生んだ街、兵庫県の播州龍野を視察
  (1994年5月)

 私は市議会の産業委員会の視察で五月二十四日、兵庫県龍野市を訪れました。
 竜野市は人口が現在約四万人。かつての脇坂氏(五万石)の城下町として栄えました。市内の中央を揖保川が流れ、鶏籠山などの山並みが街の背後を囲み、播磨の「小京都」といわれる実に風光明媚な街です。
 街の産業は揖保川の清流を利用して、古くから発展した薄口醤油や「揖保の糸」の名で全国に出荷されている素麺が有名です。
 また竜野は、以前に映画「男はつらいよ」の第十七作、「寅次郎夕焼け小焼け」の舞台にもなった街で、この題名からもわかるように童謡「赤とんぼ」の作者である三木露風を生んだ街として知られています。同じく哲学者の三木清の出身地でもあります。
 私たち産業委員会は、竜野市の@「桜づつみ事業」A「童謡の里づくり整備事業」B「歴史的な町並み整備」の三点について視察を行いました。
 @の「桜づつみ事業」は河川緑化推進の一環として、88年に全国で最初の「モデル事業」として建設省と竜野市が実施したものです。揖保川の堤防沿い約八百bに桜(35品種、370本)植え、ベンチ等の施設を設置した事業で総事業費は約四億円(建設省3億円.市1億円)です。あと10年経てば、すばらしい「桜づつみ」になっていると思います。
 Aの「童謡の里づくり」は、三木露風の生誕地にちなんで84年に「童謡の里宣言」を行い、それ以来、日本童謡祭等の各種イベントの開催、また「童謡の小径」と呼ばれる公園をつくり、歌碑の前に立てば童謡のメロディが流れるユニークな公園です。この公園には雨情の「七つの子」の歌碑もありメロディを奏でていました。
 Bの「町並み整備」は、歴史的な竜野の町並みを保存するために、市に「町並み対策室」を設置して、保存地区については一定の規制(高さや色等)をしながら、改築等には市が助成し、かつての町屋や武家屋敷、社寺、醤油蔵などが観られる竜野独特の町並みを保存しょうとするものです。
 このような竜野市の自然と歴史を生かし、大切にする行政は非常に参考になりました。雨情や天心など、すぐれた先人を生みながら、自然や環境を破壊する石炭火発を推進しょうとする北茨城市政とは雲泥の差を感じざるをえませんでした。
 視察の最後に三木露風や三木清、内海青湖(反戦詩人)、矢野勘治(一高寮歌作詞)など、郷土の生んだ文化人の文献や遺品をそろえた霞城館という資料館を訪れました。
 その中で私が最も心をひかれたのは、三木清でした。
 三木清は「世界的哲学者」の道を切り拓いていましたが、昭和20年3月、日本共産党の高倉テルをかくまったとして、当時の悪法、治安維持法違反で逮捕され、終戦になっても釈放されず、9月26日、東京の豊多摩刑務所で獄死しました。
 三木清自身は共産党員ではありませんでしたが、真実に生きる哲学者として、命を賭けて「主権在民」「侵略戦争反対」を貫いた日本共産党に共感し、支援をおしまなかったといわれます。
 三木清の歌碑は竜野の街が一望できる白鷺山の麓に建てられています。その碑には「しんじつの秋の日てればせんねんに心をこめて歩まざらめや」と、刻まれています。
 私は、この詩の意味をかみしめながら、竜野の街を後にしました。


山陰地方の境港市、出雲市、そして萩市 産業委員会が行政視察(1993.10)

 私は、市議会の産業委員会の視察で10月4日〜7日まで鳥取県境港市、島根県出雲市、山口県萩市を訪れた。
 境港市は自然の良港をもつ水揚げ日本一の漁港の町であり、出雲市は木造づくりのドーム球場建設などユニークな町おこしに取り組むなど、それぞれ特色のある待ちでった。
 しかし、私が最も心をひかれたのは山口県の萩市である。萩市は、かつての毛利37万石の築城として吉田松蔭、木戸孝充、高杉晋作などを生み、明治維新の震源地となった地である。人口5万人。阿武川の三角州にひらけた町並みと碧く輝く日本海、そして数々の島々、この光景は私が今まで見た街で最も美しい町の一つであろう。
 萩市役所では観光行政などの説明を受けた。その中で「修学旅行の減少で観光客は年々減っており、人口も産業のない萩市を多くの若者が去って、大阪、東京方面に就職してしまうため減っている」と語っていた。しかも財政力は北茨城市よりも弱い。
 しかし、萩の市長は(先月死去)をはじめ、「これでいい」という。町全体が歴史の街である萩市には「産業(工場)などはできない。それより後世にこの歴史と自然を守り抜くことが責務」という思想が色濃く行政側に反映している。全国に先駆けての都市景観条例の制定や庭園都市構想など、その意欲は相当なものである。
 幕末の多くの志士を生んだ萩市は「山口県出身の総理大臣は七人、そのうち五人は萩出身」というのが自慢の一つらしい。
 今日でも教育には熱心で市が平成維新塾を開校。かつてのように萩から偉大な人物の輩出を願って、国内の各分野で活躍している一流の人々を講師に招き、市民教育に力を注いでいる。
 萩市役所の案内で松蔭神社や松下村塾、高杉晋作などの史跡を見て回った。
 この街が、約130年前の幕末期、日本の政治を大きく動かした地かと思うと感慨迫るものがある。
 「山と川のある街」山口県萩市は、私にとって忘れられない街の一つとして、いつまでも胸に残るであろう。


信州、飯田市の国保引下げの実情を視察(1993.10)

 さる10月21日〜23日まで市の国民健康保険運営協議会(国保運協)は、長野県飯田市の国保状況を視察しました。
 今回の視察は、先の国保運協において私が「国保税は市民にとって耐えがたい状況になっている。住民の立場に立って、どうすれば軽減できるか、先進地に学ぶべきである」と提案。その視察地に飯田市が選ばれました。
 飯田市は長野県南部の伊那地方の中心地で商業が盛んな人口約10万人の城下町です。この飯田市では、三年連続して国保税の引下げを実施し、来年度もさらに引下げる考えといわれています。
 本市と比べて税率が極めて低く、たとえば年収二百万円(資産なし)の4人家族の場合、本市なら年額22万8千円ですが、飯田市なら16万3千円と6万5千円も本市より安いということになります。まして今年7月に飯田市に合併した上郷町の場合は本市の半分の税額という安さです。
 当然のことながら一人当たりの医療費は、本市に比べて約3万円近く低くなっています。この背景には保険行政がしっかりと整備されていることが上げられます。保険課が独立(本市は保健年金課)し、その下に健康管理課、保健指導係、看護係等があり、保健婦の数は実に26名にのぼり全国トップクラスです。ちなみに本市は6名であり人口比でも飯田市の半分以下です。このような保健行政の充実の中で医療費の軽減がはかられていると実感しました。
 また、滞納者に対しても本市のように短期保険証の発行や保険証の未交付(資格証明書)などはいっさい行わず、国保加入者には全て保険証を交付するなど住民本位の行政が貫かれていました。
 この飯田市を含む伊那地方は衆院長野三区に地盤であり、日本共産党が永年にわたり林百郎氏、その後継者である木島日出夫氏が議席を得てきた、革新的気質の強い地域でもあります。
 国保税三年連続引下げの背景には「国保税の引下げを!」という大衆的な運動があったと、後に知りました。
 私は、本市においてもこれらの教訓に学び、国保税の引下げの実現めざし全力でがんばる決意です。


富山県小矢部市と福井県敦賀市を視察(1995年11月)

 産業委員会では十月七日から九日までの三日間、富山県小矢部市、福井県敦賀市を視察しました。
メルヘンの街、小矢部市
 小矢部市は富山県の西端、砺波平野の中にあります。農村地域は「砺波の散居村」と呼ばれるように、火災から集落を守るため一軒一軒の家が離れて建てられ、家の周囲を防風林が覆っています。島根県の出雲地方に似た、日本海側の独特の農村風景をかもし出しています。
 この小矢部市での視察の目的は「メルヘン建築」についてです。例えば中学校の校舎が東大やオックスフォード大学であったり、公民館がニコライ堂というように、市内36ヶ所の公共施設が国内外の有名な建築物とそっくりに建てられています。砺波平野に建つこれらの施設が、まるで「メルヘンの世界」を想わせます。
 この「メルヘン建築」の創出に当たっては、建設省出身で一級建築士でもあった前市長の指導理念に寄るところが大きかったようです。
 あえて私見を言えば、これだけ建築物にこだわるのなら、有名建築のそっくりショーもよいが、それ以上に小矢部の歴史と風土に根ざした、創造的な建築を考案しても良かったのではないかと思います。

国際貿易港、敦賀市

 荒れ狂う初冬の越前海岸を通って福井県敦賀市へ。敦賀市の歴史は古く、中国、朝鮮、ロシアなど大陸との交流も盛んでした。明治になるとロシアとの貿易も始まりウラジオストクとの定期航路を開設し、対岸貿易の拠点となりました。
 また、尊王攘夷を唱えて水戸天狗党の八百余名が朝廷に直訴しょうとして京都に上る途中、敦賀で捕らえられ武田耕雲斎ら353名が幕府によって処刑された話は有名です。現在「水戸烈士の墓」として敦賀市民によって大切に保存されています。こうした因縁から水戸市とは姉妹都市となっています。
 現在でも日本海屈指の敦賀港を中心とした貿易と商業が盛んな街ですが、近年、原子力発電所と石炭火発が集中立地され「エネルギー基地」の様相をつよめています。数年後にはlng(都市ガス)のタンク基地を作り、パイプラインで京都や大阪に送る計画といわれています。
 市の財政は原発、火発の立地で大変豊かですが、償却資産税の落込みは年々大きいようです。
 敦賀市の自慢の一つは地方テレビ(敦賀市内対象)があることです。市内の全世帯が加入し、市内の話題や防災情報が市民に提供されるとのことです。
 石炭火発(50キロワット)が運転開始して約4年。市の説明では現在「石炭灰は全て敦賀セメントがセメントに混ぜる原料として買い取っている。石炭の飛散などの苦情は一件もない」とのべています。しかし、数年後には石炭火発(70キロワット)を一基増設される見込みであり、今後どのような環境への影響があるのか、注意深く見守りたいと感じて敦賀市を後にしました。


能代の空と市民の健康が心配  市議会が能代火発を視察  (1993,年6月)

初めての東北、すばらしい水田地帯
  今回の視察は電車で約8時間かけて能代に行くという日程でしたので、仙台より北へ行ったことのない私自身にとっては、車窓から眺める東北地方の風景は格別でした。
 特に「ササニシキ」に代表される米どころ東北の水田地帯のすばらしさ、盛岡の街を包むように立つ啄木の愛した岩手山は忘れられません。
 しかし、「米の輸入自由化反対」の看板が数多く見られ、今日の農業情勢の厳しさを訴えかけているようです。

県と一体で推進された能代火発
 能代市は秋田市に次いで市政が執行された歴史のある街です。人口 五万六千人。市内を流れる米代川上流は秋田杉の産地で、市は「東洋一の木都」として栄えました。しかし、戦後二度にわたる大火に見舞われ壊滅的な打撃を受け、五〜六十年代は財政再建団体になりました。
 発電所の用地は当初、木工団地を予定していましたが73年のオイルショックで断念し、火発の誘致に県と市が一体となって動きました。
 その背景には、火発を誘致して能代港を大きくしたいという狙いがあったようです。

極めて甘い濃度基準
脱硝装置も付けずに酸化窒素を大量放出か

 能代火発は60万キロワットが最終三基の計180万キロワットで現在、1号機が先月の28日に稼動したばかりで、2号機は来年の暮れに稼動予定で建設中でした。
 この火発の特徴は、大規模な石炭火発にもかかわらず、1号機には脱硝装置を付けず、窒素酸化物を大量放出して日本海からの強風で広域拡散しょうという時代錯誤の環境対策があげられます。
 脱硝装置を付けただけで、窒素酸化物の排出量も濃度も5分の1に減るの付けようとせず、自然環境のすぐれた北国の空を、環境基準いっぱいに汚して恥じない企業の姿勢と、それに迎合する県、市の姿勢はゆるせないと思います。

経済効果は一時期だけ。能代の空が心配
 市の説明によれば「火発建設の最盛期には、1.500人の労働者が働き、市の飲食店やタクシー、旅館などが賑わった」と、良いことづくめ説明をしていました。
 しかし、本当にメリットだけなのだろうか。建設時の賑わいは、建設が終われば、後は閑古鳥です。能代もその例外ではないでしょう。
 九年前の日本海中部地震の津波で能代火発の造成工事をしていた35名の労働者の尊い命が犠牲になったが、そのほとんどは労働者名簿にも載っていない孫請けの日雇いの人々でありました。ずさんな雇用関係と同時に、労災保険、その他多くの問題も明るみに出たといいます。
 火発の脇には、日本四代松原の一つといわれる「風の松原」という景勝の地があります。静岡県の知事は「三保の松原に火発は似合わない」とのべて、火発を阻止しましたが、秋田県の知事は推進しました。どちらが正しいかは明らかだと思います。数年後の能代の空と「風の松原」、そして市民の健康が心配でなりません。