絵は神奈川県庁屋上から横浜港を眺めた風景です。右側手前の塔は横浜港のシンボルである税関のクイーンの塔で、その背後に大桟橋の先端部が見えています。左側には赤レンガ倉庫が、その背後には横浜海上保安部の2艇の巡視艇が停泊しているのが見えています。
遠く霞むように見えている建物以外は、主に埋め立て地の工場群で、左側には瑞穂埠頭の発電用風車、右側には東電の横浜火力発電所の2本の煙突(高さ200m)および大黒大橋等が目立っています。
横浜市は海岸や河川沿いの低地や台地・丘陵地よりなる人口約370万人、面積約430km2の巨大都市ですが、ここでは関内や桜木町など横浜港を形成する区域およびその周辺部に限るものとします。
横浜港周辺の人工的に改変される前の地形は、野毛山や山手町の台地とこれらに挟まれた入り江およびこれを塞ぐようにして伸びた砂嘴(さし)などで形成され、入り江の奥には大岡川が注いでいました。この入り江のほとんどは江戸時代の干拓により新田として生まれ変わりましたが、開港当時はまだ入り江の一部が残っており細長い形状の砂嘴上で横浜港がスタートしました。その後、入り江は埋め立てられ地形としての砂嘴はなくなりました。また、赤レンガ倉庫がある新港埠頭は明治に埋め立てられ、赤レンガ倉庫は明治から大正にかけて完成しました。現在の埋め立て地は初期の横浜港施設を残しながら、鶴見区生麦から大黒町や大黒ふ頭などが港を囲むように連なっています。県庁の屋上からは海側の風景はそのほとんどが埋め立て地に立地する港湾施設や工場群です。
1854(安政元)年にペリー一行が上陸して日米和親条約が締結された場所は県庁の南東側の通りを1つ隔てた横浜開港資料館(旧英国総領事館)付近であり、当時描かれた絵には沖の蒸気船からボートで砂浜に上陸した様子が描かれています。現在の県庁も開港資料館もかっての砂嘴の上にありますが、横浜市の市名は砂嘴にあった横浜村を引き継いだものです。横浜は横に伸びた長い砂浜(砂嘴)を意味し、地形に由来した名前です。砂嘴の砂や礫は山手町(港の見える丘公園など)の海側斜面に連なる波食崖が浸食を受けることによって供給されたもので、厚いところでは20m以上堆積しています。
野毛山や山手町など横浜港周辺の台地は3~2百万年前以降に堆積した砂岩や泥岩よりなる上総層群が分布しています。海底で堆積した上総層群は約100万年前ごろから陸化していきますが、横浜港周辺の台地や低地などの地形は約12万年前(下末吉海進)以降の海水準の変動を通して形成されています。
約12万年前は温暖で海水準の上昇が世界的な規模で起こりました。海水は当時の陸域に侵入し、海岸付近での浸食と堆積によって波食台や干潟などの平坦地形が広く形成されました。その後海が退くと後には平坦な地形が残されました。これが現在の台地の原形であり、下末吉台地と呼んでいます。
約2万年前の氷期極大期には海水準が現在よりも100m近く低下し、横浜の大岡川は深い谷を形成しながら横浜港外に出て、東京湾中央部を流れる「古東京川」に合流していました。古東京川は利根川*や多摩川を上流に持つ大河川であり、三浦半島の観音崎の先で太平洋に注いでいました。 さらに、氷期が終了して間氷期になると海水準は上昇して6,000年前(縄文海進)には現在よりも4~5m高くなりました。大岡川の下流域では海水準の上昇に埋積作用が追い付かず、その後現在の位置まで海水準が低下しても入り江として残りました。この入り江は江戸時代から干拓や埋め立てが行われ、新田を経て現在の市街地へと変わりました。
*利根川 銚子から太平洋に注ぐようになったのは江戸時代初期の河川改修によるもので、江戸時代以前は東京湾に注いでいました。
参考資料
・宇多高明・田中常義・森義将・峯浩二・木村尚 2003 横浜港周辺における海食崖と砂嘴の発達に関する一考察 地形 第24巻第2号
・資料1 大いなる神奈川の地盤 その生い立ちと街づくり 2010 地盤工学会 関東支部神奈川県グループ編
・jera 横浜火力発電所 高さ200mの「ツインタワー」がシンボル 株式会社JERAパンフレット
・地理院地図(電子国土Web)