東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)
地震・震災あれこれ


 緊急地震速報と原発事故をめぐって (寄稿文2011/4/24) ありがとうございます。

 宮城県沖地震はどうなった?

 地域社会と生活再建(2011/5/22追加)

 死者行方不明者等の推移(2011/6/12追加、2011/10/23更新)


 緊急地震速報と原発事故をめぐって(寄稿文) 

緊急地震速報がテレビで流れるのを見ると1964年10月1日に開業した東海道新幹線開業の頃が思い出される。僕は入社6年目、この年の6月16日にあの新潟地震が起こり、国鉄は新潟駅構内入り口の陸橋が転落してディーゼルカーをつぶしたりしたほか、大被害をこうむり、「地盤の液状化現象」を多くの人は初めて知ったのだった(ちなみに僕の学位論文(1971)は地震による土の液状化に関連している)。

東海道新幹線の路線は、この当時まで誰も相手にしなかったので空いていた、名だたる軟弱地盤地帯ばかりを選んで通っている。おまけにほとんど砂盛土で建設されていたから、この地震で心配になった国鉄本社から技術研究所に何か対策を考えよという急な命令。当時、国鉄の地球物理屋は、京大櫻島火山観測所を辞めて鉄道技研に僕より後から入ってきたF先輩(故人)と僕の二人しかいなかった。土木屋や地質屋ともども集まって鳩首協議した結果、お前たち二人でなにか考えろという。地震で線路が破壊しても、列車が高速のまま突っ込むことだけは避けたい。こんな事故が起こった場合の補償額を検討していた研究員もいた。

このような事故を防ぐには、地震を検知したら、即非常ブレーキをかけて列車を停めるしかない。そこで東京・新大阪間500キロに20キロおきにある25箇所の変電所に地震加速度計を置き、それがあるレベルを超えたら電源を遮断する策を考えた。新幹線は1秒以上停電すると非常ブレーキをかかるようになっていたからだ。でも、もう3ヶ月しかない。地震計の製作が間に合うだろうか?僕たちは某地震計メーカーに見込みで材料を発注するよう示唆した。

ところが、国鉄当局は、こんな重大事を国鉄部内だけで決めていいだろうかとにわかに不安になったのである。そこで官僚がよくやる手法として、この同じ課題を東大生産技研のO教授(故人、耐震工学)に委託研究として依頼したのである。だが誰が考えても同じような答えが出るに決まっている。ただ問題は、生研の採用した地震計メーカーが、僕たちの頼んだメーカーと違っていたことだ。こうして僕たちと打ち合わせていた第一のメーカーの営業担当者は、見込み発注で受けた損害の責任を取らされてその会社を辞めることとなった。

この装置は「耐震防護装置」を呼ばれ、その後すべての新幹線に次第に改良されながら取り付けられた。東北新幹線では、問題となる地震の多くは三陸沖を震源とすることから、感震器を線路から離れた海岸付近に置けば、海岸から線路までの地震波伝播時間でブレーキ時間を稼げるではないかというアイデアが、多分F先輩がいいだした。この頃までは、地震の主要動を計ってから、その強弱でブレーキをかけるかどうか決めていたのである。時速200キロの列車が停まるまでに、条件により2~3キロメートル走ってしまうから、線路の破壊箇所に突っ込んでしまうかもしれないが、それでも停まるまでに減速はしているわけだから何もしないよりははるかにましだろうという考えだった。(この頃、僕が「新幹線は危ないからなるべく乗るな」と同期のT君にいったらしく、彼に後々までいわれたものだ。)

この技術は後にさらに発展して、初期微動を計測して震源およびその大きさを判定し、それによって警報を出そうというところまで行った。これは鉄道総研のF氏の後任、N、A氏らにより改良され、ついに現在、気象庁の緊急地震速報に利用されるところまでいっている。余計なことだが、僕たち(Fさんと私)がこんなことをやらされたことは、鉄道総研のAさんも知らなかった。それは当時の国鉄は隠蔽体質で、そんなことは部外秘で一般にはまったく公表されなかったからである。N氏はこの技術で会社を興し、A氏は鉄道総研の現役で著名だが・・・。

原発の耐震性については苦い思いがいくつかある。僕は京大熊取原子炉施設などの一部の「反原発」グループとはつながってはいないが、あれは相当危ない技術だと思っていたから、何かの折に原発建設予定地の人たちに引っ張り出されて助言したりすることが多かった。関電も若狭湾沿いに相当多数の原発を作っているから、関電の顧問的な工学部や理学部の先輩教授たちと事実上対立する立場になってしまっていた。

中部電力浜岡原発の第3号炉だったか、初めて100万キロワット級の原子炉が計画されたときも故藤井陽一郎氏(元国土地理院の測地学者)や日本科学者会議静岡支部の諸氏と一緒にその計画の批判に加わった。僕が静岡だったか、浜岡だったか、住民に招かれて問題点を解説する講演にいったとき、大々的に宣伝カーが講演会の知らせを流していて仰天したこともある。このケースで僕が一番気にしていたことは、浜岡原発は御前崎にあり、いずれ起こるべき東海地震に震源域の真上に建設されるのだから、地震が起これば未知の活断層が割れたりして、海から地中管で取入れている冷却水系が破断される恐れがある。冷却が破綻したらどうするのかということだった(地震断層と原発の問題は、のちに東海地震の言いだしっぺである優秀な地震学者、石橋克彦氏(神戸大学名誉教授)らがさらに追求している)。だが僕たちの批判など一顧もされず工事は強行されてしまった。福島原発では、もっとひどいけれどもまさにそういうことが起こっているではないか!最近のニュースによると、中部電力は今回の福島原発の事態を見て、2−3年中に高さ10数メートルの防潮堤を作るといいだしたらしいが、果たして時間的、高さ的にそれで間に合うかどうか?

若狭湾の原発の冷却系も問題がある。これはほとんどブラックジョークに近いが、夏を過ぎる頃、ここにはくらげが大量発生して2次冷却系の給水口をふさいでしまうからである。その対策はあまりいいものがなく、仕方なく網と柄杓(ひしゃく)で一生懸命すくってとっているというのが実態だ。日本の原発はすべて海辺にあり、2次冷却水に海水を使っている。ということは、どの原発も津波の脅威に多かれ少なかれさらされているということだ。ドイツの原発はライン川沿いにあり、河川水の放射能汚染が関係諸国から批判されている。これもドイツの「脱原発方針」の1理由になっているかもしれない。


宮城県沖地震はどうなった? 

前回の宮城県沖地震は1978(昭和53)年に発生しました。今年(平成23年)の6月で、前回の宮城県沖地震から33年が経過します。宮城県沖地震の繰り返し発生間隔は下のグラフに示すように平均的には37年程度であり、既にいつ起こっても不思議ではない時期に入っていました。
 このような状況下、今回の巨大な東北地方太平洋沖地震が発生しました。
 2011年4月26日の地震予知連絡会によると、東北地方太平洋沖地震発生時に宮城県沖地震も起きていたとする見解が発表されました。宮城県沖地震の震源域の断層も東北地方太平洋沖地震の断層と一緒になって動いたという解釈です。

 宮城県沖地震についてはこちら


地域社会と生活再建

被災者には身近な人の死、財産の喪失、失業などの災いが重なります。災害直後の高揚した精神状態の時期を過ぎると、将来の展望が開けないことによる閉塞感と孤立感により、被災者は精神的に追い詰められていきます。

被災者の生活再建を個人の問題と捉えると、第一は収入の確保です。被災地に仕事がなく、見舞金や義援金を生活費に使うような状況が続けば、仕事を求めて被災地を離れることになります。大災害の場合は直接的な人口減少と生活ができないための人口流出が重なり、被災地は荒廃していきます。
 1771年の八重山地震津波では津波による被害が少なかった地域でさえ人口の減少が起こり、人口が津波以前に戻ったのは148年後の大正8年であったという例があります。

現在のように経済のつながりが強い時代には被災地である地域社会の崩壊の影響が全国に伝播し、日本自体が衰退に向かうことさえ懸念されてます。

被災者が将来への希望を見出すことができたことを生活再建の成功とするならば、成功例として1927(昭和2)年の北丹後地震を挙げることができます。

北丹後地震(1927年)は京都府北部の京丹後市や与謝野町を襲ったマグニチュード7.3の直下型地震であり、丹後ちりめんの産地が直撃を受けました。特に峰山町(現京丹後市)では住宅の97%が全焼または全壊し、町民の24%が死亡しました。丹後の復興は丹後ちりめんという地場産業の復興が不可欠であるとし、機業者向けには復旧資金の他に機業復興資金や共同工場助成金などの特別の資金が貸し出されました。
生活再建と復興が一体となって急速に進んだ原因には、地場産業を立て直す資金が導入されたこと、被災地で雇用が生まれたこと、昭和恐慌のさなかにありながら織れば売れるという好況という社会環境に恵まれたことなどがあります。製品が売れることが働く意欲や雇用の拡大を生み、織機台数は震災後1年にしてもとに戻りました。さらには新たな組織の設立や新制度の導入によって震災前にはなかった地場産業の自主独立を手にしました。
 なお、地場産業は地域が得意とする産業であり、本来強い競争力を持っています。更に、新しい施設設備の導入によって競争力は一段と高まる可能性を内在しています。

以上をまとめて箇条書きに示すと次のようになります。

  @ 充分な資金の供給
  A 地場産業への支援
  B @、Aによる生産施設の建設と機械の導入
  C Bによる雇用の確保
  D 好景気による後押し
  E 指導者の復興への強い意志
  F 制度改革の断行
  G @〜Fにより、生活再建と復興を一体化して実現

過去の災害をみると、地域社会のまとまりが弱い場合は災害が個人の問題として扱われる傾向があり、地域社会に信頼された指導者がいるかいないかによって被災者の将来が大きく変ることがあります。生活再建と復興に対して地域社会の意志がまとめられないと被災者は将来への展望が開けないと感じ、時間の経過と共に被災地を離れて地域社会はばらばらになっていきます。さらに、復興という名のもとに国や県などの上位組織の指示や指導によって、社会基盤である道路や施設が被災者の意志とは関係なく建設されていきます。人口の流出・減少した町は数年後にはより安全で環境の整った町に生まれ変わるとしても、一旦他の地方で仕事に付いた人々が戻ってくることができるでしょうか。仕事はあるのでしょうか。あるいは、人口流出を予想した上位組織は重点的・集約的あるいは総合的復興として、一部の地域を見捨てはしないでしょうか。

北丹後地震の場合は生活再建と復興はほぼ同義語でしたが、今回の災害では復興に重点が置かれ、生活再建が後回しにならないかと懸念されます。地域社会は自らの強い意志をもって生活再建と復興に臨まなければ自分自身や家族を守れない状況が生じるかも知れません。何処かで誰かが被災者のための復興ではなく次世代のための復興であると考えていないでしょうか。

地域社会の総意である被災者の声は強力で誰も無視することのできない側面をもっています。1日も早い生活再建と地域社会の復興が叶いますように。

地域社会 住居を中心とした通常の生活圏で、学校や病院・商店などを含む町村・地区程度をイメージしています。職場が地域社会の外にあることや地域社会との係わりが少ない場合であっても、地域社会=馴れ親しんできた生活環境であるという意味では重要です。

参考資料 蒲田文雄 昭和二年北丹後地震 古今書院 2006
       宇佐美龍夫 歴史地震 イルカぶっくす8 1976


死者・行方不明者等の推移
     東日本大震災によって犠牲になられました方々のご冥福をお祈りいたします。

右のグラフに死者数・行方不明者数などを示します。このグラフより次のような状況が読み取れます。

1. 行方不明者が最大となるのは3月24日の地震発生から13日後である。
→(解釈:地震発生から13日後に死者行方不明者数の概略把握が可能となる。)

2. 死者行方不明者数が継続的単調に減少し始めるのは4月22日(地震発生から42日後)であり、その後も減少傾向は継続する。なお、7月8日ごろ、行方不明者の数が1日で1800人程度減少する。
→(解釈:地震発生から42日後頃より生存者・死者・行方不明者の照合が一段落する。一方、大きな未確認行方不明者が含まれている、原発事故が原因で確認できなかったのか、単なる集計上の誤りであったかは不明である。地震発生から6ヵ月後においても生存者が確認されるケースが継続している。これらの生存者は自分の意思で地元を離れた避難・転居者などであろうか。)

3. 1日当りの死者増加数は3月21日(地震発生から10日後)頃より激減するが、100人未満となるのは地震発生から40日後の4月20日以降である。死者数は地震から3ヵ月後で1日に5〜10名、6ヵ月後で1日に1〜2名の増加がある。
→(解釈:遺体の発見が難航している。瓦礫の撤去の遅れと福島第一原子力発電所による放射能による影響が大きい。)

4. 1回目の集中捜索(4/1、4/2、4/3)では自衛隊約1万8千人、米軍約7千人のほか、海保、警察、消防も参加し、自衛隊と米軍の航空機計約120機、艦艇約65隻などが投入された。また、2回目の集中捜索(4/10)では自衛隊やアメリカ軍など2万2000人と航空機90機、艦艇50隻、3回目の集中捜索では(4/25、4/26)自衛隊を中心として約2万4800人と空機90機、艦艇50隻)の体制で実施された。集中捜索はそれなりの効果があったであろうが、グラフでは死者数の増加や行方不明者の減少として明瞭には表れていない。
→(解釈:遺体捜索の困難さを示している。瓦礫の奥深くに埋もれた遺体は瓦礫の撤去が進まないと発見できないし、海に流された遺体の発見は非常に困難である。)

5. 地震発生から7ヶ月が経過した現在の死者は15,800人程度、行方不明者数は3,900人程度であり、(死者+行方不明者)に対する行方不明者の割合は約20%弱である、
→(解釈:犠牲者5人中1人程度は行方不明者である。多くは津波の引き波によって沖に流された人々と思われる。)

----- 死者と行方不明者の比率について -----

上のグラフ左は1993(昭和8)年の三陸沖地震と1960(昭和35)年のチリ地震津波による死者+行方不明者に対する行方不明者の割合を%(行方不明者/死者+行方不明者)×100)で表示したグラフであり、データは資料2に記載されている数値を用いています。昭和三陸地震は昭和8年の3月3日の深夜2時30分に発生した地震で発生後30分から1時間で津波が北海道や三陸沿岸に達しました。被害の大きかった田老村をはじめとして全体でも犠牲者の50%程度が行方不明者でした。行方不明者の多くが津波の引き波によって海に運び去られたことから「引き波の恐怖」とも表現されています(資料2)。チリ地震による津波は地震発生の翌日の昭和35年5月24日2時20分ごろから日本の各地に押し寄せました。チリ地震津波の場合は波勢が弱く流速が小さかったために昭和三陸地震の津波と比較して行方不明者の割合が少なかった(資料2)と考えられています。
 一方、今回の津波(以下、平成津波と呼ぶ)での行方不明者の割合の推移を調べてみると上のグラフ右側のようになりますが、昭和三陸地震の津波(以下、昭和津波と呼ぶ)の場合と比べてどのようなことがいえるでしょうか。
先ず、2つの津波について相違する状況をまとめると次のようになります。
1.津波の規模と範囲は(昭和津波)<(平成津波)
2.死者行方不明者は(昭和津波)<(平成津波)
3.被災経験のない新しい住人と人口密度は(昭和津波)<(平成津波)
4.発生時刻は(昭和津波)が夜間で(平成津波)が昼間(発生月は3月で同じ)
5.行方不明者の捜索の規模と期間は(昭和津波)がほとんど行われなかったのに対して(平成津波)は大規模で長期間に亘って実施
6.死者行方不明者の調査は(昭和津波)に比べて(平成津波)が継続的
7.身元不明の遺体は(昭和津波)は行方不明者に入るが(平成津波)はDNA鑑定などで死者に入る可能性がある
8.津波対策(防潮堤、防潮林、避難道路、高所移転)はそれぞれ取られていたが、一般には(昭和津波)が小規模局所的で平成津波が大規模(防潮堤は津波の侵入流速と引き波の流速を低下させる効果がある)

上記のような状況を踏まえると発生時代の異なる津波について、行方不明者の比率を単純に比較することは容易ではないことが分かりますが、今回の津波では行方不明者の減少につながる要因(例えば上記4.〜8.)が多いにも係わらず死者行方不明者の5人に1人程度が行方不明である事実は、昭和三陸沖地震の津波の場合と同様に「引き波の恐怖」を表しているものと思われます。なお、1896(明治29)年の明治三陸沖地震津波では死者行方不明者2万2千名という被害が発生しました。当時は死者と行方不明者を分けて記録する必要性が認識されなかったために行方不明者の比率は不明ですが、資料2によれば史料の記載内容からは「昭和の津波以上に行方不明者の比率が多かったと推測される」としています。
(参考:1995年の兵庫県南部地震の場合、死者6,434人に対して行方不明者は3人)

 
参照資料
資料1 読売新聞、msn産経ニュース、朝霧ニュースなど
資料2 山下文男 津波における「引き波の恐怖」昭和三陸津波の死者数と行方不明者数の比率の意味するもの 歴史地震 第18号(2002) 183-187頁
資料3 宇佐美龍夫 新編に本被害地震総覧 東京大学出版会 1996

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