東京直下地震が昼の12時に発生したならば、東京23区で350万人の帰宅困難者が発生すると想定されています。東京都では11日の地震当日、帰宅困難者として都庁の5000人を含め各施設で10万人近くの人が受け入れられたようですが、帰宅した人はどのような状況を経験したのでしょうか。東京23区の震度は5強でしたが、遠隔地の巨大地震で懸念されている長周期地震動の影響はどうだったでしょうか。
東京からの帰宅を主とした体験談について記載します。
掲載を許可していただいた皆様、協力していただいた皆様にお礼を申し上げます。
なお、使用させていただいた通信文などは文意を損ねない範囲で一部編集させていただきました。また、個人情報に関わる箇所は任意の英文字に置き換えたり省略したリしております。
氏による状況説明
Kサロンの集まりは日比谷の帝劇地下の昼食会だったので、解散後、3の友人[氏、氏、氏]と喫茶店で油を売っている中、あの地震に遭遇しました。今まで経験したことがないようなゆっくりした強い揺れがかなり続きました。1人[氏]とはそこで別れ、横浜方面に帰る友人2人[氏、氏]と東京駅まで行きましたが、JR、地下鉄、私鉄等、全交通機関がストップしており、まずトイレ探しに少し苦労し、それが見つかったので一安心。でも交通機関再開の見込みはなく、ただ待たねばならず、まだ売れ残っていた弁当も買い、翌日まで待つ覚悟をして、東京駅乗車口(丸の内側)の地下で夜7時ごろまで立ったり座ったりして待ちました。
東京駅の改札はまったく出入り自由状態だったので、7時ごろ退屈しのぎに何か情報はないかと、駅構内の新幹線乗り場まで見に行ってみたところ、まもなく新幹線が運転再開しそうだという情報が得られ、横浜に帰る友人たちと新幹線の運転再開1番か2番列車に乗ることが出来ました。幸いなことに、東海道新幹線の運転再開が一番早かったようです。
新幹線は、はじめのうちはレール点検をかねてか超のろのろ運転で、新横浜まで1時間ぐらいかかりましたが、それからはやや速度が上がり、静岡県の三島駅で座席に座ることも出来ました。列車はその後は通常の速度で運転され、京都に11時40分ごろ着きました。まだ近鉄の列車があり、家には12時半ごろ帰れました。
京都駅では特急券の払い戻しの行列が数百人も並び、どうやって新幹線改札を出たらいいんだろうと途方にくれましたが、僕は幸い特急券を持たずに乗っていたので(東京駅でどんな特急券を買ったらいいのか尋ねたら、下車駅で精算してくれと売ってくれなかったのです)、実にラッキー。すいと改札を出られたのでした。何が幸いするかわからないものです。
氏より 帰宅先は京都府宇治市
Kサロンの皆さんへ まず皆さんご無事でしたか?僕は、さんらと東京駅でかなり待たされましたが、比較的早く動き出した新幹線で、12時半ごろになりましたが、無事に宇治の自宅まで帰れました。赤坂のK本社にいた息子の横浜への帰宅より早かったみたいです。新横浜までは、さんらと一緒でしたが、お二人はその後どうなさったか。たぶん皆さん、どなたもご苦労なさったことでしょうね。
ご無事を祈ります。 12日08:28
氏より 帰宅先は神奈川県横須賀市
兄の報告に続いて報告いたしますと、女史と小生は新横浜で新幹線下車、新横浜でタクシーは利用不可と判断し、二人して、夜間行軍のような弁当夕飯を済ませたところで、さんのご主人による駅前自家用駐車場でのピックアップの連絡ができました。そこで私どもは各々の帰途につきました。あの混乱の中、うまくお二人がお会いになられましたか。
私の方ですが、駅から10分のところに娘夫婦がおりますので、一宿の厄介になるつもりで駅を出ました。ところが事前連絡の電話をと思いきや、番号をメモした帳面が手持ち鞄になく、駅構内泊に切り替えました。そこで12時半頃になりますと、横浜市営地下鉄が開通し、まずは横浜まで辿り着きました。しかしタクシーは不可でした。一夜は駅コンコースの暖かそうなところで朝を待ち、京急電鉄の一番電車で帰宅したところです。6時半ころようやく帰宅をはたしました。みなさんの帰路はいかがならんと思いつつ、朝食は美味しくとることができました。 12日10:42
氏より 帰宅先は神奈川県横浜市
昨日はお世話になりありがとうございました。
新横浜までさんさんとご一緒で本当に心強いでした。さんには駅で遅くまで付き合って頂いて本当にありがとうございました。それにその後いろいろ大変だったのですね。お疲れさまでした。
私はその後夫の車を待ちましたが、道路渋滞のため車に乗れたのは午前1時前、帰宅したのは2時15分頃でした。
駅前での寒さは身にしみましたが、家の中は問題なくほっとしました。
娘と息子は東京・上野と横浜・神奈川区の職場でそれぞれ夜を明かしたようです。
私も緊張が解けないまま4時頃までTVをみていました。
被災された方の大変さを思うばかりです。 12日11:30
氏より 帰宅先は神奈川県横浜市
皆さん
私はブリジストン美術館へ行く途中で大きな揺れに会い,そのまま美術館に行きました。かなり大きな地震のようだったので暫くは電車も動かないだろうと思い美術館に居ました。
美術館の中でも大きな余震の揺れがあり鑑賞者が床に座り込む程でした。
17時頃東京駅に入ったところ予想通り京浜東北線も東海道線も動かず,発車予定の電車の中にいました。19時過ぎにすべての列車の運行は中止,とのアナウンスで八重洲口に出て近くのホテルを探しました。
いずこも宿泊希望者の長い列が出来ていましたが上手く一軒の大浴場付きのカプセルホテルに入ることが出来ました。余震で時々ビルが揺れましたが風呂に入りのんびり出来ました。
横浜の自宅には電話が全く繋がらず息子と娘にメ−ルで状況を説明し自宅に電話を依頼しておきました。 夜10時過ぎ私の自宅にも連絡がとれたとの息子からのメ−ルで一安心しました。
結局今朝は7時過ぎに東京駅に行き,京浜東北線に乗って4時間程かかり横浜駅へ(津波警報が出ているとのことで桜木町で運転打ち切り)市営地下鉄とバスを乗り継いで先ほど(12時20分)帰宅しました。
さんの情報がありませんが無事帰宅できることを願っています。 12日13:33
氏より 帰宅先は東京都荒川区
皆さん お疲れ様でした。
さん、ご無事で比較的早く帰宅できたようでなによりでした
私は、帝劇ビルで様子見で1時間。酔いを醒ましました。昨日は、麦、米、葡萄と流動食を多様に頂戴しましたので。
電車はすべてだめだというので、徒歩、バス乗り継ぎ、途中でエネルギー補給のラーメン屋等々、7時過ぎに帰宅できました。普段なら3時半過ぎには帰宅できるのですが。
皆様方はいかがだったでしょうか。
三寒四温の候、お大事にお過ごし下さい。 12日10:14
皆さん、3月10日の東京大空襲のことはリマークされていますか。昨日の大混乱を思うにつけ、66年1日前の大惨事をリマインドします。ヒロシマ、ナガサキを上回るほどの大惨事でした。皮肉にも東京スカイツリーはその場所です。ともあれ、皆様無事にご帰宅、なにより。秋の再会の日までお大事にお過ごし下さい。
12日20:14
氏より
昨日は皆さんご苦労様でした。
小生今朝はさんからのメールをのぞいた後、疲れをものともせず、代々木の囲碁学苑へ行き、先程帰宅したところです。当方の状況報告が遅くなりましたことをお詫びいたします。
小生昨夜は幸運にも12時半過ぎに帰宅できました。小生に先見の明があれば、国際フォーラムの喫茶店でお三方とお別れした後、直ぐに近辺のタクシー乗り場でタクシーをつかまえようとしたのでしょうが、実際には「時間つぶしでもするか」と、のんびり日比谷の映画館へ行きました。どこも興行は中止になっていました。その後は地下鉄銀座駅の内外で、タクシー待ちをしたり、ラーメンを食べるためにうろついたりしていましたが、一向に埒があきません。渋谷へ行けば何とかなるかもしれないと思い立ち、新橋まで歩いて都バス渋谷行きの行列に加わりました。行列は少しずつ前に進みますが、とにかく寒かった。そのうち「銀座線が動き出した。」との報があり、走って地下鉄に鞍替えしました。(21時少し前だったと記憶しています。銀座線以外では、半蔵門線の一部区間で運行開始とのアナウンスがありました。)
渋谷へ着いてトイレを済ませ、田園都市線(小生の利用駅は横浜市のA駅。田園都市線は渋谷から地下鉄半蔵門線に乗り入れている。)の渋谷駅へ行きましたが、シャッターが下りたままで状況はわかりません。JR渋谷駅、東横線渋谷駅も同様でした。仕方無くタクシー待ちの長蛇の列に入る羽目に。しかし、全くと言って良いほど行列は動かない。その後の1時間半は北風に吹きっ曝しとなり、実に寒かった。(元々昼間の内に帰る心算でしたから、手袋もマフラーも持参しておらず、軽装備では本当に辛かった。それだけに、行列している間にいただいた阿闍梨餅は旨かった。 -さんありがとうございました- 寒風に曝されながらも家に帰り着きたかった理由は、妻が旅行中の故に、留守宅で餓えに苦しんでいるであろう飼い猫を救うためでした。とは言え小生の寒さ辛さも、直接に災害に見舞われた方々のご苦労を思えば、取るに足らないものなのですが。)
幸運なことに、23時少し前に東急線が動くとの情報が入り、電車バスを乗り継いで、0時30分過ぎに帰宅することが出来ました。(猫のキキは、夕食、トイレの片付けが終わった後は、不安から解放されたのか、ウイスキーを流し込む飼い主を横目に、直ぐに自分のベッドにもぐり込んでしまいました。)
今回のような大災害が起きた際の、関係機関 −特に交通機関- の方々のご苦労が良くわかりました。再開された田園都市線の第一号列車に乗ろうとする数多の乗客に事故が生じないよう、細心の注意を払ったホームへの誘導振りを目の当たりにして、渋谷を出発した超満員の車両の中で、深く感謝したものです。 12日21:39
氏より
皆様。 小生の波乱万丈なる避難所生活をお知らせしましょう。
1. 有楽町駅のホームで被震 --- ホームの全員が丸柱にしがみついた
--- 案内板が大揺れで今にも落ちそう
--- 子供さんは親に、娘さんは友達にしがみつき泣きじゃくる
2. 全員駅外に出され、何回も大揺れの余震に高層ビルもゆれてパニック寸前
3. 宇都宮線か東武線のみが帰宅可能なため、再開待ち以外に手なし
4. 突然、本日中のJR再開はなしとアナウンス
5. 東京駅の地下でビバクを覚悟
6. また突然、地下鉄銀座線動くの報
7. どうともなれと浅草まで行く
8. そこで台東区の災害救助活動の本番的訓練に出会い
9. 区の文化会館9階の避難所に案内される
10 そこは暖房も効いて、防寒シート裏地の毛布も貸与され、畳も敷いてあり
11 満足の避難所生活経験でした
12 今日はJR宇都宮線は動かなかったが、東武線が動いたので
13 浅草寺に詣でて豪華朝食も撮り、昼に帰宅可能となりました。 おわり。 発信時不詳
帰宅時刻順位(+手段)
氏(東京都荒川区) 氏(神奈川県横浜市) 氏(京都府宇治市) 氏(神奈川県横浜市) 氏(神奈川県横須賀) 氏(神奈川県横浜市) 氏(埼玉県久喜市) |
3/11 19:xx 3/12 00:30 3/12 00:30 3/12 02:15 3/12 06:30 3/12 12:20 3/12 12:xx |
徒歩+バス+バス・・ 銀座線+東急+バス 新幹線+近鉄 新幹線+自家用車でPU 新幹線+横浜市営地下鉄(駅泊)+京急電鉄 (カプセルH泊)京浜東北+横浜市営地下鉄+バス 銀座線(避難所泊)+東武線 |
氏
今回の経験で私が思った事を追加します。自分がいかに無防備な状態でいたかを痛感しました。 先ずさんも書いてられるように*携帯を持たなかった事です。
*横浜の自宅には電話が全く繋がらず息子と娘にメ−ルで状況を説明し自宅に電話を依頼しておきました。 夜10時過ぎ私の自宅にも連絡がとれたとの息子からのメ−ルで一安心しました。
普段外出も少なく、携帯への抵抗も少しあって持ちませんでした。しかし今回のような事や、これからの自身の高齢化を思うとやはり必要と思いました。公衆電話は新横浜で数十メートルの行列で、しかもテレカでないと使えないのにそれも無くて、さんにお借りしました。
もう一つ、私は高血圧があり長年降圧剤等を使っていますが、最近は落ち着いているので薬を持参していませんでした。東京駅で待っていた時、実は動悸やめまいがして更に不安が募りました。普段の暮らしでは今回の新横浜でのように、寒風の中で一時間半以上立つなど考えられない事なのですが、多分「火事場の何とか・・・」で乗り越えられたのだと思います。
新横ではもっと早く夫に連絡出来れば良かったのですが、道路渋滞や停電による信号停止の情報もあり、また夫が最近夜間の運転を控えている事も思い、ホテル泊まりを優先して探ったりしました。
こういった無防備は形を変えて家庭内でもあり、今後の課題となりました。
氏
さんのメールを見て一安心しました。東京駅で、さんらと4時間ぐらいいたと思いますが、お二人とも携帯電話はお持ちでないらしく、僕の携帯でお宅に安否連絡をしましたね。さすが猫も杓子も携帯の時代にそれに追従しないのは理学部出身のがんこ者だなあと妙なことに感心しました。
僕だって携帯なんて持ちたくないんですよ。とくに会社員なんかが携帯を切っていると忠実度を疑われたりするなんて我慢できません。でもさんが述懐しておられるように、今は持たなければ仕方ないのですよ。
僕が携帯を持ち始めたのは約10年前で、単身赴任中、休日にはしょっちゅう近くの山に単独登山していたので、脚でもくじいたとき救援を呼ばなければならないので、出来るだけどこでも通じるかもと思ってNTTドコモを持ち始めました。でもほとんど使用しませんでした。
妻が倒れてからは、やはりほとんど使わないながら、今度は必需品になりました。それは僕が車で買い物に出て、事故でも起こして帰れなくなったら、出先から誰かにいろいろ頼まなければならないと思ったからです。
今でも通話は月に1・2度あるかないかだし、メールだって月に10回ぐらいでしょうか?だからいつの料金は基本料金だけで、通話料は無料のサービス回数以内なのでチャージされたことはありません。でも便利なんですよ。今の主な用途は電話帳機能です。相手の番号やメールアドレスを全部入れておくと、いちいち電話帳を見たり、ノートを繰ったりしなくてもワンタッチで相手にかけられます。向こうから来たものも履歴が残っているから、すぐコールバックできます。その他ほとんどの機能は使いこなせていません。
僕の場合、番号調べ不要の便利さと、上述のように料金は事実上無料なので、自分からかけるときは大抵携帯でかけています。
氏
4年間校長をしていた長崎県XX学院では、携帯所有禁止でした。発覚したら解約させるという厳しい規則。私は必ずしも賛成できませんでしたが、周りの学校がいずれも所有禁止、または持ち込み禁止なので、大勢には逆らえませんでした。
禁止の最大理由はアダルトサイトに近づかないようにとの生徒指導上のことです。
実際は大半の生徒が所有し、隠していました。地方では(この頃の都会でも〕公衆電話は殆ど見当たりませんので、携帯なしには突発事態に不便です。
私も携帯電話の電話帳機能を愛用しています。〒住所も少しずつ入力しています。宅配便や郵パックを送る時にお店や局で役立ちます。また、訪問先のアクセス法も書いておきます。地下鉄駅の何番出口で出るとか、コンビにの角を曲がるとか。地理オンチなので役立ちます。
氏
数年前,韓国で携帯電話を使ったカンニングが入試で発覚し,大問題になったことがありました。
私は会社時代,立場上携帯電話を持たされましたが周りには「発信専用」と宣言し普段は電源を切ったままで殆んど使ったことはありませんでした。携帯電話には自分を縛られるような抵抗感がありしかも必要性を全く感じていませんでした。
今の携帯電話は2年前からです。それも娘たちが妻に連絡用として持たせたものです。やはりいざというときの連絡方法でした。ところが妻は全くの機械音痴で,娘たちがいくら教えても使い方にまごつくばかり。とうとう妻の携帯電話を私が持つ羽目になってしまいました。
子供達や私の兄妹,また孫達までも私が携帯電話を持ったことを喜び,今では時々近況報告などのメ−ルがきます。
使ってみるとさんが言われるように電話帳の機能がとても便利で手放せなくなってしまいました。また単独で海外へ行ったときなども非常に便利でした。(但しパケット料金が馬鹿にならず今度はノ−トパソコン持参でインタ−ネット・メ−ル---これなら無料--にするつもりです)。
今回の非常時でもメ−ルで子供達と連絡がとれ大いに役立ちました。
メ−ルと音声電話だけに用途を絞って(WEBは見れない安い契約)使っています。
最近のiPodなどを見るとかなり機能や使い勝手がよくなっているようなので一寸興味を持っています。無線LANで持ち運び便利なノ−トパソコンとの境界がだんだん無くなってきている様子です。もう少し見守りたいと思っています。
氏
本日の横浜市A駅周辺は、電車が動かず、陸の孤島となりました。この状況が、いつまで続くことやら。
さん、体験談の取りまとめありがとうございました。早速プリントしました。携帯についての皆さんの書き込みに接し、持ってるのもいいかなと、考えるようになっています。
氏
発生時は15階のオフィスで会議中でした。揺れが次第に大きくなり立っていられず机の下に潜り込みました。免震構造のビルだからか長周期で揺れ続けました。移動式の本棚がレールの上を左右に走り出し、その近くにいたので身の危険を感じ机に手をついてできるだけ離れました。神戸市垂水区塩屋で被災した阪神大震災とくらべると、大きなゆっくりの横揺れなので自由度がまだしも確保できました。直下型の縦横同時の激しい揺れの阪神大震災では身動きが全くできない揺れでした。
氏コメント
これはかなり大きい問題と思います。このビルは本当に免震ですか?本当によい免震だったら、上部構造は基礎から分離している(つるつる)ので、あまり揺れてはいけないはずですが・・・。中途半端なものだと、構造物はたわむ能力があって壊れはしないが、人がデスクごと放り出される恐れだってないわけではない。調度は床に対して自由度を持たせても、ある程度以上移動したら引き止められるようなストッパーがあったほうがいいのではなかろうか?
氏
騒然とする社員、一階外の広いラグビー場まで階段で避難するか、オフィスに止まるか、判断が別れましたが、津浪情報か得られたので、オフィスに止まる決断をしました。同じオフィスビルの他社は避難場所指定のそのラグビー場所に逃げ出した人も多くいました。このビルはガスは使用しておらずテナントにレストランはなく一階にこじんまりしたコーヒースタンドがあるだけなので火災になる確率は低いと思ったことも判断の理由ですがいまから思うともし火災が階下で起こっていたら逃げ遅れもありえたかも知れず、かといつてあの大きな揺れのあとの余震の最中階段を下りるのもかなり危険、その時の判断はなかなか難しいものです。
氏コメント
この辺は具体的に考えておられるのでいいと思います。でも実際的条件を正確に知らないと判断を誤るかも・・・。
それからもう1つの問題は、上階のひとは、いざ階段を下りようとしたとき、階段が渋滞してしまって降りられないかもしれないことです。この頃の超高層ビルは1棟に1万人ぐらい入っているそうですよ。たとえば50階とすると、10000/50=200人/階だから、大きいビルなら各階に200人ぐらいいることもあるかなあと思います。そんなビルの50階に自分がいたら、よほど早く決断しないと、さて降りようかと思ったときは、自分より前に9800人もいるんですからねえ。
氏
火災訓練では、階段で下りラグビー場所集合となっていますが、地震での対応は明確に決めていませんでした。教条的に火災訓練と同等にする判断もありますが運河の近くでお台場を望める海の近く、津浪がくればラグビー場所はひとたまりもありません。二階のモールにつながる通路まで逃げる判断もあったかも知れません。社員一人も怪我なく良かったですが結果論です。この30階だてのオフィスビル、防災センターがあっていざという時は的確な情報を全館放送して誘導もすると思っていましたが情報は少なく、対応は各社の判断と言っており、いざというときあまり役立たたないことを思い知りました。
氏コメント
いろんなケースで考えておいたほうがいいでしょう。お仕着せは当てにならないことが多いですから。特にお役所の計画はまったく机上の空論の場合が多いです。自治体にもよりますが・・・。たとえば川崎市(東西に長い)の広域避難場所などは、広場がどこにでもあるわけではないので、この人口はここに、あの人口はあそこに、という風に機械的に決められていて、中央部の人は自分の家の隣に広場があっても、そこは指定されておらず、ずっと山側の遠いところに指定されているのです。そうしないと、海際の人を入れる場所がなくなってしまうからです。いざというとき、こんな計画に誰が従うでしょうか?とすると、火に追われて海側から指定された避難場所にたどり着いた人は、そこはもう満杯で誰も入れない広場を発見することになるのです。
氏
彼らはエレベーターに閉じ込められてないか、そこらはマニュアルどおりきっちり支援と誘導はしたようで、エレベーター内で地震に合った社員は警備員がとんできていたと言ってました。地震後は、交通機関がすべて麻痺、社員の宿泊手配やレンタカーの予約などすぐ手配した会社もありましたが、地震直後は情報が少なく、すぐその手配はためらいわれました。結果、職住接近の社員宅への分宿、会社で一泊、二十キロ程度は歩いて帰宅と3つに分かれました。品川から新横浜より先まで歩いて帰った社員もいました。後者の場合、オフィスにスニーカーの準備を各自しておくと良いと思いました。
氏コメント
健脚の人は絶対それがいいですね。僕も年の割には健脚の方ですが、革靴ではいくらも歩けないでしょうね。
氏
その後は出張者を含め社員の安否確認と帰宅確認。仙台出張者もいましたし、仙台から東京へ出張し、子供ひとり仙台においてきた看護師さんの支援もなかなか大変でした。少なくともこういった緊急時には自発的に安否を会社に知らせるルールは必要です。手分けしての安否や帰宅確認は非効率的でした。
氏コメント
何か方式を決めておくとよいでしょうね。今回の僕たちの仲間は、全員理学部の同期生ですから、理学部特有の頑固さか(老人ということもあるが)東京駅で一緒に待っていた2人とも携帯電話を持たず(みんなに付和雷同しないのは立派だけれど)、こういうときには困ってしまいました。結局、僕の携帯で両家とも連絡してあげたのです。うち1人は新横浜で夫を呼んだのだけれど、どうやったのか聞きたいぐらいです。公衆電話に行列したのかしら?
氏
一方私は東京転勤時にこういった事態も想定し、歩いて通勤できるところに住むことにこだわり、こちらから会社にもちかけ、駅から歩いて10分のこのマンションを契約してもらいました。社長についで会社に近いところです。今回の巨大津浪、はるかに想像をこえました。我々は自然に対し傲慢で甘くみていた部分があります。リスクをどこまで予想しでリスクコントロールやリスクマネジメントするか今後の防災や原発開発に大きな警鐘を発しています。
氏コメント
この判断は大いに結構で褒められますね。
情報収集と危機管理 |
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私の持っている古い携帯では情報能力に限界があり、また、持ち合わせたノートパソコンも無線ランを装備していませんでしたので、コミュニケーション力に差が出ました。W大の学生が携帯を操作(?ワンセグ)して震源や規模を周りに伝えてくれました。 |
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25kmの徒歩帰宅 |
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歩行距離:25km 所要時間:17時発〜23時着の6時間(食事など休憩時間含む) 出発地:江東区 亀戸(会社所在地) 目的地:埼玉県越谷市(自宅) 私の知人は25kmの距離を歩いて帰ったという。学生時代はワンダーホーゲル部に入り、毎年の強歩大会55kmにも参加していたとのことであるが、これは40年も前のことである。 どんな経験だったろうか。話を聞くことができた。 会社に泊まる選択もあったが、犬を飼っていることもあり、迷うことなく徒歩帰宅を選んだという。靴はサラリーマンが普通に使用している硬いタイプの靴である。 歩行しだしてから、先ずコンビニでペットボトルの水を購入した。隅田川を白髭橋(明治通り)で渡たり、南千住で日光街道(国道4号)に出て日光街道を北上した。歩道は帰宅する人が行列をなし、国道は車で大渋滞していた。途中、警察署、消防署、市役所などではトイレありますなどの案内板が出ていた。トイレを利用した所ではテントが張られており、イスとストーブが用意されていた。食事は大丈夫ですかと聞かれたことから、望めば非常食が提供されたのかもしれない。 自転車屋さんが混んでいた。疲れているので自転車がほしいと思ったが、そのままやり過ごした。次の自転車屋さんでは自転車が売り切れ状態で、特殊な高級車しか残っていなかった。 食堂が営業していたので、トイレ休憩を兼ねて食事はとった。トイレだけ利用するような人もいた。 午後7時を過ぎると日没のために暗くなってきたが、幹線道路であるために街灯や渋滞する車のライトで歩道は明るく、歩行に支障はなかった。草加市付近までは同じ方向に帰宅する人が多かった。 6時間で自宅に帰ることができたが、”もう二度と歩こうとは思わない”というのが感想で、太ももの内側が痛く、とにかく疲れたとのこと。歩いて帰宅する場合に備えて、会社のロッカーにはズックのような歩きやすい靴を備えておくべきだと会社内で話しているとか。 --- お疲れさまでした。貴重な経験談ありがとうございました。--- |
私(HP管理者)の場合
地震当日は静岡に出張中で斜面防災点検中でした。静岡市の震度は4でしたが、私が作業していた場所ではほとんど地震動を感じませんでした。別行動している同僚からの電話で、初めて大地震が発生していることを知りました。同僚によると会社から安否確認のメールが入っているとのことでした。携帯電話にメールが来ていることは知っていましたが、急用のメールはほとんどないので、急ぎの作業を優先していました。しばらくの間、私は安否確認のできない行方不明の部類に入っていたとのこと。メールチェックは重要と反省!
大津波警報が発令されているので東名高速道路上りは通行止めで、車での帰宅は困難でした。当日は静岡市の宿泊施設に空きがなく島田市まで移動して宿泊しました。翌日、地震後の緊急点検を済ませてから通行止め解除間もない東名高速で帰りました。渋滞はありませんでした。