写真A-1 旧北上川河口付近 左岸
日和大橋(ひよりおおはし)より旧北上川上流方向(左岸)を望む。大量の瓦礫が積み上げられている。
石巻市の死者行方不明者数、浸水面積、浸水範囲内の人口はいづれも突出している。
写真A-2 旧北上川河口付近 右岸
日和大橋より旧北上川右岸を望む。 写真右端の白い建物は(左)釜石市立病院。
写真A-3 石巻市立病院
放置されたままになっている。
1階を除いて特に被害は見当たらない。
写真A-4 同 上
出入り口ゲートが損傷し、頂部に白い物が引っかかっている。
病院の津波被害は1階だけのように見える。
写真A-5 石巻市立門脇小学校
学校にいた児童230人は避難訓練通り、日和山に避難して無事であった。 校庭に避難していた住民約50人は津波の接近で校舎に逃げ込んだ。校舎の1階は浸水し、火の手が迫っていた。校庭に出ることはできなかったため、2階から校舎裏の斜面に教壇を渡して橋とし、日和山に脱出した。
資料*10、*7
校舎の背後に見える高台が避難先の日和山である。
写真A-6 同 上
火災に見舞われて外壁が焼け爛れている。 校庭は津波で破壊された可燃物に覆われた。あちこちで火の手が上がり、延焼して校舎まで炎に包まれた。門脇町・南浜町地区一帯は13日午後6時ごろまで燃え続けた。
資料*7
門脇小学校区周辺は非可住区域となり、学校も統合・再編成の検討が必要とされる。
資料*8
写真A-7 宮城県石巻港湾事務所
「津波浸水深ここまで」の表示がある。
写真A-8 津波被害を受けた低地
宣山町(よしやまちょう)の高台から低地を望む。
遠景の白い建物は左から石巻市立病院と石巻文化センター。
写真B-1 相川小学校
相川小学校と吉浜小学校の校舎は水没(資料*8)とされており、浸水高は校舎の屋上を越えるような高さであった。
相川小学校と吉浜小学校の生徒は同地区の橋浦小学校の校舎を使用して橋浦小学校の生徒とともに合同で授業を行っている。この3校は統合し、校舎はサンパーク周辺に移転新築する計画である。
資料*8
写真B-2 相川小学校
校舎の裏には杉山がある。校舎は相川沢川(あいかわさわがわ)に沿った平坦地の山際に位置している。
児童と教職員は裏山の高台に避難して無事であった。
写真B-3 相川小学校
津波により3階まで破壊されている。
(校舎水没、体育館流出 資料*8より)
写真B-4 相川小学校に程近い海岸(相川湾の最奥部)
海岸沿いに国道398号線が通過しているが、盛土が破壊され、相川沢川に掛かる橋梁が流されている。
相川小学校は写真の左側で、海岸から約220mの位置にある。
写真B-5 吉浜小学校の校門と校舎
校門と校舎の間を盛土で国道398号線が通過している。仮の復興道路であろうか。
校舎は津波で3階まで被災している。
吉浜小学校の浸水高=12.0m(陸屋根部分に付着した筋状の泥)
資料*4
写真B-6 吉浜小学校校舎
職員と児童は校舎の屋上に避難したが、津波は屋上ぎりぎりまで迫った(10.4m)。翌朝、消防団に救助される。 学校の児童のうち、地震後に保護者に引き渡した児童を含めて7名が犠牲になった。
資料*6
屋上に避難して助かったものの、危うい避難であった。建物への避難はさらに高いところへの2次避難ができない。津波が屋上を越えた例は多い。
写真7 吉浜小学校の体育館と校舎
道路は仮復旧の国道398号線で、前方が南三陸町方向。
国道は以前の位置からずれて吉浜小学校の敷地に入り込んで通過している。
写真B-8 吉浜小学校付近
小学校沿いの国道から吉浜湾および北上川河口(右側)を望む。
解体されて既にないが、前面には避難場所に指定されていた石巻市北上総合支所(鉄骨木造2階建)があった付近である。
当時、少なくとも57人の住民や職員がいたとみられるが、無事が確認されたのは3人だけであった。
資料*7
写真B-9 海岸付近の状況
海岸線には津波対応の防潮堤はない。新しいテトラポットが設置されているが、震災後の応急対策だろうか。
相川小学校と吉浜小学校はともに北上川の河口左岸延長部にあり、海に近くて山に接するような箇所に立地している。両校ともに鉄筋コンクリート3階建で津波避難場所に指定されていた。地震後、相川小学校では裏山の高台に避難したのに対し、吉浜小学校では校舎の先ず3階に避難し、さらに屋上に移動した。避難した両校の職員と児童は無事であったが、吉浜小学校の場合は津波が屋上ギリギリのところまで押し寄せ、まさに危機一髪の状況であった。相川小学校と吉浜小学校は津波に呑みこまれて両校とも校舎水没(資料@)とされている。
相川と吉浜は現在は石巻市に属しているが、明治の三陸地震津波が発生した当時は十三浜村(じゅうさんはまむら)であり、十三浜村では津波で211人が死亡している。村内では相川の被害が最も大きく、そのうち死者158人(資料*A)が相川であった。また、相川では昭和の三陸沖地震の津波の後に分散移動が行われている。このような災害を経験していることにより、相川は津波に対して危険な位置にあることが認識され、相川小学校では津波避難は裏山と前もって決められていたのではないだろうかと想像する。
一方、吉浜付近では明治以降顕著な被害は発生していないし、避難場所に指定されていることから校舎内に留まれば安全だと考えられていたのかも知れない。また、住民も津波に襲われるとは思っていなかったようである。吉浜小学校の海側に避難場所に指定されていた石巻市北上総合支所(鉄骨木造2階建)があった。総合支所には少なくとも57人の住民や職員がいたとみられが、無事が確認されたのは3人だけであった。吉浜小学校の全校児童49人のうちの死者行方不明の7人はいずれも同支所にいた可能性があるという。(資料C)
周辺に被災経験のある集落があってもその箇所に被災履歴がない、あるいは防災マップでは浸水域に入っていない、さらに津波避難場所に指定されていることなどが高台避難を阻害する原因となっている可能性がある。市が指定した避難場所は安全であると信じ、その避難場所で犠牲になった人々が少なからずいた。津波避難場所になっていた公共施設が被災したのは想定(一般には明治三陸地震津波)を超える津波であったことに尽きるが、明治以降に被災経験がなければ安全であると考えるのはいかにも危うい。
大正3年の桜島爆発記念碑の碑文を思い出す。碑文には噴火しないという測候所を信頼したためにあだになったことから、危険と感じたら自らの意志で避難し、ふだんから災害に遭っても路頭に迷わないよう覚悟をもって生活すべきであるとの趣旨が記されている。個人や家族の命を守る意味合いでは、近い地域共同体が弱体した現在、遠い行政に依存しなければならない構造には大きな落とし穴がある。
児童は守るべき対象であり、校舎の立地条件は津波の心配のないより安全な場所を選定すべきであろう。人口の減少により、全国的に小学校の統廃合が進められているが、これに伴う増築、新築、廃校などの選択には災害を考慮した検討が望まれる。
*@ 石巻市立学校施設災害復旧整備計画 石巻市教育委員会 平成24年3月
*A 宇佐美龍夫 新編 日本被害地震総覧 東京大学出版会 1996
*B 中野晋 教育機関の被災と防災管理のあり方 2012年6月 東日本大震災被害調査報告会資料
*C 再び、立ち上がる! 河北新報社、東日本大震災の記録 河北新報社編集局 2012
写真C-1 大川小学校遠景
新北上大橋から大川小学校を望む。近景は北上川の水面。
大川小学校は北上川の河口から4.3km上流の右岸に位置し、釜谷集落の中にある。写真左前方が河口方向である。
写真C-2 大川小学校校舎
校舎は円や円の一部を組み合わせた形状の2階建で屋上はない。意匠を凝らした珍しい構造の校舎である。
大川小学校の津波溯上高=8.9m(校舎背後斜面の「津波到達点」の立て札。校舎2階の天井面にも津波による損傷がある。
資料*4
写真C-3 体育館の被災状況
屋根がなく壁も抜け落ちている。
津波は校舎2階の屋根まで、体育館は流出とされる。
資料*8
児童は避難誘導中に被災したとみられ、児童が学校管理下で犠牲になった戦後最悪の被害とされる。
スクールバスが待機していたがバスで避難することはなかった、山道のある裏山に避難できたのに避難しなかった。遺族の疑問は今も解けていない。
資料*9、*7
写真C-4 校門脇の献花台と祭壇
大川小学校は避難に失敗して多数の犠牲者を出した。 全校児童108名の内、死者行方不明者74名。 学校に残り、津波に巻き込まれた児童は78名で、70名が死亡・4名が行方不明・4名が生存。教職員11名の内、10名が死亡・1名が生存。
資料*9
写真C-5 同 上
市教育委員会の聞き取り調査や報告に間違いや疑わしい個所が存在したことおよび誠意のない対応が遺族との間に深い溝をつくり、解決されないまま推移している。
この問題は「*9 池上正樹・加藤順子 あのとき大川小学校で何が起きたのか 菁志社 2012」が取り上げている。
公正中立かつ客観的な検証を行うため、第三者による大川小学校事故検証委員会が設置され、平成25年2月7日に第一回の大川小学校事故検証委員会が開催された。
写真C-6 釜谷の街並み
写真は「釜谷の街並み」と題する石版で、大川小学校と周辺の集落が写っている。(新北上大橋南詰にほど近い石碑群より)
釜谷の人口393人のうち、死者行方不明者は197人であり、人口の約半数が犠牲になっている。
資料*9
多くの小学校で児童が無事に避難している中で、大川小学校では避難に失敗して74名の児童および10名の教職員が犠牲になった。
スクールバスが待機していたのにバスで避難しなかったこと、山道のある裏山があるのに避難しなかったことなどに対し、なぜ!?と多くの人が疑問を持つ。
同校は避難場所になっていたこと(資料*@)、明治以降も顕著な津波被害を受けた経験がないこと、大川小学校のある釜谷の犠牲者は人口393人のうち197人(資料*A)で極めて犠牲者の比率が大きいことなどから、学校だけではなく市も地域住民も津波に油断していた可能性が大きい。
一般的な避難阻害要因を
・津波は来ないであろうから避難する必要を感じない、
・迷いが避難行動を遅らせる、
・避難前の作業により避難が遅れる、
・その他、
に分けて、「……が避難行動を阻害する。」という形式で書き出すと下表のようになるが、大川小学校に当てはまりそうな項目はいくつもある。可能性のある項目については備考欄に○印を付した。結局のところ、教職員は一生懸命対処を試みたもののいくつもの避難阻害要因の罠にはまり、行動を起こせないまま津波に襲われたような気がする。
避難行動阻害要因の区分 | 番号 | 避難行動阻害要因 | 備 考 |
津波は来ないであろうから避難する必要を感じない | 1 | この高さまでは津波がきたことがないという知識が避難行動を阻害する。(大きな津波に襲われた経験のない地区) | ○ |
2 | 被害が小さいことや無かったという知識が避難行動を阻害する。 (浸水程度で大きな被害を経験しなかった地区) | ○ | |
3 | あのときはこうだったという被災経験が避難行動を阻害する。(予想を大きく上回る津波に対処できない。) | ○ | |
4 | 指定された避難場所なら安全だろという思い込みが2次避難を阻害する。 | ○ | |
5 | 低い危機感や自分は大丈夫、あるいは自分ならば逃げられるという意識が避難行動を阻害する。 | ||
6 | 防潮堤があるという安心感が避難行動を阻害する。 | ||
7 | 高台や高いビルなどにいるという安心感が避難行動を阻害する。 | ||
8 | 海が見えない環境が危機感の欠如となり、避難行動を阻害する。 | ○ | |
9 | テレビ・ラジオ・防災無線・広報車などによる津波情報の発信と空振りの連続が避難行動を阻害する。 | ○ | |
迷いが避難行動を遅らせる | 10 | 避難場所が事前に決められていないと迷いが生じ、迷いが素早い避難行動を阻害する。 | ○ |
11 | 避難が必要であるという情報が得られるまで待機するという判断が避難行動を阻害する。 | ○ | |
12 | 遠い・険しい・狭い・危険などの避難経路や避難場所の状態が避難行動を阻害する。 | ○ | |
13 | 長時間の避難が辛いような避難場所の環境が避難行動を阻害する。 | ○ | |
14 | 雨・風・雪、夜間、寒さなどの厳しい自然環境が避難行動を阻害する。 | ○ | |
15 | 怪我をさせたくない、辛い思いをさせたくない、あるいは体に障りはしないかという思いやりが避難行動を阻害する。(弱者への対応で迷いが出る。) | ○ | |
16 | 通常活動(業務)の中止に伴う損害と責任問題が避難行動を阻害する。 | ||
17 | 避難したことによって生じる責任問題が避難行動を阻害する。 | ○ | |
避難前の作業により避難が遅れる | 18 | 迎えに行く、待つなどの行動が素早い避難行動を阻害する。 | |
19 | 避難前の時間のかかる確認作業、手続き、行動手順が避難行動を阻害する。 | ○ | |
20 | 避難前の雑務(外部との対応)が避難行動を阻害する。 | ○ | |
その他 | 21 | 家族の代表者や年配者あるいは上司や管理者の「津波は来ないという判断」が周辺の人の避難行動を阻害する。 | ○ |
22 | 近所の人の「津波は来ない」という言動や避難していないという事実が避難行動を阻害する。 | ○ | |
23 | 津波を見たいという願望・好奇心が避難行動を阻害する。 | ||
24 | 緩慢な避難や身勝手な行動が防災関係者や一般避難者の避難行動を阻害する。 | ||
25 | 避難困難者のあきらめや消極的な考えが、介護者や協力者の避難行動を阻害する。 | ||
26 | 避難を渋る人が周辺の人や関係者の避難行動を阻害する。 |
「大川小学校の教職員のなかには裏山に避難を主張した人がいたかも知れない。裏山に避難するにしても、避難路として道は大丈夫であろうか。長時間にわたって多数の児童が避難できるだろうか。大勢の児童を引き連れて山に入ればけがをしたりするような児童が出るかもしれない。迷子になったり不安になった児童が山をおりたとしても気が付かないかも知れない。山中では見通しが悪く、教職員だけでは大勢の児童を管理することはできそうにない。小学校は津波避難場所に指定されており、津波は来るだろうか。校長が不在の中、この場所を離れて裏山に避難して問題が発生したらだれが責任をとるのか。その間にも大津波警報などの情報が入ってくる。このまま待機することへの不安と一番安全な対応は何かの答えが得られないままに時間は刻々と過ぎていく。」
状況に応じた避難計画とその対応が用意されていれば、迷うことなく行動に移せたであろうに。避難の阻害要因になりそうなことは事前に潰しておくことが必要であると思う。例えば、裏山に続く山道が避難路として常時維持・管理され、周辺住民のバックアップのもとに避難訓練や自然観察会、あるいは地域住民との交流会などに使用されていたら状況は違っていたと思う。
参考資料
*@ 石巻市ホームページ 防災ガイド・ハザードマップ 避難場所一覧表
*A 池上正樹・加藤順子 あのとき大川小学校で何が起きたのか 菁志社 2012
写真D-1 長面浦の風景
長面から長面浦東岸方向を望む。地盤の沈下により陸との境界が不明瞭で異様な雰囲気に包まれている。
土嚢は盛土によって確保した道路を侵食・崩壊から守っている。
長面では人口504人のうち80人が死亡し、23人が行方不明。
資料*11
明治の三陸地震津波では1名が死亡しただけで大きな被害はなかった地区である。
写真D-2 石巻市河北農林漁業者トレーニングセンター
被害を受けた住宅は撤去されており、鉄筋コンクリート造のトレーニングセンターだけが残っている。このセンターは津波に対して利用可能な避難場所になっていた。
(資料*12)
長面の中心部で多くの住居があった場所である。
陸というより干潟の中にいるような錯覚を覚える。
写真D-3 長面の状況
長面を横断する県道は盛土で嵩上げされている。
北上川は遠景の山並みの手前を左から右方向に流れ、追波(おっぱ)湾に注ぐ。津波は写真右側の岬状の奥から浸入した。
一帯は農地が80cmほど沈下し、224ヘクタールが海水に沈んだため、行方不明者の本格的捜索は困難であった。県が約100ヘクタールを堤防で囲い、2か月かけて排水し、2012年10月8日よりようやく本格的な捜索が始まった。長面の上流には多数の犠牲者を出した大川小学校がある。
(資料*13)
長面での被害体験を記したドキュメント「海に沈んだ故郷」(資料*14)がある。
写真E-1 雄勝湾最奥部
正面の建物は雄勝硯伝統産業会館
写真E-2 破壊された防潮堤
左側の道路は国道398号
写真E-3 雄勝町(上雄勝)の状況
鉄筋コンクリート造りの建物など、公共の建物以外は残っていない。
写真E-4 雄勝小学校
被災した校舎と校門
学校にいた児童らは高台に避難して無事だったが、下校していた2年生の男子1人が犠牲になった。
雄勝小学校と船越小学校を統合し、雄勝中学校と併設される。大浜地区に小中併設校として建設する計画である。
(資料*15)
写真E-5 雄勝中学校
敷地は災害廃棄物粉砕・選別処理場になっている。
校舎は3階建の3階まで津波で被災している。
周辺は両側から山が迫っており、山間部の集落を思わせる。この付近だけでは近くに海があるとは思えない風景である。
写真E-6 石巻市図書館雄勝分館
遠景の白い建物は雄勝小学校。
参考資料
*1 浸水範囲内人口 「総務省統計局 統計調査部地理情報室
*2 宮城県 「東日本大震災における被害等状況」平成24年6月30日現在 宮城県
*3 「平成23 年(2011 年)東北地方太平洋沖地震」により各地で観測された震度等について(第3報) 気象庁 平成23年6月23日
*4 東北太平洋沖地震津波合同調査グループ ttjt_survey_07_Aug_2012_tidecorrected.xls
*5 宇佐美龍夫 新編 日本被害地震総覧 東京大学出版会 1996
*6 中野晋 教育機関の被災と防災管理のあり方 2012年6月 東日本大震災被害調査報告会資料
*7 再び、立ち上がる! 河北新報社、東日本大震災の記録 河北新報社編集局 2012
*8 石巻市立学校施設災害復旧整備計画 石巻市教育委員会 平成24年3月
*9 池上正樹・加藤順子 あのとき大川小学校で何が起きたのか 菁志社 2012
*10 中林一樹 東日本大震災における津波対応施設の被害と多重防御のあり方 基礎工 Vol.40,No.8,P35-43,2012
*11 日本経済新聞 電子版 水没地区で不明者捜索へ 石巻市と県警 2012/10/6
*12 石巻市ホームページ 防災ガイド・ハザードマップ 避難場所一覧表
*13 朝日新聞デジタル 大川小下流、ようやく捜索 海水に沈んだ石巻・長面地区 2012/10/8
*14 堀込光子・堀込智之 海に沈んだ故郷 北上川河口を襲った巨大津波 ・避難者の心・科学者の目 連合出版 2011
*15 石巻市立学校施設災害復旧整備計画 石巻市教育委員会 平成24年3月