絵1 御嶽崩れ源頭部(崩壊跡地)
2007年当時の状況
1984年9月14日8時48分発震
長野県西部の木曽郡王滝村付近を震源地をとする長野県西部地震(マグニチュード6.8)が発生し、29人が死者・行方不明者になりました。死者・行方不明者の全員は斜面崩壊、岩屑流、土石流などの土砂災害による犠牲者です。
長野県西部地震の震動がもとになって、御岳山の南斜面が大崩壊しました。
絵1は崩壊から23年経過した2007年の崩壊跡(源頭部)の状況を表現しています。源頭部は大雨ごとに土砂が流出・移動あるいは落石が発生して、植生がほとんど回復することなく現在(2007年)に至っています。また、崩壊地周辺は以前の尾根地形がなくなったことによる寒風の影響など、環境変化がシラビソの立ち枯れや倒木を招いています。シラビソの倒木により、笹が日の光を受けて繁茂しています。
崩壊跡(源頭部)の馬蹄形の裸地を右上から左下に向かって取り囲むような谷地形が伝上川*の最上流部であり、通常時は流水のない凹地形です。
伝上川*:御岳山南斜面を発する伝上川は王滝川の支流である濁川と合流する。なお、王滝川は木曽川に合流し、木曽川は伊勢湾に注ぐ。
絵2 伝上川を下る岩屑流
地震当時は雨が降っていた。御岳山は霧で見えない。
絵3
伝上川と濁沢との交点付近の岩屑流
伝上川を高速で下る岩屑流(岩屑なだれ)を表現しています。絵1の源頭部で発生した崩壊土砂の一部は対面する尾根を越えましたが、そのほとんどは岩屑流となって伝上川を流れ下りました。岩屑流は谷底や谷壁を侵食しながら、高度差約750mを高速で一気に流下しました。平均流下速度は最大で秒速26.3m、最小で19.7m(資料*1による)と推定されており、時速に直すと70kmから100km弱程度の速い流れでした。
伝上川を流下する岩屑流は多量の土石で溢れるまでにその高さを増し、伝上川の谷底からの高さが100m以上ある尾根を越えて溢流し、隣接する濁沢に流れ込みました。伝上川が濁沢に合流するまでは伝上川をそのまま下る流れと濁沢を下るの2つの流れに分かれました。
絵3は伝上川が濁沢に合流する付近の岩屑流の状況を表しています。岩屑流の下部は水で飽和されて土石流に似たような状況であったと推定され、流下するに従って土石流のような傾向が強くなったと考えられています(資料*2など)。
合流した岩屑流は土石流のような流れとなり、濁り沢を下って大滝川に向かいます。
絵4
土石の堆積で生じた堰止湖(自然湖)
2007年当時の状況
岩屑流は、伝上川および濁川を経て王滝川本流に流入して堆積しました。堆積土石で王滝川の河床は上昇し、上流部に堰止湖が生じました。その後、王滝川の河床を固める工事が実施されたため、堰止湖は200年現在もそのまま残っています。この堰止湖は自然湖と呼ばれ、春は新緑、夏は深緑、秋は紅葉を湖面に映し、湖面から突き出る枯れ木とのコントラストが美しくも珍しい風景をかもし出しています
岩屑流が流下した地域には、当時17名がいましたが、そのうち2名が助かり15名が行方不明となったといいます。この行方不明者の中には、濁川の河床付近にあった濁川温泉宿の一家4名も含まれています。なお、濁川温泉のあった箇所は50m以上(資料*3による)の堆積物に被われたと推定されており、このような岩屑流が集落や町を襲うと想像を絶するような大災害が発生することを示しています。
助かった2名の目撃者によると、冷蔵庫を開けた時ような冷たい強い風を感じた後に最初の土石が走ってきた、土石は水を混ぜた壁土のような状態で水が分離しているような状態ではなかった、ボブスレーのコースのように斜面を駆け上がるような流れがあった、ヘビ・ウサギ・ネズミなどの動物が災害発生地から遠ざかるように移動する現象があったなどの証言があります(資料*3*4による)。
参考資料
資料*1 奥田節夫他 「1984年御岳山岩屑なだれの流動状況の復元と流動形態に関する考察」 京大防災研究所年報第28号B-1 1985
資料*2 諏訪浩他 「1984年御岳岩屑なだれ堆積物の諸特性」 京大防災研究所年報第28号B-1 1985
資料*3 資料集 御岳崩れ 国土交通省中部地表整備局 多治見砂防国道事務所 2002
資料*4 栗田ほか 「1984年長野県西部地震の緊急調査報告」 地質ニュース364号