昭和二年 北丹後地震の続き

天橋立沖の駆逐艦より震火を望む
本文 「宮津湾内の駆逐艦にて」より

 発震当日の夕刻、水雷の発射訓練を終えた4隻の駆逐艦は宮津湾内に入り、天橋立沖に停泊した。
 4隻の駆逐艦はいずれも楢型と呼ばれる同型の二等駆逐艦で、排水量は770トン、長さは85.85メートルである。
 午後5時40分頃、太陽は内海(阿蘇海)の対岸に位置する岩滝町の背後の山に沈んだ。駆逐艦からは宮津の町の灯が手に取るように見えていた。当時、人口2,000人程度の村が多い中にあって12,400人余りの宮津町はこの地方の中心的な町であった。
 宮津から目を右方向に転じると天橋立の松並木を通して岩滝町の灯が見えていた。

 午後6時27分、発震

 艦艇は海震による衝撃を受けた。
 同時に沿岸の町村の灯りはすべて消滅して暗闇となった。
 暗闇の中、天橋立の松並木を通して阿蘇海の対岸に火が上がるのが目撃された。岩滝町字男山の出火である。(この火災は商店の倒壊とともにその摩擦でマッチ箱二百個入りケースが発火して一気に燃え広がったものであるという。)

 サーチライトを照射し、双眼鏡を岩滝町に向けると家並みは将棋倒しのように倒壊していた。一方、宮津町では人々は屋外に飛び出し騒いでいるものの倒壊家屋などの異常は見当たらなかった。 そうこうしているうち、最初の出火より左手方向の山の陰も赤く染まりだした。山田村(現与謝郡野田川町)の出火である。 同時に、岩滝町のやや右手側、日が沈んだ位置よりも右手約30度の方向では赤く染まった雲を背景にして漆黒の山並が浮き上がってきた。この方向の大きな町といえば峰山町(現京丹後市峰山町)であろうか。稜線を越えた遠方では大火災が発生しているようである。

午後6時50分
 宮津湾内に停泊していた第九駆逐隊の日高司令官は舞鶴要港部に無線連絡を取るとともに号砲を発射して上陸兵員の帰艦を命じた。 異常事態に臨み、四隻の駆逐艦のサーチライトが海陸を照射する中で偵察隊の編成に取りかかった。 偵察隊はボートに分乗して宮津町営桟橋に向かった。

天橋立沖の駆逐鑑上より震火を望む

救助と迫る火炎
救助と迫る火炎

悲しき灰燼の町
悲しき灰燼の町
本文 「小学生の作文にみる震災」より

その三 おとうさんのいのちとり 竹野郡郷小學校尋二 松浦正八郎

ぢしんがいってとんで出たら、もうい()はつぶれていました。
みながやねの上にあがって「おとうさん」とい()ました。
お父さんは「おーい」とい()ました。
ぼくはそのときとびたつほどうれしうございました。
みなが一しょうけんめいになって、おとうさんをだしましたら、もうよがあけていました。
おとうさんはだんだんいきが小さくなって、たうたう(とうとう)なくなられました。
ぼくはおとうさんのそばでなきました。
おかあさんも、にいさんもなきました。
おひるになってもごはんもきものもありません。
その時雨がふりましたぼくはかなしくなりました。


本文 「救助を待つ峰山町」より
『峰山町大震災誌』

三月八日
 天明(てんめい)に及んで全町の火災は(やや)終熄(しゅうそく)せんとするも濛々(もうもう)たる黑煙は町内一歩も入るるに由なく只(かおば)せを(ふく)らし()(おう)()()密集を分け入りて避難者の點儉(てんけん)に努むるも哭泣(こくきゅう)(こえ)各所に起こり、(かつ)肌は(ふる)()、食するに(かて)なく、午後四時頃には雨をも交へ、極度の疲労を感ずるに至りて各所の森林中の集團(しゅうだん)は雪中に卒倒するもの多數(たすう)を生ずるに至る。雨雪と(たたか)()、妻子の白骨を前に一枚の(むしろ)もなし。郵便、電信、汽車、電燈、糧食、薪炭(しんたん)( style='font-size:5.0pt;font-family:"MS 明朝";layout-grid-mode:line'>しお)、夜具一時に style='ruby-align:distribute-space'>斷( style='font-size:5.0pt;font-family:"MS 明朝";layout-grid-mode:line'>た)たれたる身は一椀の style='ruby-align:distribute-space'>白湯(さゆ)(もと)むるに由なく、近隣の村落皆倒壊又全焼したるを以って、救助の人の(いず)れかよりも有るべき筈もなく、衣食住を失ひたる罹災者は、(あた)かも()を失ひて狂へる野天の動物と選ぶなく、雨雪を(おか)して白骨の埋まる宅地を彷徨(ほうこう)するのみなりき。
 町當局(ちょうとうきょく)の苦しき活動
 町長以下十一人の町吏員(りいん)は元より町會議員も十六()に分てる各區長も皆住宅あるものなく、中村町長は妻と雇人を失ひ、瀧野助役旅行中、現森野助役は妻と二子を、新治書記養父を、中邑(なかむら)書記死し、田中書記妹を、藤澤技手一子を、議員(ちゅう)梅田市蔵、中村久蔵、宮田澄助、田中長蔵、各此の世の人に(あら)ず。
 太田助役は陣頭に(たっ)て先ず吏員(りいん)點呼(てんこ)を行ひ、谷部書記は消防組を督勵(とくれい)し、古川書記以下各員一家を顧みず勞働服に身を固め東走西走、翌八日米三十八俵を新山(にいやま)村より、二十俵を杉谷區より徴發應急(ちょうはつおうきゅう)救助に従事する
(後略)

震災地位置
本文 「余震観測」より

 本震後、被災地の岩盤はきしみ、頻々と余震が続いていた。
 地震研究所所員今村明恒教授は前もって準備していた3台の携帯用地震計と観測人員を現地に送り出した。
 3台の地震計は余震の震源の深さを求める目的で郷村断層と山田断層を挟み込むように舞鶴・城崎(きのさき)伊根(いね)に配置された。舞鶴では3月11日の午後9時40分頃より、城崎および伊根では翌日の午後2時30分頃より相前後して観測が開始された。その後、微小な余震への対応と観測の精度を上げるため、観測点の変更と追加があり、4点による余震観測網として翌年の6月下旬まで続けられた。
 余震観測とその結果の考察は地震研究所嘱託の那須信治によってなされた。

北丹後地震の余震分布
余震分布(那須 1929) 新編日本被害地震総覧より転写
北丹後地震の地殻変動
本文 「傾動地塊の動き」より

 北丹後地震の2年前、兵庫県北部で但馬地震が発生した。東京帝国大学地震学教室の今村明恒教授は山崎直方博士などとともに震災地に入り、城崎郡田結(たい)村(現豊岡市)で地震断層を調査した。
 今村明恒教授は地変の実態を把握したいと考えて水準測量を陸軍陸地測量部長に依頼した。陸地測量部長からは快諾が得られたが、都合上後回しになり水準測量が実施される前に北丹後地震が発生した。水準測量計画路線は北丹後地震の震源域を貫通しており、千載一遇のチャンスを逸してしまった。取り返しのつかないこの恨事(こんじ)に今村明恒教授は悔しい思いをした。
 これを少しでも取り返すかのように、北丹後地震の発生した年の昭和2年から昭和5年にかけて三角測量が4回、水準測量が5回というこれまでにない規模の測量が陸軍陸地測量部の手によって実施された。測量を繰り返すことによって繰り返し期間内の変位を知ることができる。
 この結果は地震研究所の坪井忠二によって考察され大地の変動の様子が明るみになった。

三角点の水平方向の変位(坪井忠二 地震研究所彙報 1930)
 1888年(明治21年)と地震後の1928年(昭和3年)の測量結果を比較 図中の数字は三角点番号

震災記念塔と震災記念館
薬師山にある峰山町の震災記念塔(左)と丹後震災記念館(右)
    目 次

はじめに

一、  震災地
       名勝「天橋立」と伝説/地震断層沿いの町村
二、  発震
       宮津湾内の駆逐艦にて/宮津警察署にて/三河内村にて(その時の証言)/峰山町にて/京都府庁にて
三、  駆逐艦隊の始動
       岩滝町に向かう駆逐艦救助隊/山田村からの急使と救助活動
四、  新聞記者が伝えた地震直後の被災地
       発震当夜の号外/宮津町から峰山町に向かう沿道の町村/峰山町の状況/網野町の状況
五、  迫る火炎と家族の行方
       炎に包まれる峰山町/峰山町にみる悲惨の数々/料亭千金堂の悲話/白数豆腐店の火災/小学生の作文にみる震災
六、  救助を待つ人々
       飛行機から見た被災地/飛行機を見た被災者/救助を待つ峰山町/震災に続く更なる暴風雨
七、  陸海軍の行動
       被災地への進入路/海軍の活躍/陸軍の行軍と救助/歩兵の帰還と工兵・輜重兵の派遣
八、  被災地に入る医療救護班および救援者
       京都衛戍病院救護班の苦難の被災地入り/野戦病院の診療/配置に就く医療救護班/被災地に向かう救援者たち/涙の感謝
九、  震災の概要と灰燼の峰山町
       グラフで見る震災/山田村の被災調査/峰山町で何が起こったか
十、  被災地からのメッセージあれこれ
       地震に弱かった丹後の建物/第一は火の始末/金梃子の威力/逃げ遅れる高齢者
十一、 救助活動の終了と復興
       医療救助活動とその終了/丹後ちりめんの復興/震災の記憶と感謝/震災から戦災へ、そして終戦を経て
十二、 二筋の地震断層
       地震断層の天然記念物指定/地震断層の分布状況と特徴など
十三、 北丹後地震と傾動地塊
       地形に刻まれた傾動地塊/余震観測/傾動地塊の動き/地震断層の不思議とGPS地殻変動観測
十四、 時を越えて
       震災の碑/震災記念館/受け継がれる震災展
    おわりに
    ・参考文献

※ 本ページの画像は「昭和二年 北丹後地震」より編集しておりますが一部異なる場合があります。

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