その三 おとうさんのいのちとり 竹野郡郷小學校尋二 松浦正八郎
ぢしんがいってとんで出たら、もういへはつぶれていました。
みながやねの上にあがって「おとうさん」といひました。
お父さんは「おーい」といひました。
ぼくはそのときとびたつほどうれしうございました。
みなが一しょうけんめいになって、おとうさんをだしましたら、もうよがあけていました。
おとうさんはだんだんいきが小さくなって、たうたうなくなられました。
ぼくはおとうさんのそばでなきました。
おかあさんも、にいさんもなきました。
おひるになってもごはんもきものもありません。
その時雨がふりましたぼくはかなしくなりました。
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本文 「救助を待つ峰山町」より
『峰山町大震災誌』 |
三月八日
天明に及んで全町の火災は稍終熄せんとするも濛々たる黑煙は町内一歩も入るるに由なく只顔せを膨らし右往左顧密集を分け入りて避難者の點儉に努むるも哭泣の聲各所に起こり、且肌は震ひ、食するに糧なく、午後四時頃には雨をも交へ、極度の疲労を感ずるに至りて各所の森林中の集團は雪中に卒倒するもの多數を生ずるに至る。雨雪と闘ひ、妻子の白骨を前に一枚の莚もなし。郵便、電信、汽車、電燈、糧食、薪炭、・
style='font-size:5.0pt;font-family:"MS 明朝";layout-grid-mode:line'>しお、夜具一時に
style='ruby-align:distribute-space'>斷
style='font-size:5.0pt;font-family:"MS 明朝";layout-grid-mode:line'>たたれたる身は一椀の
style='ruby-align:distribute-space'>白湯を需むるに由なく、近隣の村落皆倒壊又全焼したるを以って、救助の人の何れかよりも有るべき筈もなく、衣食住を失ひたる罹災者は、恰かも兒を失ひて狂へる野天の動物と選ぶなく、雨雪を冒して白骨の埋まる宅地を彷徨するのみなりき。
町當局の苦しき活動
町長以下十一人の町吏員は元より町會議員も十六區に分てる各區長も皆住宅あるものなく、中村町長は妻と雇人を失ひ、瀧野助役旅行中、現森野助役は妻と二子を、新治書記養父を、中邑書記死し、田中書記妹を、藤澤技手一子を、議員中梅田市蔵、中村久蔵、宮田澄助、田中長蔵、各此の世の人に非ず。
太田助役は陣頭に立て先ず吏員の點呼を行ひ、谷部書記は消防組を督勵し、古川書記以下各員一家を顧みず勞働服に身を固め東走西走、翌八日米三十八俵を新山村より、二十俵を杉谷區より徴發應急救助に従事する
(後略)
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本震後、被災地の岩盤はきしみ、頻々と余震が続いていた。
地震研究所所員今村明恒教授は前もって準備していた3台の携帯用地震計と観測人員を現地に送り出した。
3台の地震計は余震の震源の深さを求める目的で郷村断層と山田断層を挟み込むように舞鶴・城崎・伊根に配置された。舞鶴では3月11日の午後9時40分頃より、城崎および伊根では翌日の午後2時30分頃より相前後して観測が開始された。その後、微小な余震への対応と観測の精度を上げるため、観測点の変更と追加があり、4点による余震観測網として翌年の6月下旬まで続けられた。
余震観測とその結果の考察は地震研究所嘱託の那須信治によってなされた。
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余震分布(那須 1929) 新編日本被害地震総覧より転写
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北丹後地震の2年前、兵庫県北部で但馬地震が発生した。東京帝国大学地震学教室の今村明恒教授は山崎直方博士などとともに震災地に入り、城崎郡田結村(現豊岡市)で地震断層を調査した。
今村明恒教授は地変の実態を把握したいと考えて水準測量を陸軍陸地測量部長に依頼した。陸地測量部長からは快諾が得られたが、都合上後回しになり水準測量が実施される前に北丹後地震が発生した。水準測量計画路線は北丹後地震の震源域を貫通しており、千載一遇のチャンスを逸してしまった。取り返しのつかないこの恨事に今村明恒教授は悔しい思いをした。
これを少しでも取り返すかのように、北丹後地震の発生した年の昭和2年から昭和5年にかけて三角測量が4回、水準測量が5回というこれまでにない規模の測量が陸軍陸地測量部の手によって実施された。測量を繰り返すことによって繰り返し期間内の変位を知ることができる。
この結果は地震研究所の坪井忠二によって考察され大地の変動の様子が明るみになった。
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三角点の水平方向の変位(坪井忠二 地震研究所彙報 1930)
1888年(明治21年)と地震後の1928年(昭和3年)の測量結果を比較 図中の数字は三角点番号
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薬師山にある峰山町の震災記念塔(左)と丹後震災記念館(右)
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