寺田寅彦の伝説の警句 天災は忘れた頃に来る

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「天災は忘れた頃に来る」という言葉を言い出したのは寺田寅彦であるといわれています。寺田寅彦は現在においても人気者であり、寺田寅彦随筆集(岩波文庫)を新たに入手すると、例えば、第一巻は2002年5月第86刷発行」となっています。また、「松本哉著 寺田寅彦は忘れたころにやって来る 集英社新書 2002」のような本が出版されるのも相変わらぬ寅彦の魅力のためと思われます。

寅彦に関する文献を抜粋引用し、地震・防災の原点を探ってみます。

寺田寅彦

寺田寅彦写真

寺田寅彦 昭和九年春(57歳)

昭和文学全集3 寺田寅彦集 角川書店(昭和27年)より

明治11年(1878)誕生、昭和10年(1935)没。享年58歳。

大正12年(1923)45才の時、関東大震災に遭遇し、火災旋風などの調査に従事する。随筆集「冬彦集」を出版した年である。

  • 学校 ・・・・・・・・・ 高知と東京の小学校、高知の中学校、熊本の第五高等学校、東京帝国大学
  • 肩書き ・・・・・・・・ 東京帝国大学教授、随筆家
  • 専門 ・・・・・・・・・ 実験物理学、地球物理学
  • 所属 ・・・・・・・・・ 航空研究所、理化学研究所、地震研究所など
  • 趣味 ・・・・・・・・・ 俳句・連句、油絵、バァイオリン演奏、写真撮影、映画鑑賞
  • 嗜好品 ・・・・・・・ コーヒー、タバコ
  • 外国語会話 ・・・ 英語、ドイツ語、フランス語

伝説の警句

天災は忘れた頃に来る
または、天災は忘れられたる頃来る

防災に関する文章などによく用いられる有名な警句です。寺田寅彦が言い出したといわれていますが、手紙や手帳なども含めて本人が書いたものの中には見当たらないそうです。

今村明恒著『地震の国』(1929年発行)によると、
「天災は忘れた時分に来る。故寺田寅彦博士が、大正の関東大震災後、何かの雑誌に書いた警句であったと記憶している。」
とあります。なお、今村明恒は関東大震災後における地震研究の指導者で東京帝国大学の教授です。関東大震災の調査には寺田寅彦と今村明恒が連れ立って出かけることもありました。

この警句に似た文章は随筆などの中で繰り返して出てきます。寺田寅彦は関東大震災に際して、大正12年9月29日付けでドイツに滞在していた小宮豊隆(友人であり、寺田寅彦随筆集の編集者)に宛てた手紙の中では、

調査の必要から昔の徳川時代の大震火災の記録を調べているが、今度われわれがなめたのと同じような経験を昔の人が疾(とう)になめ尽くしている。それを忘却してしまって勝手なまねをしていたためにこんなことになったと思う。(松本哉 寺田寅彦は忘れた頃にやって来る 集英社新書より)

また、寺田寅彦随筆集の中では、

人間も何度同じ災害に会っても決して利口にならぬものであることは歴史が証明する。東京市民と江戸町人と比べると、少なくも火事に対してはむしろ今のほうがだいぶ退歩している。そうして昔と同等以上の愚を繰り返しているのである。

あるいは防災対策ができていない事を指して、

天災が極めてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の転覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。

と述べています。これらは、まさに、「天災は忘れた頃に来る」ということをいっています。

随筆の中の災害や防災

寺田寅彦随筆集(岩波文庫)の中より、災害や防災に関する記述を抜粋します。

寺田寅彦随筆集 第一巻 「芝刈り」 (大正十年一月、中央公論)

芝刈り鋏で庭の芝を刈り始めました。ザックザックという芝を刈る音が愉快である理由を考えながら、ひょっとしたら類人猿時代のある感覚の記憶かもしれないと感じます。そして連想は続いていきます。

・・・ 鋏の進んでいく先から無数の小さなばったやこおろぎが飛び出した。平和――であるかどうか、それは分からぬが、ともかくも人間の目から見ては単調らしい虫の世界へ、思いがけもない恐ろしい暴力の悪魔が侵入して、非常な目にも止まらぬ速度で、空をおおう森をなぎ立てるのである。はげしい恐慌に襲われた彼らは自分の身長の何倍、あるいは何十倍の高さを飛び上がってすぐ前面の茂みに隠れる。そうして再び鋏がそこに迫ってくるまではそこで落ち付いているらしい。彼らの恐慌は単に反射的の動作に過ぎないか、あるいは非常に短い記憶しか持っていないのだろうか。・・・・・・魚の視感を研究した人の話によると海中で威嚇された魚はわずかに数尺逃げのびると、もうすっかり安心して悠々と泳いでいるということである。・・・・・・今度の大戦で荒らされた地方の森に巣をくっていた鴉は、砲撃が止んで数日たたないうちにもう帰ってきて、枝も何も弾丸の雨に吹き飛ばされて坊主になった木の空洞で、平然と子を育てていたと伝えられている。もっともそう言えば戦乱地の住民自身も同様であったかもしれない。またある島の火山の爆裂火口の中へ村落を作っていたのがある日突然の爆発に空中へ吹き飛ばされ猫の子一つ残らなかったことがあった。そして数年の後には同じ火口の中へいつのまにかまた人間の集落が形造られていた。こんなことを考えてみると虫の短い記憶――虫にとっては長いかもしれない記憶を笑うことはできなかった。 ・・・

この随筆も「天災は忘れた頃に来る」に通じる文章です。人の一生という時間では大地震に遭遇する確率があまり大きくないものの、そのうち、あるいは次の世代、あるいは更に次の世代の内には必ず遭遇するという事実に対して、現時点でこの事実とどのように折り合いをつけるかが難しい問題です。

寺田寅彦随筆集 第一巻 「断水の日」 (大正十一年一月、東京・大阪朝日新聞)

十二月八日の晩にかなり強い地震があった。それは私が東京に住まうようになって以来覚えないくらい強いものであった。 ・・・中略・・・ 山の手の、地盤の固いこのへんの平屋でこれくらいだから、神田へんの地盤の弱い所では壁がこぼれるくらいの所はあったかもしれないというようなことを話しながら寝てしまった。

翌朝の新聞で見ると実際下町ではひさしの瓦が落ちた家もあったくらいでまず明治二十八年来の地震だという事であった。そしてその日の夕刊に淀橋近くの水道の溝渠が崩れて付近が洪水のようになり、そのために東京全市が断水に会う恐れがあるので、今大急ぎで応急工事をやっているという記事が出た。

偶然その日の夕飯の膳で私たちはエレベーターの話しをしていた。あれをつるしてある鋼条が切れる心配はないかというような質問が子供のうちから出たので、私はそのような事のあった実例を話し、それからそういう危険を防止するために鋼条の弱点の有無を電磁作用で不断に検査する器械の発明されている事も話などした。それを話しながらも、また話したあとでも、私の頭の奥のほうで、現代文明の生んだあらゆる施設の保存期限が経過した後に起こるべき種々な困難がぼんやり意識されていた。これは昔天が落ちて来はしないかと心配した杞の国の人の取り越し苦労とはちがって、あまりに明白すぎるほど明白な、有限な未来に来るべき当然の事実である。たとえばやや大きな地震があった場合に都市の水道やガスがだめになるというような事は、初めから明らかにわかっているが、また不思議に皆がいつも忘れている事実である。 ・・・中略・・・
それにしても、その程度の地震で、そればかりで、あの種類の構造物が崩壊するのは少しおかしいと思ったが、新聞の記事をよく読んでみると、かなり以前から多少亀裂でもはいって弱点のあったのが地震のために一度に片付いてしまったのであるらしい。

そして、とうとう全市断水ということになった一方で、客間のスイッチが故障してつかなくなった。これをきっかけとして日常品に抱いている不満が思い出されたといって、呼び鈴、おもちゃのモーター、蓄音機の歯車、ペンナイフ、置時計などを例に挙げ、

すべてのものがただ外見だけの間に合わせもので、ほんとうに根本の研究を経てきたものでないとすると、実際われわれは心細くなる。質の研究のできていない鈍刀はいくら光っていても格好がよくできていてもまさかの場合に正宗の代わりにならない。 ・・・中略・・・

こんなことを考えているとわれわれの周囲りの文明というものがだんだん心細くたよりないものに思われてきた。なんだか炬燵を抱いて氷の上にすわっているような気持ちがする。

断水はまだいつまで続くかわからないそうである。どうしても「うちの井戸」を掘る事にきめるほかない。

この随筆が発表されて、その8ヵ月後に関東地震(関東大震災)が発生しました。水道は断水して消火の役には立ちませんでした。火災が猛威をふるい、東京市は三日ニ晩燃え続けました。

寺田寅彦随筆集 第二巻 [怪異考」 昭和二年十一月、思想

・・・ その怪異の第一は、自分の郷里高知付近で知られている「孕(はらみ)のジャン」と称するものである。孕は地名で、高知の海岸に並行する山脈が浦戸湾に中断されたその両側の突端の地とその海峡とをこめた名前である。』孕のジャンはだれも正体を見たものはなく、夜半にジャーンと鳴り響いて海上を通り過ぎるが、これが通り過ぎると魚が逃げてその夜は漁にならないという古い文献を紹介し、『私は幼時近所の老人からたびたびこれと同様な話を聞かされた。そしてもし記憶の誤りでなければ、このジャンの音響とともに「水面にさざ波が立つ」という事が上記の記載に付加されていた。 ・・・中略・・・
 先年筑波山の北側の柿岡の盆地に行った時にかの地では珍しくない「地鳴り」の現象を数回体験した。その時に自分は全く神来的に「孕のジャンはこれだ」と感じた。 ・・・中略・・・ 
 ジャンの記録はすでに百年前にある。もっともこの記録では、当時これが現存したものか、あるいは過去のこととして書いたものか、あまり判然としない。そしてとにかくわれわれの現時はないと言われている。自分の幼児にこのことを話した老人は現に自分でこれを体験したかのごとく話したが、それは疑わしいとしても、この老人の頭の若かった時代にこの話がかなりの生々しい色彩を持って流布されていた事は確からしい。

土佐における大地変の最初の記録としては、西暦六八四年天武天皇の時代の地震で、土地五十万頃(けい)が陥落して海になったという記録があり、それからずっと後には慶長九年(一六〇四)と宝永四年(一七〇七)ならびに安政元年(一八五四)とこの三回の大地震が知られており、このうちで、後の二回には、海浜の地帯に隆起や沈降のあった事が知られている。さて、これらの大地震によって表明される地殻の歪は、地震のない時でも、常にどこかに、なんらかの程度に存在しているのであるから、もし適当な条件の具備した局部の地殻があればそこに対して小規模の地震、すなわち地鳴りの現象を誘起しても不思議はないわけである。そして、それがある時代には頻繁に現れ、他の時代にはほとんど現れなくなったとしても、それほど不思議なこととは思われない。 ・・・中略・・・ 
 それで怪異の一つの可能な説明としては、これは、ある時代、おそらくは宝永地震後、安政地震のころへかけて、この地方の地殻に特殊な歪を生じたために、表層岩石の内部に小規模の地すべりを起こし、したがって地鳴りの現象を生じていたのが、近年に至ってその歪が調整されてもはや変動を起こさなくなったのではないかという事である。
 この作業仮説の正否を吟味しうるためには、われわれは後日を待つほかはない。もし他日この同じ地方に再び頻繁に地鳴りを生ずるようなことが起これば、そのときにはじめてこの想像が確かめられる事になる。しかしそれまでにどれはどの歳月がたつであろうかという事についてはまったく見当が付かない。ただ漠然と、上記三つの大地震の年代差から考えて、今後数十年ないし百年の間に起こりはしないかと考えられる強震が実際起こるとすれば、その前後に何事かありはしないかという暗示を次の代の人々に残すだけのことである。 ・・・

「ただ漠然と、今後数十年ないし百年の間に起こりはしないか」と指摘された強震は、この随筆が発表されてから17年後の1944年(昭和19年)と19年後の1946年(昭和21年)にそれぞれ東南海地震と南海地震として発生しました。この2つの地震により、合計2,553人の死者が出ました。そして、高知付近では田園15km2が海面下に没しました。南海地震の発生した昭和21年といえば、終戦の翌年です。こんな時代に「孕のジャン」の記録は残っているのでしょうか。

次の東南海・南海地震は今世紀中ごろまでには発生するだろうと考えられています。
歴史的には、前回の昭和東南海地震、昭和南海地震よりも大規模な地震が発生しており、次回の東南海地・南海地震に対する防災対策の重要性が指摘され、2003年(平成15年)7月に「東南海・南海地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法」が新たに施行されました。
内閣府の地震調査研究推進本部は、2001年1月1日現在の評価時点から今後30年間に南海地震の発生する確率は40%であるという数値を出しています。

寺田寅彦随筆集 第二巻 ルクレチウスと科学

紀元前一世紀のローマの詩人哲学者であるレクチウスを紹介している中で、関東大地震における災害について述べています。

・・・ 彼が雷電や地震噴火を詳説した目的は、畢竟これら現象の物質的解説によって、これらが神の所業でないことを明らかにし、同時にこれらに対する恐怖を除去するにあるらしい。これはまたそのままに現代の科学教育なるものの一つの目的であろう。しかし不幸にして二十世紀の民衆の大多数は紀元前一世紀の大多数と比較してこの点いくらも進歩していない。たとえば今のわが国の地震学者が口を酸(す)くして説くことに人は耳をかそうとはしない。そうして大正十二年の関東地震はあれだけの災害を及ぼすに至った。あの地震は実はたいした災害を生ずべきはずのものではなかった。災害の生じた主な原因は、東京市民の地震に対する非科学的恐怖であったのである。科学は進歩するが人間は昔も今も同じであるという事を痛切に感じないではいられない。同時に今の科学者がるクチウスから科学そのものは教わらなくても、科学者というものの「人」について多くを教わりうるゆえんをここにも明らかに認めうると考えるのである。 ・・・

「たいした災害を生ずべきはずのものでなかった」といっている関東大地震での犠牲者数は全体で10万5千人余りといわれ、当時の東京市だけでも5万9千人もの死者が出ました。他の震災の被害者数と比べて飛び抜けています。東京での被害は地震そのものではなく、地震後に発生した大火災でした。「非科学的恐怖」とは余震におびえて消火活動をしなかったこと、大量の荷物を持って避難したこと、流言蜚語を信じたことなどでしょう。

寺田寅彦随筆集 第二巻 時事雑感(地震国防) 昭和六年一月 中央公論

北伊豆地震の災害地を調査するため、静岡県三島町(現在の三島市)に日帰りで出かけたときのことです。北伊豆地震は1930(昭和5)年に発生した地震で死者272人を出しています。

・・・ 大正十二年の大震災は帝都と関東地方に限られていた。今度のは箱根から伊豆にかけての一帯の地に限られている。いつでもこの程度ですむかというとそうは限らないようである。安政元年十一月四日五日六日にわたる地震には東海、東山、北陸、山陽、山陰、南海、西海諸道ことごとく震動し、災害地帯はあるいは続きあるいは断えてまた続いてこれらの諸道に分布し、至るところ沿岸には恐ろしい津波が押し寄せ、震水火による死者三千数百、家屋の損失数万をもって数えられた。これとよく似たのが宝永四年にもあった。こういう大規模の大地震に比べると先年の関東地震などはむしろ局部的なものともいえる。今後いつかまたこの大規模地震が来たとする。そうして東京、横浜、沼津、静岡、浜松、名古屋、大阪、神戸、岡山、広島から福岡へんまで一度に襲われたら、そのときはいったいわが日本の国はいったいどういうことになるであろう。そういうことがないとは何人も保証できない。宝永安政の昔ならば各地の被害は各地それぞれの被害であったが、次の場合にはそうはいかないことは明らかである。昔の日本は珊瑚かポリポくらげのような群生体で、半分死んでも半分は生きていられた。今の日本は有機的個体である。三分の一死んでも全体が死ぬであろう。 ・・・中略・・・
 蟻の巣を突きくずすと大騒ぎが始まる。しばらくすると復興事業が始まって、いつのまにかもとのように立派な都市ができる。もう一ぺん突きくずしてもまた同様である。蟻にはそうするよりほかに道がないであろう。

人間も何度同じ災害に会っても決して利口にならぬものであることは歴史が証明する。東京市民と江戸町人と比べると、少なくも火事に対してはむしろ今のほうがだいぶ退歩している。そうして昔と同等以上の愚を繰り返しているのである。 ・・・中略・・・
今度の地震(編者注:北伊豆地震)では近いところの都市が幸いに無難であったので救護も比較的迅速に行き届くであろう。しかしもしや宝永安政タイプの大規模地震が主要の大都市を一なでになぎ倒す日が来たらわれわれの愛する日本の国はどうなるのか。小春の日光はおそらくこれほどうららかに国土蒼生を照らさないであろう。軍縮国防で十に対する六か七かが大問題であったのに、地震国防は事実上ゼロである。そして為政者の間ではだれもこれを問題にする人がない。戦争はしたくなければしなくても済むかもしれないが、地震はよしてくれと言っても待ってはくれない。地震学者だけが口を酸っぱくして説いてみても、救世軍の太鼓ほどの反響もない。そして恐ろしい最後の審判の日はじりじりと近づくのである。・・・

宝永地震はいわゆる東海地震~南海地震という一連の大地震が同時または短時間のうちに発生した連動型の地震であり、安政の地震は安政東海地震の32時間後に安政南海地震が発生した地震です。宝永および安政の地震ともに最も規模の大きな地震の一つであると考えられています。その後、昭和19年(1944年)には東南海地震、昭和21年(1946年)には南海地震が単独に起こり、東海地震は発生することなく現在に至っています。東海地方では歪は解放されることなくその後も蓄積され続き、いつ東海地震が発生しても不思議でないといわれ、24時間体制で監視が続けられています。「最後の審判の日」と呼ばれる日とは、近い将来、東海地震が単独で発生することなく、次回の東南海地震・南海地震を待って東海地震が同時あるいは短時間のうちに発生する日に相当します。この場合、その日が来るのは今世紀中ごろまでの可能性が大きく、被害は九州から関東に及ぶと考えられています。

東海地震、東南海地震、南海地震の震源域が同時に破壊される場合は、「揺れによる被害、津波による被害ともわが国最大級となり、建物全壊が90万棟、死者約2万五千人に及ぶ。](中央防災会議 東南海、南海地震の被害想定について 平成15年9月)と想定されています。

寺田寅彦随筆集 第三巻 ロプ・ノールその他 昭和七年一ニ月 唯物論研究

ロプ・ノールは中国新彊ウイグル自治区タクラマカン砂漠の東端にある湖ですが、「動く湖」とも呼ばれて、かって湖のほとりに都市国家の楼蘭が栄えていたそうです。ロプ・ノールの記事を紹介し、地殻傾動が湖の転移の原因の一部になっているかもしれないという意見を述べ、また、氷河の伸張と環境変化に話が及び、更に続きます。

・・・ しかしともかく現在に人間は、世界に気候風土が現在のまま千年でも万年でもいつまでも持続するように思っている。そうして実にわずかばかりの科学の知識をたのんで、もうすっかり大自然を征服したつもりでいる。しかし自然のあばれ回るのは必ずしも中央アジアだけには限らない。あすにもどこに何事が起こるかそれはだれにもわからない。それかといって神経衰弱にかかった杞人(きひと)でない限り、いつ来るかも分からない「審判の日」を気にしてその時の予算までを今日の計画の中に組み込むわけにも行かない。それで政治家、軍人、実業家、ファシスト、マルキシスト、テロリスト、いずれもこんな不定な未来の事は問題にしていない。それを問題にするのはただ一部の科学者と、それから古風な宗教の信者とだけである。いちばん中の悪いはずの科学者と信者とがここだけで握手しているのは面白い現象である。 ・・・

寺田寅彦随筆集 第四巻 昭和九年五月、函館の大火について

・・・ 関東震災に踵を次いで起こった大正十二年九月一日から三日にわたる大火災は明暦の大火に肩を比べるものであった。あの一九ニ三年の地震によって発生した直接の損害は副産物として生じた火災の損害に比べればむしろ軽少なものであったと言われている。あの時の火災がどうしてあれほどに暴威をほしいままにしたかについてはもとよりいろいろの原因があった。ひとつには水道が止まった上に、出火の箇所が多数に一時に発生して消防機関が間に合わなかったのは事実である。また一つには東京市民が明治以来のいわゆる文明開化中毒のために徳川時代に多大の犠牲を払って修得した火事教育をきれいに忘れてしまって、消防のことは警察の手にさえ任せておけばそれで永久に安心であると思い込み、警察のほうでもまたそうばかり信じきっていたために市民の手からその防火の能力を没収してしまった。そのために焼かずとも済むものまでも焼けるに任せた、という傾向のあったのもやはり事実である。しかしそれらの直接の原因の根本に横たわる重大な原因は、ああいう地震が可能であるという事実を日本人の大部分がきれいに忘れてしまっていたということに帰すべきであろう。むしろ、人間というものが、そういうふうに驚くべく忘れっぽい健忘性な存在として創造されたという、悲しいがいかんともすることのできない自然科学的事実に基づくものであろう。 ・・・

関東大震災を地震と火災とに区別して、大惨事は地震でなく火災によってもたらされたものであると認識し、江戸時代の大火と比較しています。
明暦の大火とは明暦三年(1657年)に発生した開府以来最大の大火で、死者は10万人以上といわれています。江戸の町は幾度も大火に見舞われ、これらの大火を契機として、延焼を防ぐための空閑地の増設や寺社の移転(都市計画)、瓦葺や土蔵の奨励(建物の難燃化)、町火消しの新設(消防組織の編成)などの防災対策が実施されました。

寺田寅彦随筆集 第五巻 天災と国防 昭和九年十一月、経済往来

・・・ いつも忘れがちな重要な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその激烈の度を増すという事実である。
 人類がまだ草昧(そうまい)の時代を脱しなかったころ、がんじょうな岩山の洞窟の中に住まっていたとすれば、たいていの地震や暴風でも平気であったろうし、これらの天変によって破壊さるべきなんらの造営物をも持ち合わせなかったのである。もう少し文化が進んで小屋を作るようになっても、テントか掘っ立て小屋のようなものであって見れば、地震にはかえって絶対安全であり、またたとえ風に吹き飛ばされてしまっても復旧ははなはだ容易である。とにかくこういう時代には、人間は極端に自然に従順であって、自然に逆らうような大それた企ては何もしなかったからよかったのである。

文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しょうとする野心を生じた。そして、重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているのはたれあろう文明人そのものなのである。 ・・・

文明の発達するに従って、災害は質・量ともに増大・増加していきます。更に文明が発達すると災害を封じ込むことができると考えがちですが、文明の発達とともに災害の要因は増えるので少々の災害対策で安心するな、自然をみくびるなと警告しています。十勝沖地震では耐震性大きいとされていた鉄筋コンクリート造の建物に被害が目立ち、宮城県沖地震では旧市街に較べて新興住宅地の被害が顕著でした。そして、兵庫県南部地震では木造住宅が倒壊して多くの犠牲者を出したばかりでなく、安全と考えられていた高速道路が横転し、道路橋や鉄道橋が落橋し、港の岸壁が崩壊しました。
そして警告は続きます。

・・・ 戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。その上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水がくるか今のところ容易に予知することができない。最後通牒も何もなしに突然来襲するのである。それだから国家を脅かす敵としてこれほど恐ろしい敵はないはずである。最もこうした天然の敵のためにこうむる損害は敵国の侵略によって起こるべき被害に比べて小さいという人があるかもしれないが、それは必ずしもそうは言われない。たとえば安政元年の大震のような大規模のものが来襲すれば、東京から福岡に至るまでのあらゆる大小都市の重要な文化施設が一時に脅かされ、西半日本の神経系統と循環系統に相当ひどい故障が起こって有機体としての一国の生活機能に著しい麻痺症状を惹起する恐れがある。万一にも大都市の水道貯水池の堤防でも決壊すれば市民がたちまち日々の飲料水に困るばかりでなく、氾濫する大量の流水の勢力はすくなくも数村を微塵になぎ倒し、多数の犠牲者をだすであろう。水電の堰堤が破れても同様な犠牲を生じるばかりか、都市は暗闇になり肝心な動力網の源が一度に涸れてしまうことになる。
こういうこの世の地獄の出現は、歴史の教えることから判断して決して単なる杞憂ではない。しかも安政年間には電信も鉄道も電力網も水道もなかったから幸いであったが、次に起こる「安政地震」には事情が全然ちがうということを忘れてはならない。 ・・・

「安政地震」とは、安政元年(1854)の安政東海地震とその32時間後に起こった安政南海地震を指し、被害は関東から九州に及びました。

関東大震災と寅彦

寺田寅彦の関東大震災への関わりをよく示しているものとして、大正十ニ年二十九日付けでドイツに滞在していた小宮豊隆(寺田寅彦随筆集の編集者)に宛てた書簡に次のような記述があります。一部は、上記の伝説の警句に示しましたが、改めて示すこととします。

・・・ 今度の地震は東京ではそう大したことはなかったのです。地面は四寸(十センチ少々)以上も動いたが、震動がのろくていわゆる加速度は大きくなかったから、火事さえなかったら、こんな騒ぎにはならなかった。死傷者数の大多数はみな火災のためであります。火災を大ならしめた原因は風もあるが、地震で水道が止まったこと、地震のために屋根が剥がれて飛び火を盛んにしたこと、余震の恐怖が消防を萎微させたことなども大きな原因のようです。
 僕らは今度の火災のことの調査を引き受けて毎日毎日焼け跡をしらべて歩いています。夜寝ると眼の前に焼け跡の光景ばかり浮かんで、焼死者や水死者の姿が見えて仕方がない。頭の中まで焼け野原になったような気がする。
 帝都復興院という尨大なものが出来るらしい。相変わらず科学を疎外した機関らしいようです。
 新聞に出るようなことは一々申し上げません。
 調査の必要から昔の徳川時代の大震火災の記録を調べているが、今度われわれがなめたのと同じような経験を昔の人が疾(とう)になめ尽くしている。それを忘却してしまって勝手なまねをしていたためにこんなことになったと思う。昔に比べて今の人間がちっとも進歩していない。進歩しているのは物質だけでしょう。かえって昔の政府や士民のやり口が今より立派なような気もします。 ・・・ 
(松本哉著 寺田寅彦は忘れた頃にやってくる 集英社新書より)

震災予防調査会*報告 第百号 戊 大正十二年九月一日ノ旋風ニ於イテ

寺田寅彦は関東大震災の調査で旋風の調査を担当しました。その調査結果は震災予防調査会報告の中に収められています。
これによると、江戸時代の文章にも旋風らしいものが見られるが、今回の旋風を想像できるような明白な記録はないので、できるだけ詳細な記録を残しておくことが後世に対する義務であるとして、旋風の発生した時間と場所、発見者・遭遇者の談話、当日の気象状況、火災によって生じた積雲の写真と解説、周辺への飛来落下物などを記述しています。
断定的な結論に到達できただけであり遺憾であると前置きしながらも、調査結果を次のようにまとめています。

  • 一、今回の旋風は火災の進行しつつある場所の付近にのみ起こった。しかしその現象は普通の旋風または塵旋風と同型のものである。
  • 二、旋風の起こりやすい、見舞いやすい場所があるらしく見える。特に火流の前線に湾入を生じた箇所に起こり易く見える。
  • 三、当時の気象状態が、旋風を誘発しあるいは助長するに恰好であったと思われる。
  • 四、火災によって生じた積雲は約五六キロメートルの高さに達し、間接的に誘発されたと思われる乱層雲は対流圏の頂を極めた。
  • 五、火災の雲は雷鳴を伴ったらしい。
  • 六、旋風ならびに火災による気流は、十キロメートルの距離に「トタン」板を飛ばし、九十キロメートルの遠方に灰を降らせた。

(カタカナをひらがなに変え、一部のかな使いなどを変えています。)

*震災予防調査会 当会は1891年(明治24年)に起こった濃尾地震(死者7千人以上)を契機として、その翌年に組織された文部省の機関です。関東大地震で東京帝国大学に地震研究所が設立されたことにより、震災予防調査会は関東大地震の調査を最後に解消しました。関東大地震当時、寺田寅彦は東京帝国大学教授でした。

寺田寅彦随筆集 第三巻 からすうりの花と蛾 中央公論

上野公園噴水周辺

竹の台:現在の上野公園の噴水周辺一帯

正面に国立博物館、左手に東京都美術館、右手に科学博物館や西洋美術館があります。

火災の延焼

震災予防調査会報告 第百号戊 1925より 着色編集

からすうりの開花の不思議、開花に合わせて飛来する蛾の不思議から始まり、自然の偉大さと人間の思い上がりを対比しながら、話題は行きつ戻りつ、二科会の洋画博覧会が話題となり、続いて次のような話に移っていきます。

・・・ 実際二科院展の開会日に蒸し暑くなかったという記憶のないのは不思議である。大正十二年に開会日は朝ひどい驟雨があって、それが晴れると蒸し暑くなって、竹の台の二科会場で十一時五十八分の地震に出会ったのであった。そして宅に帰ったら瓦がニ三枚落ちて壁土が少しこぼれていたが、庭の葉鶏頭はおよそ天下に何事もなかったように真紅の葉を紺碧の空の光の下にかがやかしていたことであった。しかしその時刻にはもうあの恐ろしい前代未聞の火事の渦巻が下町一帯に広がりつつあった。そうして生きながら焼かれる人々の叫喚の声が念仏や題目の声に和してこの世の地獄を現しつつある間に、山の手ではからすうりの花が薄暮れの垣根に咲きそろっていつもの蛾の群れはいつものようにせわしく蜜をせせっているのであった。

地震があればこわれるような家を建てて住まっていれば地震のときにこわれるのはあたりまえである、しかもその家が、火事を起こし蔓延させるに最適当な燃料でできていて、その中に火種を用意してあるのだから、これは初めから地震による火災の製造機械をすえ付けて待っているようなものである。大火が起これば旋風を誘致して炎の海となるべきはずの広場に集まっていれば焼け死ぬのは当然であった。これは事のあった後に思うことであるが、われわれにはあすの可能性はもちろん必然性さえも問題にならない。 ・・・

東京では固い地盤の台地(山の手)と軟弱な地盤の低地(下町)に人が暮らしてきました。竹の台の二科会場も寅彦の自宅も本郷台地にあり、台地での地震動や被害はたいしたことはなかったことが文面から窺えます。一方、低地では台地とは対照的に地震動が増幅され大きく揺れました。「この世の地獄」は、地震そのものというよりも、地震の直後に発生した火災とその延焼によって出現し拡大しました。

地震当日の行動や気象状況は上記の「からすうりの花と蛾」に加え、「地震予防調査会報告 第百号 戊 大正十二年九月一日ノ旋風ニ於イテ」の中で次のように述べています。

・・・ 地震のとき、著者は上野にいたが、当時同所は雨は止んでいて、南風がかなり強く空は未だ曇り屋内は蒸し暑かった。地震直後市外の方からゴミ臭い南風が吹いて来て空は砂塵のようなものが靡(なび)いていた、倒潰家屋の塵埃であったと思う。地震後ほとんど間もなく風が止み空は晴れ、午後一時頃駒込に帰った後は全く静穏で空は東京では寧ろ珍しい蒼い色をして晴れていた。人の話を総合すると山の手一帯にかけて同様であったらしいが、これに反して下町方面では火流の状況(中村委員の報告による)からみても、火災によって誘起された風以外に一般的にもかなりの南風が午後まで継続していたらしく見える ・・・
(カタカナをひらがなに変え、一部のかな使いなどを変えています。)

文中に「中村委員の報告による」とされるのは「大地震ニヨル東京火災調査報告 中村清二」(震災予防調査会報告 第百号 戊 1925)です。右の図は同報告書に示されている一連の図の一つ(着色編集)であり、地震当日午後三時の時点における東京の消失地域(赤色)を示しています。この赤色域は、この後、当日夜半にかけて急速に拡大します。
 図の中央を右上から左下方向に横切る蛇行した空白帯は隅田川であり、左側ほぼ中央の空白域が皇居です。

寺田寅彦集 角川書店 昭和27年より

浅草寺のいちょう

大手濠緑地の「地震いちょう」

地震いちょう

浅草寺の被災イチョウ

関東大震災の調査で、火災旋風を担当した寺田寅彦は、毎日焼け跡をしらべて歩き、そして、九月の末の不思議な芽吹きを目撃します。それを随筆「柿の種」の中で次のように記述しています。

震災の火事の焼け跡の煙がまだ消えやらぬ頃、真黒になった木の幹に鉛丹色の黴のようなものが生え始めて、それが驚くべき速度で繁殖した。樹という樹に生え広がっていった。そうして、その丹色が、焔にあぶられた電車の架空線の電柱の赤錆の色や、焼跡一面に散らばった煉瓦や、焼けた瓦の赤い色と映え合っていた。道端に捨てられた握飯にまでも、一面にこの赤黴が繁殖していた。そうして、これが、あらゆる生命を焼き盡されたと思われる焦土の上に、早くも盛り返してくる新しい生命の胚芽の先駆者であった。三四日たつと、焼けた芝生はもう青くなり、しゅろ竹や蘇鉄が芽を吹き、銀杏も細い若葉を吹き出した。藤や桜は返り花をつけて、九月の末に春が帰ってきた。焦土の中に萌え出づる緑は嬉しかった。崩れ落ちた工場の廃墟に咲き出た、名も知らぬ雑草の花を見た時には思わず涙が出た。
(一部、仮名使いなどを変更)

皇居の東側の大手濠緑地には、関東大震災の火災で焼けた経歴のある「地震いちょう」(写真上段)と呼ばれるイチョウがあります。震災後にこの地に移植され、現在では大木に成長しています。
その他、台東区浅草寺(写真下段)や墨田区の江島杉山神社などに被災したイチョウが生き続けています。
神社、寺院などにイチョウの木が多いのは、建物を火から守るためとされており、「火伏せの木」とも呼ばれているようです。
(参考:唐沢孝一 よみがえった黒こげのイチョウ 大日本図書 2001 6)

寺田寅彦随筆集 第二巻 LIBER STUDIORUM

震災後復興の第一歩として行われた浅草凌雲閣の爆破を見物に行った。工兵が数人かかって塔のねもとにコツコツ穴をうがっていた。その穴に爆薬を仕掛けて一度に倒壊させるのであったが、倒れる方向を定めるために、その倒そうとする方向の側面に穴の数を多くしていた。準備が整って予定の時刻が迫ると、見物人らは一定の距離に画した非常線の外まで退去を命じられたので、自分らも花屋敷の鉄檻の裏手の焼け跡に行って、合図のラッパの鳴るのを待っていた。 ・・・中略・・・
 爆破の瞬間に四方にはい出したまっかな雲は実に珍しいながめであった。紅毛の唐獅子が百匹も一度におどり出すようであった。
 くずれ終ると見物人は一度に押し寄せたが、酔狂なニ三の人たちは先を争って砕けた煉瓦の山の頂上に駆け上がった。中にはバンザーイと叫んだのもいたように記憶する。明治煉瓦時代の最後の守りのように踏みとどまっていた巨人が立ち腹を切って倒れた、その後に来るものは鉄筋コンクリートの時代であり、ジャズ、トーキー、プロ文学の時代である。 ・・・

関東大地震の32年前の1891年(明治24年)には日本の陸上で起こった地震では最大といわれる濃尾地震が発生し、7,200人以上の犠牲者を出しました。この地震によって、煉瓦造りの紡績会社や公共の建物が数多く倒壊し、煉瓦造りの建物が地震に弱いことがわかりました。上記の浅草凌雲閣は奇しくも濃尾地震の前年に建てられています。また、横浜の地方裁判所も同年に建てられた煉瓦造の建物です。横浜地方裁判所の建物も倒壊して、この建物だけで94名の人々が犠牲になりました。その一方では鉄筋コンクリート造の建物が耐震性を示し、その後は鉄筋コンクリートの時代へ移っていきます。

本文中記載外参考資料

理科年表 国立天文台編 2002

天下大変 ―資料に見る江戸時代の災害― 国立公文書館 2003