十津川水害と北海道移住の続き
本文 「おわりに」より |
1889年(明治22年)の4月に地方行政組織の再編成があり、十津川郷の55村が合併して6か村(北十津川村・十津川花園村・中十津川村・西十津川村・南十津川村・東十津川村)となり、十津川郷6か村と呼ばれた。この年に発生した災害および北海道移住が契機となって翌年の明治23年には十津川郷6か村が合併して十津川村となった。これが現在の奈良県吉野郡十津川村である。
北海道移住の勧告およびその実行が十津川郷6か村を対象として展開されたのは、単に被害が大きかったというだけではなく、地域社会のつながりが強く十津川郷という共通の意識が形成されていた特殊な地域であったことが大きい。
災害のあった明治22年といえば、大日本帝国憲法が発布された年である。幕末から明治維新にかけての担い手が新しい国家を着々と形成していた時代であり、幕末・明治維新の余韻が未だ消えない時代でもあった。
十津川郷士は、幕末の御所警備・蛤御門の戦い・天誅組の挙兵、そして明治元年の戊辰戦争などに関わってきた。戊辰戦争では200余名が北越に転戦し、激戦のうちに24名の戦死者を出している。そして、その結果として、十津川郷士は中央での社会的な地位と要職を手に入れ、地方では指導的な地位を占めた。
郡長の玉置高良は東十津川村の出身で、明治維新以前は勤皇の志士として十津川郷と京都間を繰り返して往復し、郷士の御所守衛に際しては私財を投じている。救助活動を指揮した郡書記の西村晧平および上杉直温はそれぞれ南十津川村・西十津川村の出身であり、両者は戊辰戦争その他の軍事任務に参加している。
宇智吉野郡役所の指導者にとっての十津川郷は自らの出身地というだけではなく家族の住む土地であり、災害においても十津川郷の問題あるいは自分自身の問題として捉えて自ら生きる道を選択した。政府その他の要人とのパイプを生かし、政府から手厚い保護を勝ち取ることによって活路を北海道移住に求めたのである。十津川郷の指導者は十津川郷を守るために全力を尽くし、被災者はその指導者たちを信じて団結してこれに答えた。ここで十津川郷6か村とそれ以外の村の間に違いが生まれた。
…… 一連の行動は幕末から続く十津川郷士の自らの戦いという側面を感じさせる。 ……
災害の翌年には、北海道の様子を伝え聞き、天川村の106戸と大塔村の8戸(計約560人)の住民が北海道移住を希望した。5月には宇智吉野郡役所に移住を請願し、引き続いて請願書を奈良県に提出した。時は既に遅く郡役所も県も動かなかった。議題として検討されることはなく、言わば門前払いであった。これから間もない7月には概に移住が決まっていた十津川郷民が最後の移住者(第四回)として故郷を後にした。北海道移住の流れに乗れなかった天川村や大塔村の人々に再びその機会が訪れることはなかった。
移住者にとっても移住した年の冬は厳しいものであった。災害を生き抜いても、その冬を越せずに病死する人が相次いだ。当時の戸籍簿の調査によると移住の年の11月から翌年7月までに69名が死亡しているという。被災者にのしかかる精神的および肉体的な重圧の一端を示しているように感じられる。
北海道への移住者は入植地を新十津川村と名付けた。これが現在の北海道樺戸郡新十津川町である。 北海道への移住を前にして、十津川郷6か村の村長の交わした「北海道に移住して新しい村を造っても、十津川本郷とは幾世代に亘ってその因縁を保ち、由緒を相続する」という誓いは、新十津川町の町名および両村町のシンボルマーク(菱十)に象徴されている。
目 次
はじめに
一、 災害地その山河
山岳重畳の災害地/世界遺産の小辺路
二、 川は轟音を発し、山は震える
豪雨の前兆/暴風雨の襲来と通過/山地崩壊と新湖の発生
三、 人家を襲う土砂と濁流
大災害の序曲/集落の放棄と避難/逃避行と近隣集落からの救助/「柳谷」の崩壊
四、 生と死の狭間
死地からの生還者/死との直面
五、 災害激甚地の北十津川村
被害状況/長殿の悲劇/林新湖の出現/郡長の遭難
六、 災害地に向かう救援者
野を駆けた急報書/県および郡役所の対応と救助ルート/五條倶楽部と吉野倶楽部/新聞報道と広がる支援の輪
七、 災害以後
新湖の決壊計画/荒れ果てた山河/移住計画
八、 北海道への旅立ち
九、 災害地の地質
奇異な現象と不安の広がり/巨智部技師の地質踏査/現在から見た災害地の地質
十、 十津川の流れと警戒碑
十津川の堆砂/警戒碑
十一、土砂災害からの回避
斜面崩壊と死者数が意味するもの/防災を考える/自然現象として崩壊は続く
おわりに
・参考文献
・参考「吉野郡水災誌」概容
@水災誌の構成 A各巻の構成 B被害数量などについて C水災誌の特徴 D復刻版について
・索引
シリーズ日本の歴史災害 巻頭言より抜粋 小林芳正(京都大学名誉教授) 「天災は忘れたころに来る」という警句は寺田寅彦のものだといわれている。災害が頻発するので「災害は忘れないうちに来る」などという人もこの頃はいるようだが、これは取り違えであろう。災害とは単なる自然現象ではなく、本質的に社会的な現象で、過去の教訓を忘れたときに起こるものだとの戒めだからである。
この意味で過去の災害の教訓は社会に定着しているだろうか?われわれは、ほんの少し前の災害の実相も簡単に忘れてしまってはいないだろうか?筆者は長年、災害調査・研究に携わってきたが、先人の被災経験が人々にあまり生かされていないことを繰り返し体験してきた。「こんなことはお爺さんからも聞いたことがなかった」というせりふを何度聞かされたことか!先祖たちの痛切な体験がたちまち風化して子孫に伝わらないのは悲しいことである。
科学者の行う災害の分析や理論化は間違っていないとしても、多くの場合、一般市民に訴える力が足りないのではあるまいか?知識は人々の心に響いてこそ始めて防災力の向上につながる。その意味で、災害研究者としての筆者も、自身の無力を認めざるを得なかった。そして「理論としての防災知識」を「実感できる防災知識」に脱皮させる必要を感じてきた。それはいつか自分がやらなければならないと考えてきた。
「シリーズ日本の歴史災害」はこのような意図から生まれたものである。そのきっかけは、筆者がかつて奈良県十津川村を訪れて明治二十二年の大水害その記録「吉野郡水災誌」に接したときにさかのぼる。これこそこのような力を持った文書だと直感した。事実としての災害経過の記述の中から災害の生々しい実態がひしひしと伝わってきたからである。これはぜひ多くの人々に見てほしいと思った。 |
※ 本ページの画像は「十津川水害と北海道移住」より編集しておりますが一部異なる場合があります。
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