1847年(弘化四年)5月8日 夜10時ころ発震
善光寺地震では家屋の倒壊や火災に加え、山間部での崩壊と地すべりが多発したという特徴があります。山地斜面の崩壊と地すべりによる土砂が河川を閉塞し、やがては決壊することで震災を拡大させました。
理科年表より(一部省略)
1847 5 8(弘化 4 3 24)
信濃北部および越後西部:『善光寺地震』
被範囲は高田から松本に至る地域で、特に水内・更級両郡の被害が最大であった。松代領で潰家9550、死2695、飯山領で潰家1977、死586、善光寺領で潰家2285、死2486など。
全国からの善光寺参詣者7千~8千のうち、生き残ったもの約1割という。
山地で山崩れが多く、松代領では4万ヶ所以上。 虚空蔵山が崩れて犀川をせき止め、上流は湖となったが、4月13日に決壊して流失家屋810、流死100余。
写真1 長野市上戸倉より西方を望む
当時この辺りでも至るところで斜面崩壊が発生しました。遠景は飛騨山脈(穂高岳・槍ヶ岳・鹿島槍ヶ岳などの北アルプス)の連山です。
撮影:2005年5月
善光寺の紹介 善光寺パンフレット(善光寺事務局)より
日本最古の御仏を祀る善光寺は、日本を代表する霊場であり、法燈連綿として約千四百年の歴史を経て今日に至っております。 寺伝によれば、皇極天皇元年(西暦六四二年)に創建されてから十一回の火災に遭いましたが、その度ごとに全国庶民の如来様をお慕いする心によって復興され護持されてきました。 ご本尊「一光三尊阿弥陀如来」さまは、インド・朝鮮半島百済国を経て、欽明天皇十三年(西暦五五二年)日本に渡られた三国伝来の御仏で、秘仏となっております。
善光寺はいずれの宗派にも属さず、すべての人の往生極楽の門として、また、現世の安隠をお与え下さる大慈悲の如来様として、広く深い信仰を得ております。
写真2 善光寺本堂 高さ約30メートル
写真3 善光寺境内の地震横死塚
地震発生時は善光寺のご開帳*の最中であり、全国各地から多くの人が参詣に訪れていました。地震発生が夜の10時ころであったため、家屋の倒壊と火災による死者が多く、参詣者7千~8千のうち、生き残ったものは約1割といわれています。
地震で本堂・山門・経蔵・鐘楼・大勧進万善堂なども被災しましたが全壊や焼失は免れました。一方、大本願・仁王門・院坊その他の建物は焼失しました。 現在では本堂が国宝(1707年完成)、山門(1750年落成)と経蔵(1759年落成)が重要文化財に指定されています。
*ご開帳 仏像を納めた厨子の扉を開け公開すること。善光寺の本尊は秘仏であり、公開されるのは秘仏を模したといわれる前立本尊(まえだちほんぞん:重要文化財)です。
写真4
地震横死塚の向かって右側手前にある「地震塚」と記された説明碑
山斜面の崩壊は善光寺地震の災害の特徴であり、崩壊や地すべりが各所で発生しました。崩壊による河川の堰き止めは松代藩内で51箇所、松本藩内で41箇所あったといいます。
虚空蔵山(岩倉山)の崩壊は最大規模の崩壊であり、崩壊土砂は犀川を閉塞しました。 この堰止湖により上流の村々が水没しました。19日後の4月13日に決壊して人家や人が押し流されました。この決壊は予想されたので下流域の人は避難していましたが、それでも100人が流されて死亡しました。
長野市信更町今泉付近の上空より犀川*の上流(南西)方向を望む
*犀川 上高地より流れ下る梓川や燕岳などの水を集める高瀬川を容れ、長野市の市街地南側で千曲川に合流する。
(国土地理院の数値地図を使用してカシミール3Dで作成)
虚空蔵山上空付近からの眺め(マウスが画像上にあるときは堰止湖の画像になります。
崩壊によって犀川がせき止められ、生じた湖は沿岸の集落を沈めて上流に向かって長く伸び、直線距離で約28kmの長野県東筑摩郡明科町まで遡上しました。虚空蔵山の崩壊および犀川の閉塞箇所は図の手前後方です。なお、堰止湖の湖面が長野県東筑摩郡明科町まで拡大したものとして作図しておりますが、崩壊箇所のせき止めた土砂の高さには別説があります。
水内(みのち)ダムのダム湖(2005/5撮影)と善光寺地震による堰止湖
左の動画は現在の水内ダムをスタート画面とし、善光寺地震で生じた堰止湖を再現したものです。(国土地理院の数値地図(承認番号 平17総使、第431号)を使用してカシミール3Dで作成しました。)
参考資料
赤羽貞幸・北原糸子「善光寺地震に学ぶ」信濃毎日新聞社 2003
善光寺事務局監修「よくわかる善光寺参り」チクマ秀出版 2000
相原文哉 絵で見る善光寺本堂の造営 1987
信濃毎日新聞社開発局出版部編集「弘化四年 善光寺大地震」 1977 (記者の松露香によって著された明治時代の連載記事)
善光寺事務局「善光寺」パンフレット・「善光寺参拝のしおり」
宇佐美龍夫「新編日本被害地震総覧」東京大学出版会 1996