かるたウォーク『ふるさと寝屋川』 鉢かづき姫伝説コース |
寝屋から太秦、打上を歩く コース 星田駅→東高野街道・道しるべ→大谷北大師祠→山根街道→寝屋長者屋敷跡→寝屋神社→正法寺→西蓮寺→寝屋川の起点→細屋神社→八幡神社→秦河勝の墓→打上川治水緑地→豊野浄水場・太秦高塚古墳→北部公園→寝屋古墳→大谷南大師祠→打上弘法井戸→極楽寺→明光寺・十三仏・雷神石・首なし地蔵→高良神社→行者像・天照大明神・住吉大明神・妙見大菩薩石碑→石の宝殿古墳→埋蔵文化財資料館→東高野街道・四辻の道しるべ→打上古墳→正縁寺・十三仏→大杜御祖神社・高宮廃寺跡→高宮神社→秋玄寺・十三仏 参考文献・『ふるさと寝屋川かるた』・寺前治一著「寝屋川史話100題]・「寝屋川市の文化財」・松田太郎著「北河内五市の史跡を探る」・「歩こう寝屋川発見の旅」など |
東高野街道道しるべ |
長者屋敷跡 |
山根街道 |
星田駅 カルタの句 『 旅人の高野のみちのり一里塚 』 『 寝屋にいく旧高野道に旭尋常小跡 』(星田郷土史かるた) 大井川万吉道しるべ(東高野街道・北行き「すぐ京 八はた」) カルタの句 『 道しるべ郷土の力士大井川万吉碑 』 『 右ひだり「すぐ」と教える道しるべ 』(星田郷土史かるた) 竹才一口墓道しるべ(東高野街道・南行き「すぐ高野 大坂道」) 大谷北大師祠 弘法大師 石祠 一石半肉彫 右面に「寛政二年(1790)」 傍示(ほうじ)川 星田新池の下を流れ、大谷橋を通り、寝屋谷を経て、タチ川、そして、寝屋川の起点に通じている。 山根街道 寝屋の集落の真ん中を東西に走る道。 カルタの句 『 現存の国府にいたる山根街道 』(星田郷土史かるた) 寝屋長者屋敷跡 カルタの句 『 鉢かづき姫を守った観世音 』 お伽草子『はちかづき草』 河内の国交野郡に寝屋長者といわれた寝屋備中守藤原実高という人がいた。夫婦円満だが、二人の間に子どもがないのがただ一つの不足であった。夫婦は大和の長谷寺の観音にきがんして、美しい一人の女子を得た。両親の愛にすくすくと姫は育ち、学問・芸事にいそしんでいた十三歳のとき、母は病気になって死ぬのだが、その直前にわが子の頭に、何やら物をのせ、その上に大きな“はち”を冠らせて、“さしも草深くぞたのむ観世音ちかひのままにいただかせぬる”と歌を詠むのであった。母の葬式にもその後も、どうしても“はち”は姫の頭をはなれない。体の一部のようにきちっとくっついてはなれないのである。父は人々のすすめで後添いをもらったが、この人が優しかったら、この話はおこらなかっただろう。その逆で、気質のきつい人であって妹ができてからは一層高ずるのであった。夫にいろいろつげ口をして、ついに「はちかづき」を屋敷から追い出してしまった。「はちかづき」は行くあてもなく道を歩いていると、大川の辺りにきたので見るともなく水の流れを見ると、その底から亡き母が呼んでいるように見えたので、身をおどらせて川に飛び込んだが、かずいている“はち”が邪魔になって沈まない。流れのままに流れていたが、漁師の手で岸にほうり上げられた。川岸に上げられた「はちかづき」は、また堤を歩くのであった。そして、山陰三位中将という公家の一行にあい、このような者が邸内にいるのも一興だと、屋敷へ連れて行かれ湯殿番をすることになった。いままでしたこともない水汲み、まき割りから、湯わかしと、なかなかの労働だったが、「はちかづき」は懸命につとめた。この邸の四男の御曹子宰相(さいしょう)の君と、ある夜、湯殿で一度の出会いなのに、相思相愛の仲となった。ばけ物のような「はちかづき」と、御曹子との恋仲は邸中に広まり、両親の耳にまで聞こえたので、邸の名折れだから二人を離れさそうと「嫁くらべ」なる行事を計画された。そんな晴れがましい席に出られる自分でないことを知っていた「はちかづき」は邸を出ようとすると宰相の君も出るといってきかない。二人が一歩踏み出すと、「はちかづき」の冠っていた“はち”が前に落ち、金、銀、宝物に、いろんな衣装まで山と出てきた。それに“はち”のとれた姫の顔の美しいこと、宰相の喜びは大きかった。こうして、たくさんの物が出て、“はち”がとれたのだから、邸を出なくなってもよいこととなり「嫁くらべ」に出席することにした。「嫁くらべ」を上々の首尾で終えた姫は、両親の殊の外お気に入りとなって、宰相の君との結婚を許され、財産分配で宰相の君は相続者となり、宮中に出仕し、追々出世をするのであった。二人の間には三人の子どもができ、かく幸福にあるのも長谷の観音のお蔭とお礼をし、そこで父寝屋実高の修行僧姿に会い、喜び語り合うのであった。(寺前治一氏「寝屋長者はちかづき」より) カルタの句 『 はちかづき 寝屋の長者の 屋敷跡 』(大阪府かるた) カルタの句 『 はちかづき 寝屋の長者の 庭の池 』(まんだ) カルタの句 『 金門に 長者屋敷あと 鉢かづき姫 』(星田郷土史かるた) |
寝屋神社 |
正法寺 |
正法寺・梵鐘 |
西蓮寺・観音堂と道標地蔵 |
寝屋神社 八幡神。祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)。流水疎通の神と雨をつかさどる龍神も祀られている。境内にはカナメモチの林やアラカシ、コナラ等の木々がある。 正法寺 紫雲山 浄土真宗本願寺派 ・市指定有形文化財梵鐘(江戸時代・慶長期のもの)(平成10年指定) 銘文によると、慶長二十年(1615)に現在の島根県太田市にあった覺法寺の鐘として大工山根九左衛門によって鋳造され、その後、明暦二年(1656)広島市にあった永照寺に移り、京都の仏具商、さらに昭和3年(1928)謝徳堂に移ったことがわかる。昭和37年(1962)に正法寺に移された。鐘は池ノ間を上下二段に分け、広い中ノ間を作っている。鐘の表面のみならず、鐘身の内面まで所狭しと多くの銘が刻まれてあり、法名・家名が602にも上る。草ノ間に施された唐草文は簡素である。(文化財台帳より) 西蓮寺(さいれんじ) 浄土宗 ・千手観音立像 山門を入ると右側に観音堂がある。高さ1.22メートルの木造りの千手観音立像が安置されている。鉢かづき姫と、その母の照見の方が、信仰していた観音さま。 ・道標地蔵 地蔵さんに「右ねやほしだ道」「左くらじたき道」 集落の西のはずれにあったもの。往来の安全祈願と道標を兼ねている。 |
寝屋川の起点 |
細屋神社 |
八幡神社 |
寝屋川の起点 カルタの句 『 寝屋川の呼び名たずねて寝屋の里 』 交野市からのタチ川と枚方市からの北谷川とが、寝屋の西で合流して寝屋川となり、市の中央を南へ流れ(約8キロ)大阪市の天満橋付近で大川と合流している。全長約21キロ。 寝屋川公園墓地 カルタの句 『 現し世の心やすらぐ公園墓地 』 寝屋川団地と三井団地の間に位置している。墓地と自然を生かした緑豊かな公園とが一体化され、その調和のとれたすばらしい景観から寝屋川八景に選ばれている。 細屋神社(ほそや) カルタの句 『 天の星祀る細屋神社は式内社 』 延長五年(927)に完成した延喜式の神名帳にある式内社。祭神は詳らかでないが、秦村の記録に天神とあり、西島氏の文書には細屋とはせず星屋と書いてあり、秦村の雨乞い記録には星天宮とある。大陸から移住してきた人らが、先祖からの天体崇拝の風俗をここに伝え星を祀ったとも考えられる。 地域の集落の守り神、農業豊作の水利の神として、村人の信仰を集めている。 八幡神社 祭神 誉田別尊(ほんだわけのみこと) 別雷神(わけいかづちのかみ) 由緒不詳。秦氏が祀ったものであろう。 |
秦河勝の墓 |
打上川治水緑地 |
太秦高塚古墳 |
太秦高塚古墳・埴輪 |
伝・秦河勝の墓(はたのかわかつ・市指定史跡) カルタの句 『 河勝の墓は丘の上五輪塔 』 秦河勝は、秦の一族のなかで伝説的な人物。6世紀〜7世紀(推古天皇から大化年代ごろ)に活躍した人。土木技術や機織等に優秀な技術を持った渡来人・秦氏の首長で、聖徳太子の補佐役を果たした。聖徳太子から大陸渡来の仏像をいただいて京都太秦の地に蜂岡寺(広隆寺)を建立。世阿弥の「風姿花伝」によると、能楽の今春(こんぱる)氏は河勝の子孫。謡曲は河勝から起こったという。五輪塔は、かつて豊臣秀吉が淀川の文禄堤を築いたとき、礎石のひとつとして持ち去ったため、慶安二年(1649)に、秦氏の子孫が、再建する。 カルタの句 『 河勝の 墓が残れる 秦の丘 』(まんだ) ・石柱「正六位上兼右近衛府生秦武文」(江戸初期・先祖の河勝を顕彰して、子孫の武文という官人が建立) 打上川治水緑地(遊水地・大阪府) 寝屋川流域の浸水対策として洪水などから、市民生活の安全を確保するため、寝屋川や打上川の水を、この緑地に計画的に溜めて、下流の河川の負担を軽減する。ふだんは、憩いとやすらぎのある治水緑地。公園の周辺にサクラやモチの木が植えられている。 太秦高塚古墳(トノ山古墳・市指定史跡)大阪市水道局豊野浄水場 古墳群のなかで現存する唯一の古墳。直径37m・高さ7mの二段築成の円墳で、幅7.5mの周濠がめぐっていた。墳丘北西部分には造り出しと呼ばれる四角い突出部分が付いていた。一段目のテラスには円筒埴輪が1mあたり4基の割合でめぐらしている。造り出し部分にも円筒埴輪が立てられ、人物・巫女・家・盾・きぬがさ・水鳥・鶏などの形象埴輪も立てられていた。なかでも口元に手をよせている人物埴輪はとても珍しい。墳頂部東側で主体部が見つかったが、盗掘されたり、破壊されたりしている。墓坑は長さ4m・幅1.5m。その痕跡から長さ3.6m・幅1mの組合式木棺が納められていたと推定。棺内の南側で鉄剣・30本以上の鉄鏃・鋲留短甲・小札・木心鉄張輪鎧・大型鋳造鉄斧など鉄器の副葬品が見つかった。平成14年太秦高塚古墳公園としてオープン。 |
寝屋古墳 |
大谷南大師祠 |
星田妙見道 |
寝屋川公園・北部公園 寝屋古墳(大阪府指定史跡) 墳丘の大きさは直径20メートル、高さ4メートルの円墳で、北河内において開口している唯一の横穴式石室をもつ古墳時代後期の古墳。 大谷南大師祠 東高野街道 山根街道 旧山根街道にある開拓地。小字名の強地を開拓した治右衛門廣(じえもんびろ)の大師堂ともいわれている。大きな石祠の中に石造台石別丸彫の65センチの弘法大師像。裏に「大谷中」とある。星田と打上の境。 星田妙見道の道標 「星田妙見道」「大坂道」「弘化二年乙巳六月」「南燈明講 願主 何某」 |
弘法井戸 |
愛宕の常夜燈 |
極楽寺 |
打上弘法井戸 カルタの句 『 村人に清水恵んだ弘法井戸 』 東高野街道の旧道沿いに弘法観念水がある。ずつと昔からいかなる日照りつづきでも、この井戸の水は涸れたことはないといわれてきた。 カルタの句 『 高野みち 弘法井戸は 今も湧く 』(まんだ) 愛宕の常夜燈 極楽寺 浄土真宗 安永三年(1774)に石の宝殿付近から「黄金の骨壷」が発見。領主に差し出されたが戻され、元の地主の旦那寺である極楽寺境内の松の木の根元に埋められた。寺の山号の「黄金山」は、これにちなんでいる。『河内名所図会』には「金銅の壷」として紹介。壷は明治初年に掘り出され、村の小学校の建設資金にあてられた。 |
明光寺・雷神石 |
明光寺・十三仏 |
明光寺・首なし地蔵(右) |
明光寺(みょうこう) 浄土宗 山号は天照山 ・雷神石(らいじんせき)(市指定有形文化財) 高さ133センチ、横74センチ、厚さ41センチ、周囲が巾10〜15センチ高くなっている。石碑は、その形状から石棺の身の部分を利用してつくられたもので、石材は凝灰岩。この付近は打上古墳群と呼ばれ、かつては多くの古墳が存在していたと思われるが、現在はほとんど消滅し、この雷神石もそれらの古墳の石棺であったと考えられる。石碑には、「天照山」「天下和順日月神明」「檀主安全子孫繁栄」「伽藍常栄興仏法」「弘治三丁巳八月吉日可信」という銘がある。 ・十三仏石像碑 カルタの句 『 ゆく末を案じて建てた十三仏 』 「境内に十三仏の石塔あり」と『河内名所図絵』に紹介。巾47センチ 舟型。弘治三年(1557)の銘がある。碑文に「逆修」とある。 ・首なし地蔵 「鉢かづき姫」が継母の追手に首を討ちとられたとき、その身代わりになって、首を切られたという首なし地蔵。 |
高良神社 |
行者像 |
石の宝殿古墳 |
高良(こおら)神社 (打上(うちあげ)神社) 市内で最も高い海抜約100メートルのところにある。祭神は武内宿禰(たけのうちのすくね)。古事記、日本書紀に登場する人物。 高台に登れば、大阪・六甲山脈・八幡方面も一望できる。 打上神社古墳群 役行者の祠周辺に散在する花崗岩の巨石群、横穴式石室に使用されていたものと考えられる。 ・役行者像・大峯山石碑・天照大明神・住吉大明神・能勢妙見大菩薩石碑 石の宝殿古墳(いしのほうでん) (国指定史跡)(寝屋川八景のひとつ) カルタの句 『 石の宝殿古代の技に目をみはる 』 奈良の明日香村の鬼の雪隠(せっちん)・俎(まないた)と同型。蓋石と底石に別れているのに対して、石の宝殿はそのままの姿をとどめている。 カルタの句 『 石の宝殿 由々しき石を 重ねたり 』(まんだ) ・「天岩戸大日如来」の石柱 古墳の横口式の構造を利用して、天ノ岩戸に見たてた。天ノ岩戸に、身をかくした天照大神(あまてらすおおみかみ)といえば、神様の中の代表格。この神を密教の中心仏である大日如来の化身と見たてた。これは仏教優位の本地垂迹(ほんじすいじゃく)の思想による神仏習合のあらわれである。 |
埋蔵文化財資料館 |
四辻の道しるべ |
秋葉山常夜燈・大峯山石碑 |
打上古墳と弘法大師像 |
寝屋川市立埋蔵文化財資料館 カルタの句 『 埋蔵文化民俗文化は資料館 』 寝屋川市内の貴重な文化遺産を収集・復原・保管・展示し、学習の便をはかるとともに、文化財を身近なものとするため、昭和56年(1981)5月に開館。展示室には、高宮廃寺跡・高宮遺跡など市内の主だった遺跡から出土した旧石器時代から近世までの出土品が遺跡ごとに展示。 四辻の道しるべ(東高野街道) 高さ118センチ 巾は東西面25センチ 南北面で23センチ 南面「南 かうや のさき 大坂みち」北面「北 京 やわた 柳谷 星田妙見道」西面に「東 なら いせみち」東面「安政四巳正月 為父母 施主酒勘」 ・秋葉山の常夜燈 ・大峰山石碑 打上古墳(うちあげ) 打上の周辺は、古くから多くの古墳があったという。『河内名所図絵』に「八十塚、同村にあり。由緒不詳。八十は其数の多きをいふ」とある。多数の花崗岩の巨石が散在している。この付近に古墳(横穴式?)の石室の石材として使用されたものと考えられる。 ・弘法大師像の祠(台石に四十番、四十一番とある。) ・稲荷社 |
二月堂・八幡宮燈籠 |
国守神社 |
正縁寺 |
正縁寺・十三仏 |
・二月堂燈籠・八幡宮燈籠 二月堂燈籠 花崗岩、高さ3メートル。「天保十四年」(1843) 国守神社 祭神 応神天皇 菅原道真公 もと八幡宮と称した。 正縁寺(しょうえんじ) 浄土宗 ・十三仏石像 カルタの句 『 ゆく末を案じて建てた十三仏 』 十三仏碑 高さ90センチ 巾上部50センチ、下部48センチ 左に「天正十四年(1586)二月十一日」 右に「時講人数十三人」 ・「南無阿弥陀仏」名号碑 永禄二年(1559)銘。 ・役行者像 安政元年(1854)。 ・燈籠 文政元年(1818)の銘。 讃良川遺跡 カルタの句 『 歴史見る縄文びとの讃良川遺跡 』 大阪では稀な縄文中期(約4〜5千年前)の遺跡であることがわかり、多数の遺跡が発掘された。この頃は、海がこの近くまで入り込んでおり、そこで生活していた縄文時代の人々の生活を知ることができる。 讃良郡条里遺跡 白馬と黒馬を描いた絵馬が一緒に出土。 |
大杜御祖神社 |
高宮廃寺・東塔の礎石 |
高宮廃寺想像図 |
高宮遺跡 |
大杜御祖神社(おおもりみおや) 延喜式内社。高宮神社とは親子関係の神社。祭神は天萬魂命(あめのよろずたまのみこと)。高宮に住みついた高宮氏の祖、高宮神社の祭神の父君に当たるので御祖と書いたと考えられる。 高宮廃寺跡(たかみやはいしあと)(国指定史跡) カルタの句 『 立派なる伽藍しのばる高宮廃寺 』 大杜御祖神社の境内を中心に所在。拝殿の東20mほどに一段と高くなった基壇に大きな石を見出す、真ん中に、まるい穴が掘ってある、これが高宮廃寺の東塔の中心礎石で、拝殿のあるところに西塔があったと推定される。白鳳時代に創建された、薬師寺様式の大寺。 高宮遺跡 縄文時代の土杭、飛鳥時代・白鳳時代の掘立柱建物跡、竪穴式住居跡などの遺構と、縄文時代前期末の土器、矢じりなどの石器類、古墳時代の須恵器の壷や甕・土師器・瓦などの遺物が発見された。 この丘の上に生活を営んだ古代氏族が、氏寺としての高宮廃寺白鳳時代創建を建立したものと思われる。 平安時代の井戸が発見された。クスの木を「コ」の字形にくりぬいて組み合わせたもので、内部からは、「保延六年(1140)の墨書銘をもつ桶も出土。 |
高宮神社 |
秋玄寺 |
秋玄寺・十三仏 |
高宮神社 延喜式内社。祭神は、大杜御祖神社の天萬魂命の子に当たる天剛風命(あめのこわかぜのみこと)。大杜御祖神社を奥宮といい、高宮神社を子宮といわれている。清和天皇貞観元年(859)に「従五位上」という階位に昇進された大社。 小路という集落 縄文時代から弥生時代の土器片や、古墳時代から中世期にわたる遺物が見つかる。 河内街道 枚方道ともいう。枚方から寝屋川・高宮、四條畷・砂、大東・住道、そして、八尾へ。 秋玄寺(しゅうげんじ)浄土宗 山号・一印山 十三仏石像碑(市指定有形文化財) 「永禄十三年(1570)」と読み取れる十三仏。 |