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源氏物語試論2


さて、賜姓源氏が失脚したという事実はあるのでしょうか?失脚したというからには、一度は上に上がっている必要があるでしょう。上がつかえていて上がれないことを怨む人もいるかもしれませんが、それは怨霊を生むたぐいのものではないでしょう。  


高位に上った源氏を調べてみました。摂政、関白、左右大臣、内大臣になった人物を見てみると、806年に、神王が右大臣から降りて以来、840年に源常(ときわ)が右大臣になるまで、大臣はすべて藤原氏で独占されています。それ以降、「源氏物語」が成立する11世紀初頭までに大臣まで上がった源氏を調べると次のようにな ります。

源常(みなもとのときわ)(812〜854)   右大臣(840〜844)   左大臣(844〜854)   嵯峨天皇皇子    

源信(みなもとのまこと)(810〜868)   左大臣(855〜868)   嵯峨天皇皇子   大納言伴善男に讒言されるが、藤原良房に救われる(865年、応天門の変の伏線 となった事件)。以後出仕せず。  

源多(みなもとのまさる)(831〜888)   右大臣(882〜888)  

源能有(〜889)   右大臣(896〜897)   文徳天皇皇子   
    
源光(845〜913)   右大臣(901〜913)   仁明天皇皇子   別名光源氏   藤原時平に党し、菅原道真公失脚後、入れ替わって右大臣となる。落馬で死亡 (多分道真公の怨霊のせいとされたであろう。)  

源高明(914〜982)   醍醐天皇皇子   別名西宮左大臣   右大臣(966〜967)   左大臣(967〜969)   安和の変で失脚  

源兼明(914〜987)   醍醐天皇皇子   別名中書王   左大臣(974〜977)   歌人として有名。   関白藤原の兼通の讒奏で失脚

源雅信(みなもとのまさのぶ)(920〜993)    右大臣(977〜978)       左大臣(978〜993)) 
     
源重信(みなもとのしげのぶ)(92〜~995)   右大臣(991〜994)       左大臣(994〜995)   

藤原時平      宇多天皇
  |           | 
女====敦実親王
|    
―――――――
|         |
源重信      源雅信

源倫子
(藤原道長北政所)

源常が大臣だったのは、文徳天皇の御世で、藤原良房が右大臣になる以前です。
源信が左大臣であったのは、良房が摂政を勤めていた時期です。
源多が右大臣であったのは、藤原基経が関白であった時期です。
源能有が右大臣であったのは、藤原基経が死んで、関白が空席になった時期で、997年に右大臣を菅原道真公に譲っています。
源光が右大臣であったのは、藤原時平が左大臣であった時期です。
源高明と源兼明はしばし置いて、源雅信と重信が大臣であったのは、藤原、頼忠、兼家、道 隆が摂関であった時期です。  


こう見ると、失脚したといえる源氏は源高明と源兼明のみであることがわかります。ここに載っている以外の源氏はその多くが国司になっており、上がっても大納言どまりで、この傾向は平安時代を通じて同じです。したがって、大臣になれなかった賜姓源氏が藤原氏によって失脚させられた事実はありません。