2002/1/22



尊王思想の研究16―大日本帝国憲法と教育勅語


幕末の国難に対して、尊王攘夷を起爆剤にして明治維新が起こりました。しかし、新政府の要人たちは、幕末の経験を経て、尊王攘夷が近代の世界では何の役にも立たないことを知りました。明治政府が、尊王攘夷を捨てて、日本の近代化に進んだのはみなさん御存知の通りです。


しかし、尊王思想は地底のマグマのように、明治の日本に影響を与えつづけます。特に、大日本帝国憲法の天皇像は、尊王思想とセットで考えなければ、誤ります。


● 憲法制定

明治政府が、国民の権利を圧殺して、統制的な国家を造ろうとしていた、という考え方は今では否定されています。現在の研究では、五箇条の御誓文の精神にのっとって、制限君主制、公選の議会を作ることは全日本人の総意であり、明治における様々な対立は、それを実現する主体は誰になるか、政府・軍・国民などのうち誰に、より多くの権力を与えるかの対立であったと考えられているようです。


教科書にはよく「プロシア型の憲法」と言う言葉が出てきますが、これはすぐにイギリス型の議会を前面に出した憲法を採用することに「急進的ではないか」という心配があり、それと比べれば日本と国情が似たプロシアを真似るのなら無理のない「漸進主義」のように見えたというのが実情だったみたいです。「プロシア型憲法」とは、ともあればイギリスやフランス型の憲法試案を持って迫る民権派に対して、政府が主導権を握るための、象徴的な盾だったようです。


憲法制定の主導権は、紆余曲折を経て政府の中ではむしろリベラルな陣営に握られます。明治19(1886)年末頃から、伊藤博文のもと、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎、H・ロエスレル、A・モッセなどが制定の事業に取りかかりました。


●憲法と国体

この制定事業で問題になったのは「国体」の扱いでした。井上毅がこれにこだわりました。
「尊王思想の研究10―大政委任論」で見たように、尊王思想の天皇とは、象徴的な存在で、西洋近代に負けない伝統と神聖な優越性に価値がありました。そして尊王思想では、実際の政治は天皇から将軍、あるいは新政府が天皇からの委任を受けて行うので、制限君主制自体には、尊王家は異論ありません。


憲法における国体の扱いにたいする井上毅の主張を見ると、尊王思想がとてもメンタルなものであったことが分かります。


井上毅によると、日本の主権は開闢以来皇祖とそれを受け継ぐ天皇にあった。皇祖と天皇の「君徳」が、臣下の心に現れて政治を行う。即ち、臣下が誠心誠意政治を行えば、それは天皇の意思を表したことになる。つまり、天皇の意思は誰にも知ることができないが、誠心誠意政治をして成果が上がればそれは天皇の意思であったことが証明されるわけであり、天皇が主権を持って政治を行ったと同じことになるというのです。従って、井上毅にとっては、実際に天皇は全く政治にタッチしなくても、憲法の条文上は天皇が主権者でなければならなかったのでした。


この場合、失政は、臣下の心に曇りがあったのが理由となります。天皇陛下がすることに間違いがあってはならないからです。失政があった場合、それは臣下の責任となります。これが「第3条―天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の意味です。神聖不可侵とは、天皇は責任を負わないという意味です。


私は、天皇機関説を調べたことはないのですが、尊王思想の国体論から、虚飾を取り去ったものと考えれば良いのではないでしょうか。「天皇の心が臣下に表れる」を、「理念上は、国政とは全て天皇の御心となっているけれども、実際は臣下が憲法に従って、自分で考えて行動する、天皇は憲法に従ってそれにお墨付きを与える機関である。」というものではなかろうか。


つまり天皇機関説とは国体論のぶっちゃけた話なんですね。今の私達にとってはどうでもいいことなのですが、国体論を信奉する人にとっては、これは許しがたいことでした。今まで見てきたように、尊王思想の天皇像とは架空の存在ですから、虚飾を剥がれたら何も残らないのです。そのため、尊皇家はないものをあると一心に主張しなければならないわけです。


ここまで来れば、尊王家のいう「天皇親政」とは何であるかがお分かりになると思います。心の正しい臣下が、誠心誠意政治を行っている状態です。心正しい者が政治をすれば、それは自動的に天皇の御心にかなっている、といいたいわけです。


となると、ひとたび尊王家が「俺は正しい心の持ち主だ」と信じてしまえば「俺は天皇と同じ心である(→私は天皇であるから何をしても構わない)」と短絡するのは時間の問題でしょう。


● 教育勅語の魔力

教育勅語は明治23(1890)年10月30日に下付されました。これは儒教的徳目を並べ立てただけで、学校に下付された勅語ですから法的拘束力は何もありません。しかし、それに対して敬礼を拒んだ内村鑑三は、一時社会的に抹殺されるところまで追い詰められました。戦争中に、学校で教育勅語が特別な扱いを受けていたのは、良く聞く話です。教育勅語の魔力とは一体なんだったのでしょうか?


これは、憲法制定によって、天皇制も欧米の法制度によって規定されるようになったことに対する、尊王思想からの反論です。天皇の存在の根拠は、儒教的徳目にあることの宣言と言えます。「尊王思想の研究12―国体と忠孝一致の発明」において、天皇と道徳的価値観の一体化が起こったと書きましたが、その「道徳」を改めて宣言したものといえます。


いくら近代化が進んでも、日本人一般が従っていたのは近世以来の伝統的考えです。その中で儒教的徳目は大きなウェートを占めています。それゆえ、日本人は欧米からの借り物の法律と、教育勅語の二者択一を迫られれば、教育勅語を選択せざるを得ません。


近代化によって陰に追いやられてしまった、明治国家のアイデンティティーの根源が教育勅語にあります。従って、教育勅語は不可解な魔力を発揮するのです。