2001/7/14
華夷変態は日本の知識人に衝撃を与えました。それは「中華文明の優等生」であった李朝下の朝鮮にも影響を与えていないはずがありません。李氏朝鮮は建国から朱子学と因縁が深い王朝です。以下にそれをざっと見てみます、参考にした本は「朝鮮王朝社会と儒教」(李泰鎮(イ・テジン)著、六反田豊訳、法政大学出版局)です。
13世紀に農業技術が進歩し、東アジアの社会は大きな変貌を遂げます。宋代の「亜近代」とまで呼ばれる経済発展。そして日本の南北朝・室町・戦国と続く混乱は、その拡大したパイをどう分配するかの問題であったと言えましょう。14世紀の高麗においても同様でした。しかし高麗は封建貴族の支配が続き、新興地主層の政治参加を妨げていました。それに倭寇の活動による混乱が加わります。新興地主層が政治参加を求めたとき、その理論的根拠となったのが朱子学でした。
朱子学では、皇帝の専制、官僚支配、中央集権国家を理想としています。そして、貴族による支配はこれを排します。官僚には、科挙を通れば誰でもなれます。また朱子学の大成者朱熹は理性による政治、農民をいたわる事を主張しました。
高麗の武将李成桂(1335〜1408、李朝の太祖)は倭寇撃退に功績があり、部下に推戴されて1392年に李氏朝鮮(1392〜1910)を開きました。李朝の太祖は朱子学を官学として保護しました。そして強力な中央集権制を敷きます。新興地主層の政治参加を認めた李朝ですが、官人の特権を認めたため、官人による国政の私物化が起きます(戚臣・勲臣の専横)。それに対して、在地の地主層は、士林派を構成し、朱子学を理論的根拠に行動論に立脚した批判活動を行います。16世紀後半(これはほぼ宣祖:在位1567〜1608の治世に相当する)は、これら戚臣・勲臣と士林派の権力闘争の時代でした。
豊臣秀吉による朝鮮侵入に対して、官軍はその無力を露呈し、それに対し士林系の義兵が主力になって国土を守りました。これを契機に士林派が政治の実権を握ります。
朱子学を保護した李朝は、支配層の教化にも力を入れました。そのため官学の郷校が開かれました。しかし、さらに重要なのは私学校である書院でした。白雲洞書院(1542年開設)、陶山書院を始めとして多くの書院が作られます。士林派の政治は地縁と書院の学閥が入り混じったものでした。朱子学を理論的根拠とし、学閥の性格を持った士林派は、朱子学のさらなる導入を目指しました。16〜19世紀の李氏朝鮮における支配者階級の中国的知識は深く、日本の学者の及ぶところではありませんでした。朝鮮通信使が行くところ、日本の学者が殺到し、日本の学者は争って教えを請いました(これは日本側の近世の研究者も指摘していることです)。
また朱子学の本家中国で異民族王朝(清朝)が興ったため、李朝の知識人達は「真の中華思想を我々が伝えなければならない」という使命感に燃えました。
先に挙げた「朝鮮王朝社会と儒教」の著者は否定していますが、やはり儒教というのは経済発展、文化の変化を嫌う思想です。朱子学にあまりにもどっぷり漬かり過ぎたことが、19世紀に朝鮮が危機に対して効果的に行動できなかった大きな原因であることは、私は間違いないと思います。儒教が重視するのは、安居です。社会が安定し、人々は自分の分に甘んじて、やるべきことを果たす、政治は科挙を合格した賢人が行います。一種の哲人政治です、実際の科挙合格者がどこまで哲人であったかはこの際置いておきます。宋代以降の儒学においては、現在ある社会階層内での、身分の流動性は認められます。
李氏朝鮮においては身分は固定化してしまいましたが、宋代以降の中国の身分は非常に流動的でした。科挙官僚になって一財を築いても、たいてい3・4代で没落しました。土地経営や商業で財を成した家は、一族を揚げて科挙合格者を出そうと努力しました。社会の仕組みは固定化したものの、その中での流動性は、中性や近世の日本以上に激しかったのです。清朝や李氏朝鮮が近代化に失敗したのは、社会制度の変更に対する拒否が強かったからでしょう。
士林派はやがて17世紀を通して熾烈な党争を深め、外戚に権力を奪われます。哲学的な議論は決して決着のつかないものですが、それと現実の政治がごちゃ混ぜになってしまった不幸です。宋代や明末の党争もこれに同じです。中国や朝鮮では学問において、どの解釈を正しい学問と決めるかによって、科挙の正解が変わってきます。自分達の学問が正しい学問となれば、それだけ自分と同じ見解を持った人間が科挙で多く合格することになります。これは学閥の力が強くなることを意味します。中国や朝鮮において、学問上の対立が、政治の世界に飛び火してしまうのはこのような理屈です。
朱熹は朋党同士の議論と朋党による政治の独占を肯定しています。これは、経済発展により、政治に参加する人間が増え、政治も複雑になったために、ある程度党派に政治を委ねなければやっていけなくなったことにもよります。しかし党争によって政治は混乱し、李朝は官僚による支配から、勢力を持った一族が実権を握る「勢道政治」に移ります。19世紀末の李太王妃閔妃一族による政治もこれです。