2000/5/23
2001/5/14タイトル変更



古代天皇制 第五章 東北の受難


聖武天皇、称徳天皇の放漫財政、政治的混乱は光仁天皇によって修正され天皇制律令国家は一時的に立ち直ります。広軌天皇の治世には地方政庁の放火の記事が散見 しています、不満は広がっていました。 光仁天皇が行ったのは称徳天皇のときに地方豪族に乱発された爵位の整理(これには俸給がついていて支出減らしの意味があったのではないでしょうか?でもそこまでは調べていません,すみません)仏教界の綱紀粛正、治水工事、飢餓の救済、称徳天皇によって失脚させられた人々の名誉回復などです。


桓武天皇の華々しい治世の裏には光仁天皇の国家建て直しがあったのです。聖武天皇治世あたりから蝦夷征伐が始まります。これは足りなくなった口分田を得るという意味のほかに、国内の矛盾を攻撃性に転化して解消する意味合いもあったのではないでしょうか?


律令制というのは理性の支配です。理性は非理性的な蛮族の存在によって自らを確かめなければいけません。歴代の中華帝国、ローマ帝国、近代ヨーロッパ、大日本帝国、ソ連、アメリカ…。日本人は自らを中華に擬しましたから、蛮族を化さなければならなかった。その生贄となったのが東北の人々でした。


彼らは土地を強制的に収容されて倭人に与えられ彼ら自身は日本全土に分散して強制移住させられました。服属するときの理由は「私達は昔は「日本人」であったのに、蛮風に染まってしまいました、今日から「日本人」に戻ります(私なりに訳して います)」でした。これは「自己否定」であり蝦夷人は存在すら許されなかったのです。スターリンと同じです。そして東北には仏教が布教されました。スペインとポルトガルが中南米でしたことと何ら変わりません。