10/10



平将門の乱


日本史上最も有名な茨城県人とは一体誰でしょうか??


たぶんその答えは平将門ではないかと思います。平将門とは承平・天慶の乱の一方の首謀者として日本史上広く知られていると思います。平氏一族間の争いから次第に国司さらに中央権力と対立し、ついに関東を支配下に収めて自ら新皇と名乗り地方政権を樹立しましたが、やがて平貞盛らによって攻められ没落する、ということが一般的な認識ではないでしょうか。


承平(931−938)と天慶(938−947)は、後世の貴族階級が過去の聖代として称賛した延喜と天歴にはさまれた年号ですが、この事件は当時すでに朝廷の中央集権的機能が衰え全国の治安を維持する能力が失われていた事を示すものであると思われます。


平将門とは桓武平氏の平高望の孫に当たります。父は良持あるいは良将と言われています。桓武天皇から見て五代目の子孫ですから、ちょっと遡れば天皇家にたどり着く貴種の家系というわけです。10世紀前半頃には平氏一族はすでに関東の各地に住み着いて武士化していました。そして将門の父は下総北西部を地盤としていたのです。彼らは未墾地を開発して広大な私営田を経営していました。その結果、ますます勢力を拡張しようとしたのです。


当時の関東平野には、ほとんど手つかずの土地が大量にありました。例えるならばここはイギリスにとってのアメリカのようなものであり、さらに言うならば西部の開拓地のようなものだったのではないかと思います。つまり、関東地方においては人口に比して土地が広大すぎたのではないかと思うのです。灌漑技術の向上によりこの地方における耕地面積も増大しましたので、今度は労働力不足が目立ってきた頃ではないかと考えられます。


つまり、争いの原因となった土地の問題とは、すなわち労働力の奪い合いのことだったと思うのです。一族あるいは近隣の豪族と絶えず争っていたのは、力関係がほとんど拮抗していたからだと思います。そうしているうちに朝廷の地方官である国司との間の利害の対立も次第に激化するようになってきたのでした。


将門は最初は京都で摂政である藤原忠平に仕えていましたが、やがて父の遺領を継ぐことになりました。そして父の兄弟である上総・下総・常陸などにいた伯叔父の良兼・良正・国香らをはじめ、付近の豪族達としばしば争う事になったのです。935年(承平5)に将門が常陸国の武士である源護と戦った時に、敵に味方した伯父の国香を殺してから同族間の争いは激化しました。やがて関東全般を覆う戦乱となり、承平・天慶の乱と言われる事になるのでした。


国香の子供の貞盛は父の死の知らせを受けて京都から戻って来ました。彼は一族を説き伏せる事に成功し、上総の良兼を中心にまとめて将門を討とうとしました。そのため一族の間でたびたび戦闘が行われるようになりました。しかし将門はこれに対抗して奮闘し次第に実力を蓄えて南関東に勢力をふるうようになっていったのです。


939年(天慶2年2月)に将門が武蔵の国司と足立郡司との紛争を調停した時に、将門の行動を誤解した武蔵介源経基が上京して将門を反逆のかどで訴える事件が発生しました。将門は11月には常陸国司に抵抗した藤原玄明(はるあき)を助けて逆に石岡の常陸国府を襲撃しました。将門軍一千人が朝廷軍三千人を敗走させた大事件でした。これは将門の完璧な勝利です。この時に常陸介藤原維幾(これちか)を捕らえた上に略奪、放火までしてしまいしたので反乱が確定する事になりました。


この時の武蔵権介興世王の有名な言が「一国を討つといえども公の責め軽からず。同じくは坂東諸国を奪ってしばらく形勢をうかがわん」です。ただし、この時点で将門に果たして朝廷から政権を奪取する明確な意図があったのかどうかについては不明です。しかし、これによって関東地方において将門の人気がかなり高まった事は容易に想像できます。結果として将門はその言に従った形になりました。12月には関東8カ国と伊豆を平定して自ら新皇と称し、下総の本拠に王城を構えてここに独立の政府を立てることにしたからです。


朝廷ではちょうど藤原純友が西海で再び活動をはじめた知らせを受けたところだったので東西通謀して事を起こしたのではないかと極度に狼狽したようです。朝廷は940年(天慶3年1月)に藤原忠文を征夷大将軍に任命し将門追悼の兵を起こしました。しかし、その追討軍が到着しないうちに(翌2月)平貞盛は下野の豪族藤原秀郷を味方に引き入れて、兵力の手薄になった隙を狙って将門の本拠地の急襲しました。


この奇襲は成功し将門は戦死しました。