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南朝正統論への道


大日本史と光圀は切っても切れない関係にあります。実際のところ光圀の名声の全ては大日本史編纂事業に由来するものだと言っても過言ではありません。大日本史は明暦3年から編纂事業が始まりました。光圀は大日本史を編纂するための史局を考彰館と名付けました。これは「彰考往来」の故事から取ったものです。また、この年は振り袖火事とも言われている明暦の大火があった年でもあります。江戸城にまで飛び火したこの大火事が光圀に歴史資料の保存の必要性を痛感させた可能性もあると思います。


ところで大日本史には三代特筆と呼ばれる特徴がありますが、この中の一つが南朝正統論です。


光圀の行動を見ると兄に対して終生抱いていたであろう負い目を感じ取ることが出来ます。これは光圀の少年時代から晩年に至る間での行動を通して一貫して流れているものだと思われてきます。


光圀の生まれた時代とは下克上の世の中が終わりを告げたばかりの頃にちょうど当たります。私たちは結果として徳川幕府が260年もの長期にわたって続く事を知っていますが、渦中にいた人達にとっては伺い知る事は出来ませんでした。この頃は移行期に当たりますからまだ殺伐とした雰囲気が色濃く残っていたはずです。


歴史の流れとは経済面から理解しようとすれば意外に分かりやすいものです。武士の発生から鎌倉、室町期、戦国時代とその各時代における経済状況の把握が歴史を理解する王道のような気がしています。


家康が示した長男相続とはゼロサム社会への転換そのものでした。これは言い換えれば下克上の否定でもありました。さらに言うならばこれこそがパックス・トクガワと呼ばれる平和を維持する根元でもあったのです。家康が家光を指名したからこそ何十年も続いていた日本全国のお家騒動は急速に終息したのだと思います。これは家康の最大の功績に挙げられるのではないかと思います。


ところが光圀は三男でしたがその家光によって水戸家の後継者に指名されたのです。これは皮肉な結果だと思います。光圀にとってかなり複雑な感情を沸き立たせるものだったと想像出来ます。何故ならば家光の指示により相続人になったという事実は家康の示した相続の王道に背いている事に他ならないからです。だからこそ伯夷伝に借りて水戸家相続は自分にとって本意ではなかったと公に訴える必要があったのではないでしょうか。


光圀にとって家康こそが憧れの人でした。家康こそが王道の実践者であり、その孫である自分が家康の血統を保持していることに対し溢れるばかりの誇りを持っていたのではないかと思います。彼は祖父が作った徳川幕府の屋台骨を背負って立つ気概を持っていたのだと思います。光圀の行動の基本とは家康の偉業の補完をなす事であると規定するととても理解しやすいのではないでしょうか。


水戸学を形成した学者達は尊皇抑覇を唱えましたが、その対象とは鎌倉幕府や室町幕府であり徳川家康については逆に覇王ではなく徳を持って王道をもって統治したとの見解を示しています。これは朝霞淡泊の言にあります。


もう一つの光圀の動機としては世間に名を知らしめたい、という功名心も捨てがたのではないかと思うのです。武士の働き場所とはすなわち戦場ですが、関ヶ原の戦いや両大阪の陣はすでに過去の出来事になっていました。光圀はこの大戦に間に合いませんでした。まだ生まれていなかったのです。これは光圀にとって、あるいは水戸家にとって(どうしようもないにも係わらず)痛恨の出来事ではなかったかと思われる節があります。これが尾張徳川家、紀州徳川家の二家との決定的な違いなのではないでしょうか。


名分論とは徳川家康並びに江戸幕府の統治についてこれを理論的に正当化することを究極の目的としていると考えるべきではないかと思います。


楠の評価について考えてみると、当時豊臣家の人気がかなり高かった事がかなりの影響を及ぼしている様に思います。前統治者の秀吉をストレートに悪く言えないために三成がその代役として選ばれました。そのため三成自身は評価を下げましたが、光圀は三成を正確に評価していたようです。そして三成の忠義こそが江戸幕府が正に求めているものであるとの結論にたどり着いたようなのです。確かに三成は忠義の鏡のような人物です。当時の常識である「利」によって動く武将達とは完璧に一線を画している存在です。三成のような人物こそ徳川家にとって喉から手が出るほど欲しい人物だったのです。そして三成に対抗しうる歴史上の忠義心に溢れた人物を探した結果が楠の再評価だったと思うのです。これは三成のような人物を育成する目的だったものと思われます。


徳川家の血統面からの正統性を押し進めて言った結果が新田の評価に辿り着きました。一方、忠義の面から押し進めて行くと楠の再評価につながりました。これは日本的血統論と朱子学の融合です。このようにして両方面から理論を進めていった結果、南朝正統論へとたどり着いてしまったのではないでしょうか。矛盾するようですがこれは光圀にとっては朝廷に対する挑戦ではありませんでした。光圀は毎朝京都方面に向かって礼をしていたと言われているくらいなのです。


しかしいずれにしてもこのように自らのポジションの正当化を図った事が思わぬ結果を生むとは想像してはいなかったのではないかと想像出来ます。