五月雨のころ・四


 利吉は千倉城へと走った。時間がかかりすぎては意味がない、という以上に、気がせいてならなかった。
 実際に依頼主のいる任務ではないのだから、どこに利不利をもたらすものでもないが、かといって千倉城側に見つかったとき、無事で済む保証はない。いや、「敵」は千倉とは限らない。小国がひしめくこのあたりでは、敵味方の関係は日々変わるといってもよく、また表向きの敵味方がそのまま信じられるわけでもない。だからこそ忍者が暗躍する余地があるわけなのだが、いつどこでどんな忍者がうごめいているかわからない。たとえ千倉の手の者でなくても見つかったら命が危ない。
 だが、そんな状況を利吉は怖いと思ったことはなかった。むろん、緊張する。神経が極限までぴりぴりと張りつめられる。利吉にとってそれは不安や恐怖を駆り立てるものではなく、興奮を誘うといってよい種類のものだった。
 慎重に、しかし急ぎに急いで利吉は走った。そしてもう少し、というところで千倉軍がすでに出陣したことを知った。利吉が今来たこの方向へ向かってくるのがわかったのだ。
 となると向かう先は知れている。利吉はさらに慎重に、今度は少しゆっくりと来た道を戻った。地に伏せ、藪に身を隠し。通過する千倉軍を定点観測し、まずは軍勢を把握することにしたのだ。
 自分は身を隠しながら道行く軍を見るのにちょうど良いポイントがあったことを、利吉はちゃんとチェックしてきていた。そこへ先回りすると、ほとんど待つ間もなく千倉軍がやってきた。
 槍隊がおよそどれほど、弓隊がどれほど、鉄砲があるかないか、荷駄がどれぐらいと、通過する軍を見ながら次々と把握していく。そしてそれをすぐ書きとめるような愚かなことはしない。頭にたたきこんでいくのだ。不安なところは記憶の助けとして地面に記号を書いていく。軍勢がすっかり通り過ぎた後、利吉はそれをじっと見つめて、再度すべてを記憶し直してからそれを足で消した。それから利吉は千倉の軍を追った。
 戦場に着いてからの布陣を調べる必要があったからだ。それには今まで以上の危険が伴う。といって遠すぎる位置からおそるおそる伺っているだけではとても依頼主を満足させるような仕事はできない。さらに、利吉は半助が最後に軽く付け加えた言葉をしっかり胸に納めていた。「できれば本陣の位置もね」。
 できなければしょうがないからいいよ、と受け取れば取れないことはない言い方だった。だが、それができるかできないかで実は忍者の評価が大きく変わってくるのだということを利吉は知っていた。絶対に、本陣の位置を正確に調べていくつもりだった。
 翌日、千倉軍は今回の戦の相手である石蕗城からほど近いところで行軍を止め、兵を展開した。利吉はその周りを注意深くぐるりと一周し、当たりをつけるともう少し近づいて確認できる場所を探した。だがさすがに本陣は、容易に入り込んで確認できるところにいてくれるわけではない。利吉は背の高い藪に身を潜めながらそろそろと前進した。もう少し。あそこで間違いない。でもあとちょっとだけ……。
 かさり……。利吉の背後でかすかな音がした。それはバッタが跳ねてもするのではないかと思うような、本当にわずかな音だったが、利吉はその瞬間心臓が止まるかと思った。さっと振り返ったが何も見えない。すぐに苦無を構え、そのまま身を伏せ、動きを止める。さっきは止まりかけた心臓が、今度はやけに大きな音をたてて脈打っているような気がする。もちろん外に音として聞こえるわけがない。だが、相手が熟練した忍者ならば、そうした鼓動が気配となって伝わってしまう。利吉は必死に冷静さを取り戻し、動きだけでなく、呼吸さえ抑える。先ほど音がした方向からはもう何の音もなく、気配も感じられない。かといってうかつに近づくわけにはいかない。緊張が続かなくなったほうが負けだ。利吉は自分に言い聞かせ、気の遠くなりそうな時間に耐えた。
 どれほどの時間がたったか正確には分からない。ふと、利吉は周囲になんの気配もないことに気がついた。それは、相手の技量が優れているために気配を「感じられない」のではなく、確かに「ない」のだという確信だった。
 それでも念のため、利吉は苦無を握りしめたまま、そっと立ち上がって先ほど音のした辺りまで歩み寄った。誰もいない。利吉は少しほっとして、再度周囲を見回し様子を伺った。大丈夫だ。本当に誰もいない。さっきはただの音ではない、誰かがいるのだと思ったのだが。相手が自分に気づかなかったか、あるいは自分に関係ない任務だったため、睨み合いの必要性を感じずそっと立ち去ったか……。いや、もしかしたら元々人間などいなかったのかもしれない……。
 いつまでもここにぐずぐずしていてもしょうがない、と利吉は再度動くことにしたが、自分に都合のいい解釈だけをするという愚は冒さなかった。それ以上千倉軍に近づこうとはせず、十分に安全な距離を保った。そして必要な情報を得たと判断すると、さらに慎重に戦場を離れた。
 帰りを急ぎながら、頭の中で叩き込んだ情報を復唱する。
 石蕗の数的劣勢はどうしようもないだろう。奇襲が効く地形でもないし、すでにそのチャンスは時間的に失われてしまった。あとはどれだけ持ちこたえるかだけだ。自分が城主ならば、無駄な血を流す前にさっさと降伏するものを……。それとも、たとえ一厘の可能性であっても、勝利の道を探るのが上に立つ者の責任なのだろうか。そのために自分のような忍びを使うのだろうか。先日の母親の言葉にでも影響されたのか、利吉は日頃疑問にも思わなかったことをあれこれと思い巡らせた。
 もし、石蕗にまだ勝機があるとすれば……。そこまで考えたとき、ふと利吉は足を止めて、すでに背後にかなり離れた戦場を振り返った。本陣の位置……。もしかしたら……?


 その日の夜には、利吉は半助の前にかなり正確にして詳細な地図を広げていた。千倉軍がどの位置に何をどれほど配置しているか。
「すごいね」
 半助はシンプルに感嘆と賞賛の声を上げた。
「本陣はここだね」
全体の勢力分布は飛ばして、半助は利吉の描いた地図の一点を指さした。やはりそうか。利吉は自分の判断に満足した。
「随分と周囲の地形をしっかりと描き込んであるね」
それは褒め言葉というより、何か探るような調子だった。利吉は待ってましたとばかり、用意しておいた答えをすらすらと述べた。
「もし石蕗が起死回生を狙うとしたら、千倉の城主を暗殺することだと思います。狙撃するとしたら、そうでなくても周囲の地形をできるだけ細かい点まで把握できたほうがいいのではないかと考えました」
「素晴らしい洞察力だね」
 半助が心底感心したような声を出した。そしてその笑顔のまま、
「だけど……」
と再び地図に目を落とした。
「けど?」
「千倉のほうもそれを予測していたとしたらどうかな」
利吉の顔から、満足感にあふれた表情がすっと消えた。まさか、と身を乗り出して自分の地図を確認するように覗き込む。
「ここ」
半助の指がある一点を指した。
「いわば三番隊に当たるんだけどね。他の隊と比べて弓勢のバランスがちょっとおかしくないかな」
 自分が調べて書き込んだ数字にほぼ間違いはない、と思う。だがその数字の意味するところまでは考えが至らなかった。ということは……。利吉は半助の顔を見上げた。
「うん。そっちは囮。総大将はこっちにいた」
 利吉は返す言葉もなく、唇をぎりりと噛んだ。
「でも本当に素晴らしいね、君は。正直ここまでやるとは思わなかったよ。山田殿もきっと満足されるだろうね。あ、お世辞じゃないよ。本当だよ」
悔しげな利吉を必死でフォローするように半助は言ったが、父が満足するはずもないことを利吉は知っていた。まんまと囮にひっかかるとは! それを見抜くために忍びがいるのであろうが、この未熟者め! 父の雷が頭の中で鳴り響いたような気がした。
 もう夜遅いからここに泊まっていってはどうかという半助と翠庵の勧めを、母が心配しているだろうからと固持し、利吉は家路についた。
 総大将はこっちにいた、と断言したということは、半助もきっとあの場に行ったのだ。同じ場所で同じものを見たのに、自分は気づかずに半助には気づいたことがある。これがプロとの違いということなのだろうか。
 真面目に反省しているうちに、ふと利吉は思い当たった。もしかして、あのとき背後でしたかすかな物音は半助だったのではないだろうか。自分が本陣(の囮)に近づこうと警戒心を忘れかけていたことを警告するためだったのではないだろうか。
 のほほんとしているようでも、やはりあの人は父が見込んだプロの忍者だったのだ。ようやく利吉もそれを認めざるをえなくなっていた。



 一方半助は、伝蔵に利吉の作成した地図に添える報告書を深夜までかかってしたためていた。利吉の様子のみならず、どういうわけか半助の行動についてもできるだけ詳細に報告するように求められていた。一度、利吉が千倉の忍びに見つかったとき、すぐさま半助がそれを抑え込んだのだが、あやうく利吉に気づかれそうになったことも正直に書いた。
 このレポートに対し、敵の忍者を排除するタイミングが早すぎた。もう少し利吉自身に対処させるべきだった。甘すぎる、というやや厳しい伝蔵からの講評を半助はいただく羽目になるのだが、それはまた後日の話である。   




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