土井先生の過去について 気になるワケ 今となってはよーっく知られた 「瀬戸内の地方豪族の出身。子供の頃闇討ちにあい、家族を失った。」 ってやつは、とあるファンイベントで突然尼子先生が語りだし、またたくまに全国の土井ファンに広まった設定でございます。 それまで土井先生の過去については、それぞれの同人さんがさまざまな説を書いていらっしゃって、それぞれに面白いものでありました。 が、この尼子先生ご自身による設定は、そのどれをも上回る劇的なものでありました。 土井先生の過去話本を出していた同人さん方がまっつぁおになったのは言うまでもありません。 ところで私はと言えば、同人活動もしていなければホームページなど思いもよらなかった頃のこと。それでも一応やはり土井先生の過去について思うことがありました。 もちろん「落乱」はギャグマンガであり、サザエさんのように時間は戻りも進みもしない世界。 にもかかわらず、登場人物の、とりわけ大好きなキャラクターである土井先生の過去が気になってしまうのは、好きな人のことは知りたいという単純な動機と、「落乱」が単なるギャグマンガを超えた深みのある作品だからでもあると思っています。 もうひとつ大きな理由として、とりわけ土井先生については、主要な登場人物の中ではいちばん謎多き人物だということも挙げられます。 「主要な」をどこまでの範囲とするかは難しいところですが、乱・きり・しんの3人組と山田・土井の両先生がやはり基本中の基本でしょう。 この中で土井先生のみが、家族のことも何もふれられていないことにふと気づいたのです。 もっとも山田先生についても過去のことはほとんど分かりません。それでも戦忍びをしていた、という情報はあります。土井先生についてはそれさえも何も示唆されていません。そして、山田先生は今の家族のことは出てきますが、土井先生はそういうプライベートな部分が何もないのです。 休みの時もきり丸を引き取っていることで、完全なプライベートな時間とは言いがたいようです。 それに、「きり丸を引き取ったりして、休みに実家に帰らなくてもいいのだろうか」という疑問がふと頭をよぎったのです。実家から何か送ってくるとか、実家に仕送りをするとか、そういう気配が何もないのです。 それはもちろん、ギャグまんがである「落乱」に必要無いからとは分かっていましたが、ほかのキャラについては今述べたように多少はそういう要素が出てくるにもかかわらず、土井先生だけはまるで皆無であるという点が、ある時期から気になっていました。 あずきごはん様的土井先生の過去第1段 やはり気になるのは私だけではないようで、数多くの土井先生ファンの同人様が、それぞれの物語りを書かれていたのは先ほども述べたとおり。 もちろん私が実際に読むことができたものはその中のほんのわずかではありますが、「日ノ出屋本舗」のあずきごはん様の書かれたものは、中でも出色でした。 なんと、彼の出自はある大名の息子、というのですから。わけあって父親のもとでは育てられず、母親によって忍者として育ったが、その母親とも子供のころに死に別れ、ということですが、尼子先生の発言のある前の話ですから、当たらずども遠からずと言ってよいのではないでしょうか。たいへんな洞察力であります。 実際にお読みになられた方もいらっしゃる思いますが、とてもレベルの高い本なので、どこかで手に入ることがありましたら『半天の月』を御一読ください。 私的土井先生の過去大はずれ さて、私はといえば、冒頭に述べたような理由から、親との縁の薄いという点ではあずきごはん様との共通点はありましたが、そこまでの想像力がないものですから、普通に忍者の家系だと思っていました。親の職業と同じ道を進むのが普通だったでしょうから、という理由もあります。 ただ、言葉遣いの丁寧さや婦人に対する紳士的な態度から、けっこういい家の育ちなのではないかと思っていました。そんなところから、土井先生の父上はある城の忍者部隊の首領の家柄、という設定にしました。稗田八方菜みたい、というとちょっと幻滅ですが、そういう立場だと。 そしてもう一つ、これも多くの方が感じていらっしゃることのようですが、土井先生は人を殺めたことがある、ということです。それはなぜそう感じるのか私も分かりません。原作のどこからそのように感じるのか、説明できないのです。にもかかわらず、そう思えて仕方ないのです。それもおそらくはごく若いころ、少年のころにあったのではないかと思いました。 家族構成は、あの面倒見の良さから下に弟か妹がいたのではないか。愛情いっぱいに受けて育ったような気がするから、母親は忍者の娘だがくの一ではなく、とても優しい。そしてなんとなく、くの一として城で奥方なんかに仕えているお姉さんが一人。長男、ていう感じなんですよね。次男に見られがちな奔放さがあまりないような気がするので。 以上のことから考えた話というのは、半助が忍者の学校に行っていて、あと1年とか半年で卒業というころ、半助の町が敵に急襲された。情報戦に負け、城の軍は誘い出されてしまっていた。 半助は先生たちの制止を振り切って町に戻るが、あと一歩遅く、目の前で弟と母親を斬られてしまう。逆上した半助は、その侍を斬り捨ててしまう。これが人を殺した最初の経験。 城の軍は、誘い出されたことに気づいてすぐ戻ってきたため、城下に被害は出たものの、城は乗っ取られずに済んだ。 敵を追い出し、落ち着いてからようやく父と姉が家に帰ると、半助が一人、母と弟の遺体に付き添っていた。 半助は目の前で愛する母と弟を殺されたショックと、父が忍者の首領でありながら偽の情報におびき出されたこと、家族を守ってやれなかったことに怒りを感じ、跡を継ぐのは嫌だと言い出して、卒業後、家を出てしまう。 忍者部隊首領の家の跡取りでありながら勝手なことをした半助に父親も、ならば二度と帰ってくるなと言い渡す。 父のつらさもわからないでもなく、また、息子の悲しさが分からないでもなかったが、どうしようもない父と子だった。 土井家の跡は、姉が結婚した相手が婿養子に入ってくれた。 半助も姉にはこっそりたまに連絡を入れているが、義兄への遠慮もあって、よけいに家には寄り付かない。 でもいつか、きり丸を一緒に連れて帰って、雪溶けが、なんてことまで考えていたのですが、大はずれ。ちなみに、物語り部屋の「お伽話をさがして」を書いていたころはこの設定だったため、半助さん、やけに忍者の誇り持ってます。 終わりのほうにちらと弟のこと言ってますが、それもこの話。ほんとはもっとしゃべってたんだけど、今となってはカットでございます。しかも、「弟」発言さえもまずいことに……。 尼子先生爆弾発言 さて、その「お伽話をさがして」を書き終えたころの話です。 古い同人誌を調べたら1996年の3月9日のことのようであります。 落乱ファンの集いの席でキャラの裏情報みたいな話をしていて、いきなり尼子先生が土井先生のプロフィールを語り出したとのこと。 それが「瀬戸内の豪族の出身で……」ってやつであります。 この話はあっというまに全国の土井ファンに広まったわけですが、当時伝わった話では、家族を失ったということで一家離散したという可能性のあるもの、いや、家族はみんな死んだ、というのと2通りあったのです。 この時、家族構成については何もおっしゃっていないようです。 そしてこの時、ほかにも非常に重要な情報を与えてくださっていたのですが、そちらの話はなぜかあまり広まらなかったと思われます。少なくとも私は、複数の同人誌で「豪族」話は読んだのですが、そのあと尼子先生が話されたことは見かけなかったのです。あるいは気にかけず、見落としたのかもしれません。ちょっと難しげな話だったと思われますので。 あずきごはん様的土井先生の過去ふたたび さて、前述のあずきごはん様的土井先生の過去話は、『半天の月』1册でなく、数冊の本にまたがって、シリーズとして描かれていました。それが完結する前に、尼子先生の話があったわけですが、 あずきごはん様は、一応そのシリーズを完結させてくださいました。設定が明らかになった今読み直してみても面白いという、完成度の高いものです。 が、さすがにあずきごはん様、尼子先生の話を基にした土井半助ストーリーを再び描き始めてくださいました。2003年6月現在、まだ完結をみていませんが、切に切に続きを待ち望んでいるのです。 話がそれましたが、この土井先生過去話第2弾は「日ノ出屋本舗」発行『せんぺんばんか』に始まっておりますが、その中の、とりわけ注目すべき点についてのみ、幾つか挙げさせていただきます。ほかにももしかしたら注目しなければならない点があるのかもしれませんが、私読解力では分からないのです。 注目すべき点というのも、最近分かったことです。 まず、半助の父の名は「時国」といい、人格者であった。 闇討ちした仇の名は「定明」という。 時国は最後の力を振り絞って定明に弓を放ち、それが定明の額に命中するが、力つきて炎の中に消える。 死ぬ前に時国は半助に、仇を討とうなどと思ってはならぬと言い遺す。 あとがきによれば、このころの半助くんは8歳から少し上を考えているとのこと。 そして、そのあとがきには、実はたいへん重要な情報が含まれてはいたのですが、土井先生の過去との関係が明示されていなかったため、当時は記憶に残らなかったのです。最近読み直してみて、「書いてあるじゃん!」て感じだったんですね。 土井先生の出生地 さて、月日は流れ、2003年5月のことであります。 私の落乱への愛はいまだ冷めることなく、ホームページなんぞ作って1年がたとうとしていたころのことでございます。 ネット上でお知り合いになれた「birdking's Website(閉鎖)」の紅葉様から貴重な情報が入ることとなりました。 というのも、その5月にラジオ出演なさっていた尼子先生に、紅葉様が電話で質問をするというチャンスがあったとのことなのです。 その時に紅葉様が聞いてくださったことから、まず土井先生の生まれ故郷は今の神戸市の福原というところあたり、ということが分かりました。 「瀬戸内」というと、もっと西のほう、山陽あたりを想像していただけに、これはちょっと意外でした。もっとも原作で土井先生は「関西人」と言われているので、神戸ならたしかに「関西」であり「瀬戸内」に面しているわけです。 福原というのは歓楽街で有名なようです。戦国時代どうだったのかは分かりませんが、少なくともやはり多少都会だったのではないかと推察されます。ただ、そのあたり、というだけなので、土井の領内に歓楽街があったと結論づけることはできなさそうです。 ちなみに、今土井先生が住んでいるところは京都だそうで、そうすると洛中ということでないにしても、私が書いた「撤退」はとんでもないことかもしれない。京に手を出すなんて……。それに「都でも人気」みたいなセリフがあって、これはもちろん場所が京ではないことが前提となっていたわけで。ああ、私って駄目駄目じゃん。 法然上人 「あ・・、そうそう、尼子先生が言ってましたけど・・ 『法然のことを調べれば、だいたい土井先生の過去が分かります。』」 このびっくりするような貴重な情報が先の紅葉さまからもたらされたのは、2003年5月21日のことでした。 法然上人。そうなのか。はっきり言って名前しか知らない。 てなわけで、ものぐさ鵜飼舟、図書館に行かず、手っ取り早くとりあえずネットで検索してみる。 そして、法然が誕生したといわれる誕生寺のホームページにヒット。 土井先生にかかわると思われることだけ抜き書きしてみます。 法然上人は、1133年、美作国久米南条稲岡庄(みまさかのくにくめなんじょういなおかのしょう)に誕生した。 美作ですから岡山県です。いかにも瀬戸内という感じがします。が、土井先生の出生地は先に述べましたとおり、あくまで神戸です。 父は久米押領使(おうりょうし:この地方の監督)漆間時国(うるまときくに)、母は秦氏(はたうじ)という。 時国公夫婦には子供がなかったので観音さまに一心込めて子の授からんことを願い、やがて四月七日玉のような男の子を賜った。 土井先生は射手座ということですから、これも違いますね。 こうした待望のひとり児は勢至丸と名付けられ健やかに成長していった。 尼子先生によれば、土井先生は「いまのところ兄弟はいない」ということです。「いまのところ」というのは、今のところの先生のお考えではということだと思いますが、法然上人が一粒種ですから、そういう理由もあるのかもしれません。 1141年の春、漆間家は突然、明石源内武者定明(あかしげんないむしゃさだあきら)の夜襲を受けた。 法然、いや勢至丸満8歳ということになります。数えで9歳とかでしょうか。あずきごはん様の設定はここから来ていたわけですね。 定明は稲岡庄の預所(あずかり)であったが、押領使時国の人望を妬み(水引きのことでもめていたとする説もあり)それが夜討ちに及んだのである。 あずきごはん様の話でも、お父上は人望のある人として描かれていました。というか、多くのサイト様の過去話でもやはりそういう感じが多いですね。知ってか知らずか、まあ、土井先生のあの性格見たら、親も人格者だったという気はしますね。 九歳の勢至丸は小弓を以て敵将定明を射る。右目を射られた定明は配下と共に引き上げたが あずきごはん様の設定では時国自らが弓を射たことになっていますが、勢至丸が射たといういい伝えのようです。相手は死んでいませんが、ここから想像するに、やはり土井先生、幼い頃からけっこう修羅場くぐってきてるような気がします。ちなみに、あずきごはん様の半助くん、逃げる時に家臣を守るために敵一人刺してます。 父時国公は再び起つことのできぬ重傷で臨終に際して勢至丸に仇として定明を追うこといましめました。仇を討てば、また定明の子が勢至丸恨み、仇を討とうとするであろうからと。それより「仏道を歩み、安らぎの世を求めよ。」と遺言されて四十三歳の人生を終えた。 さて、ここが問題。父親はいつ亡くなったのか。夜襲から多少の日が経ってからのような印象を受けます。あずきごはん様の設定ではその夜に劫火の中に没しておられ、私もなんとなくその場でというほうが劇的な感じがします。物語部屋の「雪」で、山田先生が土井先生の家族は火の中で亡くなったと言っているのはこの話からきています。ただし、もちろん「仏道を歩み」の部分はカット。だって忍者になるんだからね。 そして母親はこの闇討ちを生き延び、勢至丸は母親の弟の坊さんに引き取られます。 たいへん優秀であったため、その坊さんが比叡山に登ることを勧め、勢至丸はその前にと母親に久しぶりに再会します。母は、やっと再会したわが子が比叡山に入ることを悲しんで、やがて亡くなってしまいます。勢至丸15歳の時のことだそうです。(13歳説もあり) 土井先生の母親は、夜襲を受けた時に亡くなったのか、やはりその後しばらく生きておられたのか分かりません。私としては、やはり父親と同じに亡くなったというほうが劇的な気がしますし、尼子先生は「その後(家族をなくした後)忍術を教えてくれる人に出会い」と言っておられた(1996年当時)とのことなので、15歳からでは忍者の修業を始めるのは遅いと思います。それに母親が生きていたなら、土井先生のことだから、忍者の修業するより母親のために一所懸命働いていそうな気がします。 ちゃんと書いてあったりする これが分かって、あわてて久しぶりに「日ノ出屋本舗」発行『せんぺんばんか』を開く私。あずきごはん様のこと、きっとどこかに父親の名前の由来等が書いてあるに違いない。 あったんですね。しっかりと。先に述べた、あとがきに含まれていた重要な情報とはこれだったのです。しかし、直接的な書き方ではなかったんです。 父上の言葉は「法然上人絵巻」をモデルとさせていただいた、と。 尼子先生にお話いただいたところだ、と。 でもこれだけなので、尼子先生が興味がおありの人物の話で、それをあずきごはん様がここにもってきたというようにしか受け取らなかったんですね、私。考えてみればそのあとに、「半助くんが出家しなくてよかった」と書かれているので、そこにもうちょっとひっかかりを感じるべきでした。 ひっかかって質問すれば、あずきごはん様、教えてくださったでしょうに。 ついでに暴露 知っている人も知らない人もいると思うが、昔の同人誌から得られた情報を改めてここに簡単に書き出してみる。 滝夜叉丸の姓は「平」。 尼子先生がこのファンとのつどいの場でぱっと付けたらしいのですが、案外前から考えてらしたのかもしれません。 しんべエはおなら話の絵巻物から付けられたらしい。カワイソ。 山田先生は語呂が良かったとか。でもほかに何か裏があるのではと勘ぐってしまいます。 利吉のモデルは「七人の侍」(映画だよね?)に出てくる農民の青年だそうだよ。 土井先生の家というか、土井先生ときり丸が住んでる街並のモデルは、福井県一乗谷朝倉氏遺跡復元街並にあるそうな。まさに落乱の世界が実物大で広がっているらしい。ただ、当時のトイレには戸がなかったもよう。落乱ではあるよね。さすがにそのままでは朝小に載せられない気もするし。 余談ですが、この時、土井先生は経験はあるか(アレの)と聞かれて、尼子先生、想像にお任せしますが、あの年で何もないというのも不自然でしょうと言われたそうな。まあそりゃそうだ。 押領使についての補足 押領使というのはもともとは戦乱が起こった時に、兵士を管理統率するために臨時に任命される役職だったそうです。 後に全国に置かれるようになり、盗みや狼藉を働く者を逮捕したり争いを鎮圧する役になったそうです。 かなりの権力がないと勤まらないため、だいたいはその地方の有力な豪族が任命されたということです。 時国の家は美作の三大豪族の一門といわれていたそうです。土井家は場所も違うし、押領使だったかどうかも分からないのですが、モデルということを考えると、やはりかなりの権力を持っていたと考えてよいかもしれません。 それから、時国の仇明石氏の一門美作明石氏が戦国時代にろう城する「尼子再興軍」討伐に出たという記録もあり。 尼子氏については、名前しか知らないのでいきさつがよく分かりませんが、これから調べていきたいと思います。 時国の家系の補足 「漆間」姓を名乗ったのは時国より4代前の盛栄という人が最初のようです。この盛栄は漆島元邦という人の次男で、この元邦が延喜年間(10世紀初頭)に美作に来たそうです。さてこの漆島の家は、なんと大分県宇佐八幡宮(全国の八幡宮の総本宮)で権大宮司を世襲した家系なのです。神社の宮司の家から坊さんが出たわけですね。 漆間と土井は別!と思えど、土井先生の家系をたどっていくととんでもないところに行きつきそうで怖いです。 残された謎と新たな疑問 さて、土井先生の過去について、まだ詳細は分からない点はあるのですが、それをではすべて知りたいか、と言われると、それもまた複雑なところです。 何から何まで分かってしまったら、想像(妄想?)を働かせる余地というものがなくなるわけです。 それに、どこか謎が残ってる土井先生のほうが魅力的な気がします。 でも、もしさらにいろいろなことが分かるなら、聞きたくないかと言われればとんでもないのでありまして、どんな小さなことでも好きな人のことは知りたいと思う複雑な(歪んだ?)ファン心理です。 残った謎のいくつかをここでちょっと考えてみたいと思います。 その1 土井先生に忍術を教えた人 また聞きなので、尼子先生が実際どのような言い方をしたかというのは正確に分かりませんが、 たしか、闇討ちにあって家族を失った後、忍術を教えてくれる人に出会い、というように私は聞きました(つか、読みました)。 この言い方から、土井先生が忍術を学んだのは学校のようなところではなく、一子相伝のような本来の形か、あるいは数人の弟子程度の規模ではないかと推察されます。 そして、その人物は多分山田先生ではないでしょう。 尼子先生がその話をされる前、土井先生が忍術学園の出身だとか、山田先生が恩師だとかいう設定はいっぱいあって、私はけっこう好きでした。でも、尼子先生の言い方と(しつこいようですがまた聞きです)、山田先生はおそらく利吉をあれだけに育てるのに手一杯だったのではないかという気がするのです。 さらに、原作で土井先生は山田先生のことを、どのような場面でも「山田先生」としか呼ばないのですね。山田先生のほうは「半助」と呼んだりして、プライベートでも仲が良いことを伺わせます。それで、自分が教わった先生に再会した時のようなことを想像してみてください。単に「先生」と呼んで話し掛けることが多いと思われませんか? ですから、もし山田先生が土井先生の師匠なら、「半助」「先生」(あるいは師匠とか)と呼び合うことがあってもよさそうなものですが、そういったことは33巻現在まで一度もありません。(正確にチェックしたわけではないので、もしかしてあるかもしれません。見つけた方、知らせてください) また、そうであれば土井先生は利吉の兄弟子になるわけですから、この辺の呼び方も「土井先生」以外にあってよさそうなものですが、それもありません。 ちなみに、利吉がなぜ土井先生を「土井先生」と呼ぶか、あずきごはん様の『終夜』という作品の中ではまた面白い設定がありまして、早くその辺のいきさつを詳しく読みたいものです。 ヒントとしては、上に書いた呼び方の件ですが、6巻で利吉は山田先生を通さず直接土井先生に助力を頼んでいる上、単に「先生」と呼び掛けています。それも何度も。その点からも、土井先生と利吉は単に「父の同僚」「同僚の息子」という関係だけではないことは、単なる妄想ではないと思うのですが。 その2 忍術学園に来る前に何をしていたのか そしてなぜ、教師になったのか これについては、実はどこかのサイトでちらと裏情報を見たことがあるのです。 でも、その方も書いていたように、出所が明らかでなく、またほかのサイトでは見かけない情報で、私はそこの管理人様と親しくもないので公表は差し控えます。 身体的事情、とのみ書いておきます。 そのへんの情報をご存じの方がいらっしゃいましたら教えていただければ有り難いです。 このところ落乱には、修業を終えたばかりの若い忍者が職を求めて学園に来たりしますが、私としては学園の先生方はそれなりに実戦経験のある人ばかりでいてほしいのです。 それに、アニメではともかく、原作の土井先生はとにかく肝がすわっているのです。 また、一子相伝、あるいは少人数での修業であれば、おそらく優秀だったに違いない土井先生は学園の6年生が卒業する年齢より早く社会に出ていた可能性もあります。 尼子先生いわく、最も忍者に向かないタイプの性格らしいですが、以上の理由から、きっちり実戦経験ありと見ます。 ただ、山田先生のような戦忍びであったとは限らないので、本来の忍者らしく情報戦にかかわっていたか、裏で画策する役とかが似合いそうな気もしています。まさか暗殺とか!? もありかもと一方では思うのですけども。 その3 なぜ独身? 25歳で独身というのは、男だとしてもこのころにしたら遅いのではないか? 今は乱太郎たちのことに手一杯で結婚どころではないとのことですが、それ以前に独身というのが不思議なわけですよね。 いや、結婚してほしいわけでは決してないのですが。 しかし、尼子先生の言葉からも女性経験はあると考えて間違いないでしょう。 あずきごはん様は原作の別の視点からも、その可能性を書いておられます。その点は私も若干調べたことがあるので、いずれ掲載したいと思います。 原作の土井先生は、子供達がちょっと艶っぽいはやり歌を歌っただけで顔を赤らめてたしなめるような性格です。それに女性に対する敬意も心得ているようです。まじめで優しいですし、お遊びで女性と付き合えるとは思えません。 通過儀礼として、恋愛関係にない女性との関係はあったかもしれませんが、基本的には付き合った人がいるなら、まじめに結婚を考えても不思議ではないと思います。 なのに結婚していないとはどういうことか。 やはりなんとなく悲恋に匂いがしてしまいますね。 単にふられただけか?(ああ、それもすごくありそう) 私は土井先生なら、その人を守り切れる自信がないなら結婚しないとか考えていそうな気がします。あるいは自分の経験から、幼い子供を残して自分が死んだら子供がかわいそうだから、とか。 もしかしたらすっごくくだらない理由かもしれませんね。戸部先生の向こう傷みたいに。 その4 なぜ土井先生か? なんじゃ、そりゃ、みたいな見出しですが、言いたいのは、法然をモデルとしたキャラがなぜ土井先生なのかということなのです。どこか達観したところのある学園長とか山田先生ではなく、なぜ若い土井先生なのでしょう。 土井先生の人気ぶりを見てそうされたのか、最初からそのつもりだったのか、あるいはまた別の思惑があったのか。 土井先生の過去の細かいところまですべて知りたいわけでなくても、この点についてはすごく知りたいです。 それにしても、土井先生のファンの間では「執着心がなさすぎる」とか「浮き世離れしている」といった声もあったわけですが、法然がモデルということはそれも当たっていたと言えるわけですね。皆さんの洞察力に敬服です。 以上2003年6月8日現在。この先何らかの情報が加われば加筆修正していくつもりです。 2003年6月9日、「月の森」の氷輪さまより情報をいただきました。「そうそう、土井先生の過去といえば。 某情報交換系サイトさまで「土井先生のお父上は闇討ちにあった炎に包まれた館の中で自害した」というのを目にしたことが有ります。また、土井先生の現在の家は洛中洛外図屏風を参考にしているのだという話も載っていました。 出身地である福原は、平清盛が遷都したところらしいです。 すべて「子供夢質問箱」のラジオでの情報らしいですが・・・」 ありがとうございました。疑問の一つが解けました。お父上はやはりその時に亡くなられたのですね。 それに福原も、色町以外の見どころがあってよかったー(笑)。 清盛が遷都したのは反清盛の気運が高まってからのことで、強引に遷都したため評判が悪く、半年ぐらいで京に戻ったらしいです。 福原あたりには以前から清盛の別荘なんかがあったらしいですね。また、神戸港の前身である「大輪田泊(おおわだのとまり)」(言われてみれば聞いたことありますよね)という港があり、そこを拠点に宋と貿易をして儲けていたらしいです。 平家が敗走する時福原の都を焼いていったとのことなので、戦国時代にどれだけ栄えていたのかは分かりませんが、良い港に恵まれ、そのような由緒もあるわけですから、けっこう裕福だったのではないでしょうか。 「洛中洛外図屏風」は、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)のホームページの以下のアドレスからご覧になれます。面白いですよ。 http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/rakutyuu/mokuzi.html 2003年6月17日 「くっくび、ばあちゃん くびしめないで!」 7巻92ページに出てきたこのシーン、上記でふれた(落乱感想にもちょっと書いてありますが)、あずきごはん様が「土井先生に女がいた」(とは書いてありませんでしたが)と思われると指摘されている部分なのですね。 おんぶということ自体、宗教的意味だったり異世界との交流だったり、い ろんな意味が関係していたらしいのですが、まあその辺はカット。 土井先生に関係するところだけ資料から抜粋しますと、中世において、男性が女性を おんぶするというのはよくあったらしく、絵巻物などに見られるようです。一種の フェミニズムの表現だったようで、上に出ている「洛中洛外図屏風」の中にも 見られるとか。 で、このコマの土井先生のおんぶの仕方を見てください。刀を支えとして、そこにば あちゃんを乗せてますね。これは普通のおんぶの仕方だったそうです。絵巻物にも刀 を支えとしているものがあり、ただの棒を使う場合もあったとのことです。 この背負い方、資料には「一種の身体的な技術・能力」と書いてあるのですが、実際 やってみると女を棒や刀にのせる姿勢をとらせ、さらに一定の距離を走る(土井先生 は歩いてますけど)というのは慣れていなければできない、ということが分かるらし いのです。 多分、「慣れて」いないからばあちゃんが土井先生の首しめることになったのでしょ うけれど、土井先生のほうはちゃんとおんぶしてるわけですよ。ね? てことは、以前に女性をおんぶしたことがあるんじゃん? 当然、だれかれかまわず他人の女をおんぶするわけはないのです。絵巻物の中でも 男と女の庶民的な身体的情愛を最も強く感じさせる場面として描かれているらしい。それに、女性が三途の川を渡る時は、その女性の「開」に初めて触れた男に背負わせると書いてある経文もあるくらいだから、背負うということと男と女の関係は切っても切れないものなわけで。 ということは……? いや、でもそれぐらいのことできないと忍者としていざという時困るかもしれないか ら、一般的技能として習ったのかもしれませんね。 |