「暑気中り」
「忍者が夏バテしてどうする、情けない」
枕元に座して、伝蔵が溜息交じりに呟いた。 「すみません……」 薄い布団の中で、半助が首を竦めながらうめいた。 「どうせ、この休み中イナゴ入りの雑炊しか食っとらんのだろ」 「まあ、そんなところです」 「……やはりな。とりあえず、寝とりなさい。寝たらちょっとはマシになるだろ」 「はい……」 素直に目を瞑った同僚の顔を、伝蔵はぼんやりと見つめた。 夏休みも残り十日ほど。 伝蔵は、いつものように家庭訪問という名目で一年は組の各家庭を回っていた。 皆、この猛暑にもめげずに元気で、ひとまず安心したのだが。 最後に訪れた土井宅にて、平服のままぐったり延びている教科担当教師の姿を発見し たのである。 夜着に着替えさせ、布団に追い立てたのは良いが、まさかそのまま放っておく訳にも ゆかず。 どのようなアルバイトを引き受けるか分からぬきり丸の監視も兼ね、今日はこの家に 泊まる事にしたのだった。 (身体には気を付けるよう、言ったんだがな) この青年は、自身の事に無頓着過ぎると伝蔵は度々思う。 (着物だって、ろくに洗っとらんではないか) それでも、同居人のきり丸の衣が小奇麗なところを見ると、洗濯を完全に怠っている 訳ではあるまいに。 自分の事は後回し、なのだろう。そういう奴だ、半助は。 伝蔵は短く息を吐くと、立ち上がった。 既に、日は傾き、屋内は薄暗くなりつつある。 立秋はとうに過ぎたが、やはりまだ暑い。 (この暑さじゃなぁ…半助がばてるのも分からんではないが……) 板戸を閉めると、顎を撫ぜた。髭が、汗で湿り気を帯びている。 「きり丸」 炭櫃に向かい鍋を掻き混ぜている少年に声を掛ける。 「何ですか」 くるりと振り向いた彼の顔は、暑気と鍋の中から立ち昇る熱気のせいですっかり汗塗 れになっていた。 「その雑炊、まさかイナゴが入っておらんだろうな」 半刻前、アルバイトから帰ってきて夕食の準備を始めたきり丸に、イナゴは入れる な、と散々言っておいたのだが。 伝蔵はやはり心配であった。 「い、嫌だなあ、いくらぼくでもそんな事する訳無いじゃないスか……」 そう言いながらも、きり丸の弓手は何かを隠そうとしている。 もぞもぞと蠢く麻袋。その中身は何か――推して量るべし、である。 「入れるつもりだったのだな」 拳を素早くきり丸の頭頂部に振り下ろしながら、伝蔵は溜息をついた。 きり丸から奪取した袋を覗くと、果たせるかな、元気に足を動かす虫の姿が垣間見え た。この家では、お馴染みの虫だ。 「あぁ〜〜〜〜、すみません〜つい、いつもの癖でぇ〜」 「全く……もっとマシな物は無いのか」 ざっと屋内を見たが、滋養のありそうな生臭はこの家の中のどこにも見当たらぬ。 「何を贅沢な、イナゴだって立派に動物性タンパク質が摂れ……痛ぁ!」 「イナゴから離れんか、イナゴから」 隣室から聞こえる賑やかなやり取りに、半助はくすりと笑った。 眠ろうにも、眠れない。 胃の辺りが重く、だるく、吐き気がする。 不意に襲ってきた胃の痛みに、彼は思い切り顔を顰めた。 (ああ、本当に情けない……) 暑気中りの次は神経性胃炎の再発か。 (体力には結構自信があるんだがな) 少しでも胃への負担を減らそうと、寝返りを打った。 無論、多少体勢を変えたところで身体の調子が良くなる筈も無いが、多少は気が紛れ る。 首に張り付く髪が鬱陶しい。 暑さで朦朧とする半助の頭に、往来や裏庭の賑々しい音が響いている。 きり丸は菜っ葉しか入っていない鍋に味噌を入れた。 中身を小皿に少し取って啜る。まあまあの味加減に、彼は満足した。 袖で、すっかり汗で濡れた顔を拭う。 視界の隅に、伝蔵が草鞋を履いているのを捕らえてきり丸は振り返った。 「あれ?どこ行くんですか?山田先生」 荷物を持っていないところを見ると、家に帰る訳でも無さそうだが。 「ちょっとな、市に行って来る」 「雑炊、冷めちゃいますよ」 「なーに、すぐ帰って来るわい。半刻もかからん。腹が減ってたら、先食ってて良い ぞ」 「いーえ、待ってますよ。早く帰って来て下さいね」 雑炊をまた温めなおすのは勿体無いですから。そうきり丸が口を尖らせると、伝蔵は 苦笑した。 「分かった分かった」 伝蔵が行ってしまうと、きり丸は鍋に蓋をしごろりと仰向けに寝転んだ。両手に頭を 乗せる。 (土井先生が倒れちゃ困るよな……) 洗濯の委託も、造花の内職も。半助の手が無ければ、とてもじゃないが一人ではこな せない。 まさか伝蔵がそれらを手伝う筈も無く、今日新たに引き受けてきた内職の類は、彼に 怒鳴られ泣く泣く断ったのだった。 (俺だって、先生の事、心配してないんじゃないんだけどさ) きり丸は、天井をねめつけた。 誰かが家に入ってくる気配に、半助は目を醒ました。 たとえ体調が優れぬ時でも、忍びの性は抜けない。抜けてはくれない。 (……寝て…いたのか……) 寝付けないと思っていたが、やはり身体は疲れていたらしい。 (……それより、誰だ?) 物音に耳を傾ける。しばらくして、静かに息を吐いた。 (何だ、山田先生か……) 自分が寝ている間に、どこかに出かけられたのだろう。 そう納得し、半助はまた目を閉じた。 胃のだるさが、先刻よりはマシになったような気がする。 煮え湯のごぼごぼという音に、きり丸は目を開けた。 どうやら、寝転がったまま眠ってしまったらしい。枕にした手が痺れている。 目の前で、伝蔵が釜を持って、湯呑み茶碗に何やら注いでいた。 「おお、起きたか」 上半身を起こしたきり丸に、釜を傍らに置き伝蔵は声を掛けた。 「何やってるんですか?お茶?」 「ああ、梅醤番茶を土井先生に飲ませようと思ってな。材料を買ってきたんじゃ」 「なめしょうはんにゃ?……ナメ将の般若って何スか?気味悪いなぁ」 「うめしょうばんちゃ、じゃ、馬鹿たれ」 きり丸は茶碗を覗き込んだ。湯気の立つ茶碗から、仄かに梅と生姜の香りが漂ってく る。 「効くんですか?夏ばてに」 「うむ。葛を入れれば下痢にも効くし、何より、胃腸に良い」 ふーん、ときり丸が感心したように耳を傾ける。 「じゃ、土井先生にぴったりスね」 「そうだな。よく覚えておけよ、きり丸」 笑みを浮かべながら、伝蔵は湯呑み茶碗を持ち、板戸を開け半助が寝ている部屋に 入った。 きり丸も、その後に続く。 寝息は、聞こえない。顔も、向こうを向いている為見えない。 眠っているのか否か判断が付きかねる。 伝蔵は忍び足で膨らんだ布団の頭の方へと近付いた。 「……土井先生」 小さな、小さな声で。伝蔵は囁いた。 「何ですか?」 寝ていたとは思えぬほど明瞭な声で、半助が答えた。そして、寝返りを打って伝蔵達 の方を向く。 「起こしたか」 尋ねながら座る伝蔵に、半助は苦笑して、いいえ、起きてましたと首を振った。 「うとうとはしてたんですけど。でも、少し楽になりました」 「……そうか。さ、これを飲みなさい。夏バテにはこれが一番じゃ」 「梅醤番茶ですね」 上半身を起こし、受け取った湯呑みから立ち昇る香りを吸い込んで。半助は少し目を 細めた。 「……先生、大丈夫?」 湯のみ茶碗に口を付け中の物を啜る半助に、伝蔵の後ろに正座したきり丸が声を掛け る。 何時に無く心配そうなその視線に、半助は笑顔で答えた。 「ああ、恐らく、一晩寝れば治るだろう」 「さあきり丸、わしらも飯にするか」 半助が飲み干した湯呑みを受け取り、伝蔵が立ち上がった。 「あの〜、イナゴはどうしましょう?捨てるのは勿体無くて、そのままなんですけ ど」 眼下のきり丸に、伝蔵が呆れた視線を送る。 「逃がしてやれ」 「一度手に入れた物は手放さない!これがドケチの信念です!!」 堂々と言い放つきり丸に、伝蔵は溜息を吐いた。 「……仕方無いのう、炒って食べるか」 観念したような伝蔵の様子に、半助は苦笑を浮かべる。 翌朝、きり丸が日課となっている新聞配達と牛乳配達から帰ってくると、伝蔵が旅姿 で庭に立っていた。 「あれ、もう帰るんですか?」 笠を少し上げて伝蔵は、ああ、と頷いた。 「さっさと帰らんと、あれが煩くてな」 あれ、というのは、言わずもがな、伝蔵の妻の事である。 「色々と有難う御座いました、山田先生」 すっかり体調が回復した様子で、半助が小袖に袴、萎烏帽子といういつもの出で立ち で伝蔵の傍に佇んでいた。 「うむ。……それより半助、もっとマシなもん食わんか」 あの雑炊の薄さは病人食より酷いわい、とぼやく伝蔵に、きり丸は首を竦める。 「山田先生が贅沢なんですよ〜あ痛ぁ!!」 「じゃあな、わしは帰る」 「また、学園で」 にこやかな表情の半助と。殴られた頭を抱えて蹲るきり丸と。 そんな二人に見送られ、伝蔵は入り口の暖簾を潜り抜けた。 伝蔵が行ってしまうと、きり丸が立ち上がった。 「先生、もう平気なんですか?」 「ああ、何とかな」 半助は、心配掛けたな、ときり丸の頭に手を乗せた。 「よし、じゃまたこれから内職を引き受けてこなきゃ」 拳を揚げていきり立つきり丸に、半助はずっこけそうになる。 「何でそーなるんだっ!?……ところできり丸、お前宿題は済んだのか?」 「嫌だなぁ先生、夏休みはまだあるじゃないスか」 「……やってないんだな?こいつっ」 きり丸の頭に拳固をお見舞いしながら。半助の目はそれでも笑っていた。 町には、油蝉に代わり、ツクツクホウシの声が響き始めていた。 長いようで短い夏休みも、もうすぐ明ける。 |
爆弾9175を踏んでくださった肴様からの頂き物。リクは「夏ばて土井先生」というしょーもないものだったんです。「忍者が夏ばてしていていいのか!」という突っ込みは当然予想されますが、なんかよれてる土井先生が見たかったんですね。 自分のことに無頓着で夏ばてしてしまう土井先生がいかにも、という感じです。しかもしかも! 山田先生が看病してくださるなんて! けろっとして、でもそれなりに心配しているきりちゃんは可愛いし! こんなんだったら土井先生、毎年夏ばてしてください!(ひでー、私)とか思っちゃいます。 肴様、本当に本当にありがとうございました! その上、イメージイラストも付けてくださいました。ぜひぜひご覧ください。 |