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永禄7年(1564年)1月4日、
里見義弘は八千の軍勢をもって国府台に陣を構え、
北条氏康の率いる二万の兵を迎え撃ちました。
しかし、8日払暁北条軍は寝込みを襲い
里見の陣地目がけて一斉に攻撃をかけたのです。
鬨の声に驚いた里見軍は「あるいは鎧、太刀より馬に鞍おけと叫び
また太刀一振り鎧一領に二人三人取り付いて我よ人よとせり合い、
兜許りで出づるもあり鎧着て空手で出づるもあり」
という狼狽ぶりを呈しました。


この合戦で敗北した里見軍は里見広次、正木内膳らを
はじめとして戦死するもの5千名と伝えております。
その後里見軍戦死者の亡霊を弔うものもなくやっと文政12年(1829年)
に至って里見諸士群亡塚、里見諸将霊墓が建てられ、
また年代は不詳ですが石井辰五郎という人によって
里見広次公廟が建てられました。
ここに265年の歳月を経てようやくこの地で討死した
里見軍将士の亡霊が慰められ、今日に残されたものです。


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