① おにゃン子クラブやジャニーズjrとの関連
ビッグマンモスが解散した後、「ママと遊ぼうピンポンパン」を企画したフジテレビの横澤彪ディレクターを中心とするスタッフによって女子高校生をメンバーにした歌って踊れる少女グループ おにゃン子クラブがつくられ、「夕焼けニャンニャン」というバラエティショー番組で活躍しました。ビッグマンモスのメンバーに背番号が与えられたのと同様、おにゃン子クラブにも背番号が与えられ、適宜「卒業」という形でのメンバーの交替も行われたようです。つまり、ビッグマンモスを育成した手法がおにゃン子クラブにおいても引き継がれ、さらに発展したとも言えるでしょう。
ビッグマンモスとジャニーズjrとの共通性を指摘する人もいます。確かに、歌って踊れる少年グループという点では共通していますし、ビッグマンモス解散後そのままジャニーズjrのファンに移行した人もいます。さて、歴史的にみると、ジャニーズjrの方が古いでしょうし、ビッグマンモスが活躍した時期にもジャニーズjrは存在して、アイドルを世に送り続けていたことでしょう。この二つを比べると、ジャニーズjrが一つの事務所(ジャニーズ事務所)に所属して、テレビやステージで活躍したのに比べて、ビッグマンモスは、いくつかの児童劇団や音楽事務所やモデルグループ所属の少年の混成部隊で、「ママと遊ぼうピンポンパン」の中で活躍したという違いはあります。
また、ビッグマンモスのオリジナル曲は、ボーイ・ソプラノを活かすことをもとに作られていることが特色といえるでしょう。ジャニーズjrの曲はそうではありません。
さらに、ビッグマンモスの歌は、歌が伝えるメッセージがはっきりしていたこともその特色と言えるでしょう。
さて、ビッグマンモスの歌には、いろんなジャンルがあるので、「元気」をキーワードとしながらも、これが唯一の特色というものはありません。従って、ビッグマンモスの歌が後の音楽に影響を与えたというよりも、ビッグマンモスの歌を聴いて育った少年少女の心に永久に消えない美しいものを残したことが最大の影響と言えましょう。
② ノスタルジーを超えるもの
ビッグマンモスを視聴して育った少年少女は現在30代を中心とした世代です。従って、どうしても想い出として語られることが多いと思います。しかし、「Go!Go!ビッグマンモス」復刊に協賛した人たちのコメントを読むと、ノスタルジーを超える何かを感じるこもあります。同じ年頃なのにあのように歌ったり踊ったりできるということが憧れを育んだことでしょう。しかも、メンバーの少年たちが、あまりにもかけ離れた存在ではなく隣のクラスにもいそうな少年たちであったことが、ビッグマンモスを身近な存在にしてくれたことでしょう。ビッグマンモスは番組の中でたとえいたずらのコントをすることはあっても、幼児たちにとってよきモデルのお兄さんとして行動していました。
ビッグマンモスが活躍していた時代は、子どもが子どもらしく、子供番組が子供番組らしかった時代でした。また、ビッグマンモスが着ていた服装は、戦後の貧しさから脱し、きちんとした可愛い、あるいはかっこいい服装でした。きれいな色のシャツやベスト、半ズボンにハイソックス、シンプルなスニーカーは、ビッグマンモスのトレードマークでした。ストリートファッションに代表される昨今のだらしない俗悪な子供服とその着こなし見るにつけ、ビッグマンモスのファッション感覚の素晴らしさを感じます。
しかし、時代は動いています。「鉄腕アトム」や「ひょっこりひょうたん島」がテレビに復活していることの背景には、正義を愛し、子どもが子どもらしく、子供番組が子供番組らしくあるべきだという根本思想が流れていると思います。ビッグマンモスをいろいろな角度から再評価する動きも出てきています。ボーイズ・エコー・宝塚による「星物語」の復活もその一つです。ノスタルジーの視点だけからビッグマンモスを語るのではなく、ビッグマンモスが投げかけたメッセージの現代的意義を語ろうではありませんか。
「クラリネットをこわしちゃた」は、クラリネットを題材とした子供の歌「J'ai perdu le do」として知られていますが、作詞者・作曲者ともに不明で、フランスの歌として日本では親しまれているものの、発祥地がフランスかどうかも定かではないというのが実態です。歌詞は、クラリネットを上手に演奏できない子供に対し、父親が指導するという内容で、長短が異なる数パターンのメロディと歌詞があります。この曲を日本に紹介したシャンソン歌手の石井好子は「たいした意味はなく、言葉とリズムのおもしろさで子供たちに喜こばれている歌」と記しています。『みんなのうた』での初放送は1963年(昭和38年)2月から3月にかけて、ダークダックスの歌でアニメーションをバックに行われました。[フレーベル少年合唱団第58回定期演奏会で、幼稚園年長と小学1年生のB組で採り上げたとき、音楽監督の野本立人監督は、観客に「コラ!」と言う怒り声を「怖い声でやらないでください。」と観客に依頼しましたが、この辺りに野本監督の人柄がよく出ていました。音楽は人ですね。ビッグマンモスは、モグちゃんがわざと下手にクラリネットを演奏したりしてよい雰囲気を出していました。でも、歌は、可愛い声でしっかり歌ってますよ。
「ホルディリディア」は、スイス民謡を原曲とする日本の歌。原曲はフランツル・ラングの“Mein Vater
ist ein Appenzeller”で、NHKの『みんなのうた』が始まった1961年に8~9月の歌として放送されました。作詞は飯塚広、編曲は服部正、歌は東京少年少女合唱隊が歌っています。ヨーデルは、当時、ウィリー沖山の歌があったとしても子どもの歌としては、珍しいものでした。ここでは主旋律をお姉さんが歌い、ビックマンモスはバックコーラスですが、中学生を含むかなり多くのメンバーが参加しています。
ビッグマンモスの「白銀はまねくよ」と言っても、「ビッグマンモスは、そんな歌を歌ったかな?」と、首をかしげる人もいるかもしれません。事実この歌は、「ママと遊ぼうピンポンパン」の中でも、お兄さんが中心になって歌って、ビッグマンモスは、バックコーラスの位置づけです。しかし、当時、冬になると、商店街などでこの歌が流れてスキーシーズンの到来を感じさせていました。しかも、スタジオの(人工)雪の積もった屋根から滑り台で降りてきた6人のメンバーのうち2人は、上半身は防寒衣装でスキー帽にマフラーを着用しながら、下半身は短い半ズボンにハイソックスをはいており、当時は、「子供は風の子」で、一年中半ズボンがかっこいいとされていた昭和50年代(1970年代後半)の時代背景を感じさせます。
さて、原曲の『白銀は招くよ!』は、1956年コルチナ・ダンペッチオオリンピックのアルペン競技(滑降・大回転・回転)の三冠王になったトニー・ザイラー主演の1959年の西ドイツの映画の主題歌(原題「Ich bin der glücklichste Mensch auf der Welt」私は、世界一の幸運児)でした。
「線路は続くよどこまでも」(せんろはつづくよどこまでも、原曲名 I've Been Working on the Railroad)は、アメリカの民謡。日本では佐木敏作詞の歌詞が付けられ、明るく楽しい汽車旅を歌っています。原曲については、文献上は1894年版の『Carmina Princetonia』(プリンストン大学のグリークラブ用の曲集)に「堤防の歌」(Levee Song)のタイトルで載せられているのがもっとも古いものです。歌詞は黒人英語で「I been wukkin' on de railroad」になっています。実際には出版よりもずっと古く、1830-1840年代までさかのぼる可能性があると言われています。本来は黒人労働者による堤防工事についての歌だったのが、時代による労働内容の変化によって鉄道労働者の歌になったと考えられますが、現在では子供むけの童謡になっています。このように、曲の由来ははっきりしませんが、フランツ・フォン・スッペ『詩人と農夫』序曲の最初の方に出てくるチェロ独奏の旋律に由来する可能性があります。
日本では、昭和30(1955)年に『線路の仕事』の題名で比較的忠実に紹介されました。この曲が日本で大いに広まったのは、まず、昭和35(1960)年、アメリカで製作されたテレビドラマ「テキサス決死隊」“Tales of the Texas Rangers”の主題歌としてでした。この番組のオープニングとエンディングに、出演者が歌う主題歌「見よ!テキサス決死隊」“We are the Texas Rangers”が、“I've Been Working on the Railroad”の替え歌で、「あれが西部の荒くれ者と…」と子供達に歌われました。