ビッグマンモス |
ビッグマンモス マイベスト10プラスα |
プラスα編 |
① 「ニッキ・ニャッキ」
「黒ねこのタンゴ」のB面から
昭和41年、1曲の童謡が爆発的にヒットしました。その歌は「黒ねこのタンゴ」。歌うは、当時小学校1年生でひばり児童合唱団員の皆川おさむで、テレビに引っ張りだこ、レコードも記録的な売り上げということで、一躍人気者となりました。ところが、そのレコードのB面に録音された「ニッキ・ニャッキ」は、歌詞も楽しいし、幼稚園児の置鮎礼子の年齢以上におませな歌いっぷりもよかったのですが、「黒ねこのタンゴ」の大ヒットの陰に隠れてあまり評判にはなりませんでした。さて、これら2曲はイタリアの童謡コンクール ゼッキーノ・ドーロの入賞曲ですが、当時の日本はカンツオーネブームだったこともあって、その余波で日本に紹介されたとも考えられます。なお、「黒ねこのタンゴ」も「ニッキ・ニャッキ」も山上路夫のいかにも日本的な訳詞(ほとんど作詞といってもよい)によって紹介されました。
やがて、流行は去りこれらの曲が思い出の曲になりつつある頃、「ニッキ・ニャッキ」が、ビッグマンモスの歌として、新たな装いでリバイバルしました。そして、ビッグマンモスのオリジナル曲ではないのに、それ以上の人気曲になりました。
ヒットの要因を探ると
子どもにとって、いつの時代でも食べ物の好き嫌いは大きな問題です。このことで親から叱られることも少なくないでしょう。もし、嫌いな食べ物が、好きな食べ物に変身したらなあなんて夢のようなことを考える子どももいることでしょう。そのおまじないの言葉こそが、「ニッキ・ニャッキ」なのです。いかにもおまじないらしい響きのする言葉ではありませんか。この歌のヒットの要因を探ると『ママと遊ぼうピンポンパン』の視聴者の中心である年齢層の子ども達にこの詩の内容がアピールしたことと同時に、短いソロを数人で分担して歌いながら、次第に大きな合唱へと広がってゆくというビッグマンモスの典型的な歌のパターンとも一致していました。「ニッキ・ニャッキ」が、オリジナルの独唱よりもビッグマンモスの歌により合致していたというべきでしょうか。
歌と踊りのパターンは、全く同じ
当時の歌声から山瀬まみを連想したという甘い鼻にかかった声のコーチャンを中心に、5人のソリストたちはボーイ・ソプラノの図鑑のような個性的な歌声を披露しています。甲高く清澄なヒラメ、言葉を丁寧に歌うパセリ、明るく張りのあるヤセヤマ、まだこの時期はむしろ可愛い声のオートンと、たった一節でも声の持ち味が出ています。この頃のコーチャンは、「星物語」と比べるとまだ“つぼみ”というむしろ幼い感じのする歌を歌っています。しかし、「食べなさいと言うのよ~」という独特の節回しや、「シュークリームにチョコレート」ととろけるような動作とともに歌う姿は、視聴する人の心の琴線を刺激しました。
ダンスとしてはむしろ単純な方で、おまじないの言葉を歌う部分は自由度も高いのですが、最後きちんと締めくくるというところが、ダンスとしてのドラマ性を形作っています。
なお、後期の歌巧者のチビヤマを中心にした後期のメンバーに夜って歌われた場合も、歌唱力という点ではオリジナルメンバーと比べても遜色ありません。また、歌と踊りのパターンは、全く同じというのも嬉しい一致です。
https://www.youtube.com/watch?v=_Utv_sqkBsM&list=PLU9rDaXB1PBDzQSWWU1w0hfgo9jn0RBxG&index=11
② 「はるかな友に」
磯部俶の代表曲
昭和36年頃、「みんなのうた」に取り上げられ、ボニージャックスの歌で全国的に有名になったこの曲は、それよりおよそ10年前の昭和26(1951)年頃、当時早稲田大学グリークラブの常任指揮者をしていた磯部俶が、合宿先で即興的に作詞・作曲された作品です。従って原曲は男声合唱曲です。磯部俶は、その後フレーベル少年合唱団の創立より指導者として迎えられ、少年合唱界でも多大な貢献をされました。さて、3連からなるその詩は、短いながら深みのあるもので、まさに合唱の醍醐味が味わえます。明るく元気な傾向の歌が多いビッグマンモスが、このシックな合唱曲「はるかな友に」を歌った背景には、指導者の子安順子の影響を感じずにはいられません。
ビッグマンモス・ビクター少年合唱隊・フレーベル少年合唱団
この曲がビッグマンモスによって歌われたのは、メンバーを昭和54(1979)年の夏と推定されますが、それより3 年前ビクター少年合唱隊の「天使のハーモニーシリーズ 3」でもこの曲はレコーディングされています。この二つを比較すると、ビッグマンモスとビクター少年合唱隊の魅力の違いというものがよりはっきりしてきます。
キャンプ場の夜を舞台にビッグマンモスの歌は展開します。一日の活動を終えてキャンプの周りに集まったビッグマンモスのメンバーの中で、コフ(田村勲)が立ち上がって、甘い声のソロで「静かな夜更けにいつもいつも想い出すのはおまえのこと」と歌うと、そのあとを全員がそれぞれのポーズで合唱するという1番。2番では言葉をかみしめるように歌うパセリ(世利一弘)のソロに明るい声の合唱が続きます。このビッグマンモスらしい歌の展開が、先輩が後輩を慈しむような演出の映像と相まって独自の美しい世界を創っています。
一方、ビクター少年合唱隊は、ハープやストリングスを多用した伴奏に乗って最初から最後まで合唱で通しています。こちらはひたすら爽やかな歌いぶりが魅力で、1番ごとに違った歌い方をしていることも伺えます。演奏する人数も十数人のビッグマンモスと70人ぐらいのビクター少年合唱隊では表現の仕方が違って当然で、いかにその魅力を引き出すかという点でこの比較は面白くなってきます。
なお、現在、この歌は、磯部俶の指導を受けたフレーベル少年合唱団OB会あるいは、フレーベル少年合唱団の合同演奏で、定期演奏会で歌い継がれています。
https://www.youtube.com/watch?v=tsxFfoif40w
ダンスがなくても
「はるかな友に」は、おそらくビッグマンモスの歌の振り付けとして屈指の出来になるでしょう。厳しいダンスのレッスンの結果やっとできるようになった激しい動きの振り付けと比べ、自然な演出の中に人のぬくもりや慈しみが現れているこの振り付けは、華やかさこそなくても実に魅力的です。この間少年たちの間に交わされた会話を想像してみるのも楽しいかもしれません。
https://www.youtube.com/watch?v=DD38J5S8WWY(2分55秒後に1番)
https://www.youtube.com/watch?v=FKzswR5b8cI&list=RDWHrxEerf5IQ&index=19(5分過ぎに2番)
③ 「きみたちは太陽さ」
「みんなの歌」とビッグマンモス
NHKの「みんなの歌」は、開始してから10年ほどは、外国の曲に日本語の詩をつける曲がかなり多く見られました。「線路は続くよどこまでも」「白銀は招くよ」「気のいいあひる」「クラリネットをこわしちゃった」などはその中でも名曲として今でも歌い継がれていますが、ビッグマンモスは、これらの曲をよく歌っています。さて、その中には子ども向けに作られたため、もとの歌詞とは全く違っていいるものもあります。例えば、「白銀は招くよ」は、冬季オリンピックのアルペン3冠王トニー・ザイラーが俳優に転進して作られた映画の主題歌ですが、原曲は「私は世界一の幸運児、金じゃ買えないこの気分・・・恋が人生を美しくする」という恋の歌なのに、日本では色恋抜きの完全なスキーの歌になっています。
さて、「想い出のソレンツァラ」や「恋心」を歌ったシャンソン歌手のエンリコ・マシアスの「きみたちは太陽さ」もまた、そのような形で「みんなの歌」で採り上げられると同時に、ビッグ・マンモスによっても歌われています。原曲は、「あらゆる国の子どもたち」で、歌詞の詳細は知りませんが、1962 年に発表された彼の代表曲の一つで、世界中の子どもたちに平和と愛を歌っています。エンリコ・マシアスは、1938 年にアルジェリアのコンスタンティーヌで生まれ、1961 年にフランスに亡命しました。彼は、ユダヤ系アルジェリア人としてのアイデンティティや、祖国への郷愁をテーマにした多くの曲を作りました。阪田寛夫によって作詞された歌詞の内容は、子どものすばらしさを歌ったもので、子どもが歌うのにふさわしいものになっています。そういう意味でも「みんなの歌」とビッグマンモスのかかわりを調べていっても面白いでしょう。
お姉さんとビッグマンモスの組み合わせ
この曲はお姉さんとビッグマンモスが歌った歌の中でも、「オレンジ村から春へ」とともに、それぞれの持ち味がよく生かされた曲として特筆できます。大野かおりお姉さんは、細くて高いキュートな声が特徴で、ビッグマンモスの明るい声とよく調和しています。「おいでよ、僕の町に」のようにビッグマンモスだけで歌ったほうがよい歌もありますが、この歌はお姉さんとの組み合わせによって生きる歌だと思います。
デブリンマンよ!今いずこ
中後期のメンバーと大野かおりお姉さんによって歌われるこの歌は、腕を大きく振って踊るダイナミックなダンスと歌詞に合わせた演技に特色があります。7人のメンバーが対称形に並び、トレードマークの赤い半ズボンをはいたモグちゃんが座っているピカちゃんの周りをスキップして回るところからこの曲はスタートしますが、このスキップが何とも軽快で爽やかです。また、要の位置で踊るのは、かつて「デブリンマン」というニックネームだった前田陽介。それがこの歌を歌った6年生の頃には身長も伸びて手足が長くなり、赤いセーターに紺の半ズボンがよく似合うかっこいい少年になっているのが目に付きます。「デブリンマンよ!今いずこ」という感じさえします。また、お姉さんが歌っている部分は、メンバーは歌詞に合わせた演技をしますが、とりわけけんかのシーンでしょげて伏目をするモグちゃんの愛らしさは、すばらしい目の演技と言えましょう。お姉さんはバレーの回転をし、ビッグマンモスは後ろ向きに座って両手を伸ばすという終末は、ドラマティックで強く印象に残ります。
https://www.youtube.com/watch?v=S46GU9L2Jg4
④ 「まけるもんか」
明治の青春と比べてみると
ビッグマンモスの初期から後期に至るまで歌い続けられたこの歌は、岡田富美子作詞 ウィルソン作曲と書いてありますから、外国の曲に日本的な作詞(「パンツのゴム締めて」が訳詞とは考えられない)をしたものでしょう。「ヒーローになれ」と並んで少年が歌う男の歌の代表ともいえるこの歌には、「勝つまでは負けるもんか!」と底流に「負けじ魂」が流れています。この言葉は今では古語のようになってしまいましたが、ビッグマンモスが活躍していた頃は、日本が輝かしい高度成長を続けていた頃なので、まだ少年たちの精神にその片鱗が残っていたのではないでしょうか。
ところが、それと同時に、この歌は「僕が勝ったなら、大好きなあの子がチュッチュッほっぺにキスしてくれるだろう。」というかなり開放的な恋が歌われているところも特徴的です。この歌を村田英雄の「姿三四郎」と比べてみましょう。明治の柔道家を歌ったこの歌にも「人に勝つより自分に勝て」とか、「花と咲くより踏まれて生きる草の心が俺は好き」といったストイックな男の生きざまが描かれています。また、「好きになってはいけない恋に泣けば雨降る講道館」という秘めやかな形で恋も登場します。明治の青年の青春像の一典型が「姿三四郎」なら、昭和の少年の歌は昭和40年代後半以後、特にフィンガー5の登場で大きく様変わりしたと言えるでしょう。そういう意味では、「まけるもんか」は、「負けじ魂」を描きながらも明らかに昭和後期の少年の歌になっています。
「役者やのう!」
いったいこの歌には、いくつのバージョンがあるのでしょう。これまでに私が見ただけでも4つのバージョンがあります。① 2列横隊で体操のように踊るもの、② 運動会騎馬戦のバックミュージックとして流れるもの、③ いろんなスポーツ衣装を着て演劇的に演じられるもの、④ 流麗なダンスとして描かれているもの。ビッグマンモスファンの方の言葉によると、さらにいろんなバージョンがあるそうです。
ところで、私が知っているこの4つの中では、③と④が違った意味で優れていると思います。③は、強さのランクをテーマに、オートン、パセリ、ヤセヤマ、コフ、ヨースケの年長組5人が柔道の猛者になり恐そうな目つきで、他を怖がらせるという演技が楽しめます。こういうことが可能だったのは、児童劇団に所属しているメンバーが多かったためでもあります。普通の児童合唱団では歌は歌えてもこういう演技はまず不可能でしょう。また、後期のメンバーによる④は、お揃いのTシャツとジーンズの半ズボンで踊る流麗なダンスが見ものです。手足の動きが実に美しく、練習を積み重ねて創り上げてきたことが伝わってきます。しかし、ここでも演劇的な要素はあります。最後の「キスしてくれるだろう。」のところで、玉川康司(タマちゃん)がほっべを押さえながら嬉しい驚きをする動きは、なかなかのものです。「役者やのう!」という声が掛かってきそうな名演技と言えるでしょう。
この歌にも、ソリストが配置されています。伊藤光(ピカちゃん)のハスキーなー声と飯田吉信(ピッケル)の甲高い美声は対照的ですが、そういう配置の妙味もビッグマンモスを聞く楽しみの一つと言えましょう。
https://www.youtube.com/watch?v=_hKWi7EdTC8&list=PL1lkTfip840R9i3a9HoFRcZiihFfhKN-p&index=4
⑤ 「わんぱくマーチ」
映画音楽のマーチ
フランス映画の「わんぱく戦争」が制作されたのは1961年で、日本で公開されたのは2年後の昭和38(1963)年です。むしろ地味な白黒映画でしたが、公開当時結構話題を呼びました。原題は「ボタン戦争」。フランスの農村を舞台に隣村の少年たちどうしが戦争ごっこをして、勝った方が負けた方の少年の服のボタンをとるというものですが、当時冷戦下における対立で原水爆の発射ボタンを押す「ボタン戦争」をひっかけた風刺に満ちた題名でした。子どもの戦争はボタンを取り合う程度のものですが、大人の戦争は、ボタン一つで世界を破滅させるというメッセージがそこには忍ばせてありました。しかし、この映画を見る限り、変な理屈をつけず、むしろ無邪気な子どもの世界を素直に楽しんだ方がよいのではないかと思います。映画の冒頭には、ジョゼ・ベルグマン作曲の「わんぱくマーチ」が合奏曲として流れます。これが、なかなかしゃれたマーチで、同時期に公開された「戦場に架ける橋」の「クワイ川マーチ」や「史上最大の作戦のマーチ」「大脱走のマーチ」の勇壮な曲想とは、かなり違った明るい雰囲気のもので、この曲がかかるだけで楽しい雰囲気にさせてくれます。このマーチは、はつらつとしていながらも、敵愾心を感じることはなく、むしろ同じフランスの「だれかが口笛吹いた」と似た洒落たセンスを感じさせます。
NHK「みんなの歌」では、この映画のヒットを受け早速その翌年、阪田寛夫の作詞でこの曲を全国放送しました。それ以来、この曲は児童合唱の名曲として今でも歌い継がれています。
大将はお姉さんだ
ビッグマンモスは、「元気」をコンセプトととした歌を数多く歌ってきましたから、この曲などはその持ち味が一番よく現れる歌の一つでしょう。いくつかのバージョンがありますが、代表作は、初期のメンバーによるものを挙げたいです。山崎圭一(ヤセヤマ)が手を振って大きな靴の舞台袖から出ようとすると、お姉さんが、「我こそが大将だ。」とばかりヤセヤマを後ろに引っ張って、先頭に立つという演出が、この曲の本質をよく現しています。お姉さんに続くビッグマンモスのメンバーが行進しながら階段を降り、次々と隊形変換しながら踊っていくというパターンは、ビッグマンモスの定番ですが、曲想とダンスの一体化という点では、ビッグマンモスの曲の中でも優れものの一つと言えましょう。メンバー的には特にこの時期、ハンサムになってスタイルもよくなってきた東原稔(トンバラ)が、よい振り付けを見せてくれます。
https://www.youtube.com/watch?v=sb_Qjx25Ck8&list=PL1lkTfip840R9i3a9HoFRcZiihFfhKN-p&index=5
(このバージョンは、お姉さんが大将ではありません。)
⑥ 「オー・シャンゼリゼ」
色彩的に美しいダンス
「オー・シャンゼリゼ」は、ビッグマンモスの歌というよりも、かおりお姉さん(大野かおり)とビッグマンモスの歌といったほうがよい歌です。大野かおりの独唱というバージョンもありますが、ここでは、ビッグマンモスが出演しているバージョンを紹介します。ここでは、主旋律はかおりお姉さんが歌い、ビッグマンモスは、バックコーラス的な役割です。従ってビッグマンモスの歌としては、大きな特色はないのですが、ドライアイスから白煙が発生する舞台の中、ダンサーのガンちゃん(石村治樹)がお姉さんに摘んでくれた花をピカちゃんにあげて、年の違った恋人のように手をつなぐシーンは、美しく、このときのジーンズ半ズボン姿のピカちゃん(伊藤光)が、上品な雰囲気を醸し出します。また、年長のメンバー4人が長ズボンをはいて、他のメンバーとは違う動きのダンスをすることや、最後には、ガンちゃんが中心の棒もった放射線状の万国旗を新しいメンバーたちが持って開く最後のシーンまでダンスに色彩的に美しい一つのドラマを感じさせます。
シャンソンと思っていたが
「オー・シャンゼリゼ」は、CMソングなどとしてよく使われ、高校の音楽の教科書にも掲載されたことがありますが、日本で流行していた1970年前後の歌なので、長年、ダニエル・ビダルが歌った「新しいフレンチポップス」というジャンルのシャンソンと思っていましたが、原曲は英語で書かれた楽曲『ウォータールー・ロード(Waterloo Road)』(作詞:M.ウィルショー,作曲:M.A.ディガン)であり、この楽曲に、フランスの作詞家ピエール・ドラノエがフランス語の歌詞をつけたのが、『オー・シャンゼリゼ』で、「ウォータールー」をフランス語にすると「ワーテルロー」というナポレオン率いるフランス軍が敗戦した地と同じ名前となるので、パリの凱旋門のあるメインストリートであるシャンゼリゼ通りに差し換えられたそうです。この一つの歌を調べても、歌についての歴史的なことを学ぶことができます。なお、ここで歌われている歌詞は、安井かずみによるものです。
https://www.youtube.com/watch?v=b4D-5-d9-Lk
https://www.youtube.com/watch?v=AExiTcL6PtI
⑦ 「オレンジ村から春へ」
この曲は、もともとは、1976年の資生堂の化粧品のCMソングとして作られたものです。この曲の作詞・作曲・歌唱は、シンガーソングライターのりりィ(1952~2016)で、春の訪れに対する高揚感・期待感が高まってくる名曲と言えます。
ビッグマンモスのこの曲のカバー演奏には、少なくとも2通りのものがあります。撮影した年月を特定することはできませんが、どちらも1980年頃と考えられます。一つはビッグマンモスが私服で登場するもの(私服バージョン)であり、もう一つはビッグマンモスが制服で登場するもの(制服バージョン)です。メンバーの顔ぶれと人数から、前者が早く放映されていたと考えられます。特に、制服版では、バックには、オレンジから階段が降りている構図のステージの中、かおりおねえさんの歌唱を中心にしながら、ビッグマンモスは、歩きながら(この歩き方が美しい)バックコーラスを歌って定位置に並び、つくしの芽生えのような振り付けをするのがこの歌詞が伝えるものとぴったりしていて、全体としてこの曲の本質を表現しています。
オレンジ村から春へ(私服版) https://www.youtube.com/watch?v=k2aPsEPAKnI
オレンジ村から春へ(制服版) https://www.youtube.com/watch?v=h7E3difOAL8
⑧ 「クラリネットをこわしちゃた・ホルディリディア」
ビッグマンモスが、少年合唱団としての活動をしていた例の一つは、NHKの『みんなのうた』で広がった歌を積極的にレパートリーに採り入れていたことです。そこには四季の歌あり、山の歌あり、海の歌あり、雪の歌ありと、幼児教育が季節の変化を大事にカリキュラムを組んでいたこととも関係しますが、全体としては、元気な歌を多く取り上げていたように思います。
「クラリネットをこわしちゃた」は、クラリネットを題材とした子どもの歌「J'ai perdu le do」として知られていますが、作詞者・作曲者ともに不明で、フランスの歌として日本では親しまれているものの、発祥地がフランスかどうかも定かではないというのが実態です。歌詞は、クラリネットを上手に演奏できない子どもに対し、父親が指導するという内容で、長短が異なる数パターンのメロディと歌詞があります。この曲を日本に紹介したシャンソン歌手の石井好子は「たいした意味はなく、言葉とリズムのおもしろさで子どもたちに喜こばれている歌」と記しています。『みんなのうた』での初放送は1963年(昭和38年)2月から3月にかけて、ダークダックスの歌でアニメーションをバックに行われました。[フレーベル少年合唱団第58回定期演奏会で、幼稚園年長と小学1年生のB組で採り上げたとき、音楽監督の野本立人監督は、観客に「コラ!」と言う怒り声を「怖い声でやらないでください。」と観客に依頼しましたが、この辺りに野本監督の人柄がよく出ていました。音楽は人ですね。ビッグマンモスは、モグちゃんがわざと下手にクラリネットを演奏したりしてよい雰囲気を出していました。でも、歌は、可愛い声でしっかり歌ってますよ。
「ホルディリディア」は、スイス民謡を原曲とする日本の歌。原曲はフランツル・ラングの“Mein Vater ist ein Appenzeller”で、NHKの『みんなのうた』が始まった1961年に8~9月の歌として放送されました。作詞は飯塚広、編曲は服部正、歌は東京少年少女合唱隊が歌っています。ヨーデルは、当時、ウィリー沖山の歌があったとしても子どもの歌としては、珍しいものでした。ここでは主旋律をお姉さんが歌い、ビックマンモスはバックコーラスですが、中学生を含むかなり多くのメンバーが参加しています。
「クラリネットをこわしちゃた・ホルディリディア」 https://www.youtube.com/watch?v=pWtluq2bszg
⑨ 「白銀はまねくよ」
ビッグマンモスの「白銀はまねくよ」と言っても、「ビッグマンモスは、そんな歌を歌ったかな?」と、首をかしげる人もいるかもしれません。事実この歌は、『ママと遊ぼうピンポンパン』の中でも、お兄さんが中心になって歌って、ビッグマンモスは、バックコーラスの位置づけです。しかし、当時、冬になると、商店街などでこの歌が流れてスキーシーズンの到来を感じさせていました。しかも、スタジオの(人工)雪の積もった屋根から滑り台で降りてきた6人のメンバーのうち2人は、上半身は防寒衣装でスキー帽にマフラーを着用しながら、下半身は短い半ズボンにハイソックスをはいており、当時は、「子どもは風の子」で、一年中半ズボンがかっこいいとされていた昭和50年代(1970年代後半)の時代背景を感じさせます。
さて、原曲の『白銀は招くよ!』は、1956年コルチナ・ダンペッチオオリンピックのアルペン競技(滑降・大回転・回転)の三冠王になったトニー・ザイラー主演の1959年の西ドイツの映画の主題歌(原題「Ich bin der glücklichste Mensch auf der Welt」私は、世界一の幸運児)でした。
『白銀は招くよ』は、日本語の歌詞がつけられ、「雪の山は友達 まねくよ若い夢を」が歌い出しのNHK「みんなのうた」で1963年1月に初回放送され、ダークダックス、ボニージャックスや児童合唱団らがカバーしています。ただし、歌詞は大幅に元の歌詞から離れ、恋や愛には一切ふれず、スキーを楽しむ若者の雪山への山男的な親しみが描写されており、むしろ、これより少し前にリリースされNHK「みんなのうた」で1961年12月に初回放送された『雪山讃歌(いとしのクレメンタイン)』の影響さえ感じます。ビッグマンモスは、オリジナル曲以外に、約20年近く前の「みんなのうた」を振り付けをつけて歌い継いでいます。このことは、「文化の継承」という意味で、もっと評価されてもよいことだと思います。
「白銀はまねくよ」 https://www.youtube.com/watch?v=cxOOkmwoYSQ
⑩ せんろはつづくよどこまでも
「線路は続くよどこまでも」(せんろはつづくよどこまでも、原曲名 I've Been Working on the Railroad)は、アメリカの民謡。日本では佐木敏作詞の歌詞が付けられ、明るく楽しい汽車旅を歌っています。原曲については、文献上は1894年版の『Carmina Princetonia』(プリンストン大学のグリークラブ用の曲集)に「堤防の歌」(Levee Song)のタイトルで載せられているのがもっとも古いものです。歌詞は黒人英語で「I been wukkin' on de railroad」になっています。実際には出版よりもずっと古く、1830-1840年代までさかのぼる可能性があると言われています。本来は黒人労働者による堤防工事についての歌だったのが、時代による労働内容の変化によって鉄道労働者の歌になったと考えられますが、現在では子どもむけの童謡になっています。このように、曲の由来ははっきりしませんが、フランツ・フォン・スッペ『詩人と農夫』序曲の最初の方に出てくるチェロ独奏の旋律に由来する可能性があります。
日本では、昭和30(1955)年に『線路の仕事』の題名で比較的忠実に紹介されました。この曲が日本で大いに広まったのは、まず、昭和35(1960)年、アメリカで製作されたテレビドラマ「テキサス決死隊」“Tales of the Texas Rangers”の主題歌としてでした。この番組のオープニングとエンディングに、出演者が歌う主題歌「見よ!テキサス決死隊」“We are the Texas Rangers”が、“I've Been Working on the Railroad”の替え歌で、「あれが西部の荒くれ者と…」と子ども達に歌われました。
そして昭和37(1962)年、NHK『みんなのうた』の中で、『線路はつづくよどこまでも』(NHK版では『つづくよ』は平仮名)として紹介されて以降、ホームソング、童謡として愛唱されるようになりました。このときに歌ったのは、西六郷少年少女合唱団で、作詞者は、「ノッポさん」こと高見映による原案を元に、佐木敏(『みんなのうた』の二代目のディレクターであった後藤田純生のペンネーム)と、当時の番組スタッフの共同作業により作り上げられたものです。大野かおり&ビッグマンモスが歌ったときは、それから10数年経っていますが、動きがあるだけで新鮮に感じます。
「せんろはつづくよどこまでも」 https://www.youtube.com/watch?v=zwEWXo2MRo0
⑪ 「シーサイド・バウンド」
1960年代後半は、ビートルズが世界的に爆発的な人気を得て、その影響を受けて日本でもグループサウンズが大流行しました。「シーサイド・バウンド」は、昭和42(1967)年5月に発売されたザ・タイガースの2枚目のシングルで、夏の海水浴の季節の歌としてすが、まだ、当時のザ・タイガースは、大ブレイクする前で、まだメンバー全員が合宿生活を送っていました。
作詞は橋本淳、作曲はすぎやまこういちのコンビで、このシングルの大ヒットによりザ・タイガースの人気は決定付けられました。すぎやまこういちが、ビッグマンモスの歌にもかかわっていた関係で、ザ・タイガースよりも約20年若いビッグマンモスが、当時の典型的な少年服の半ズボン姿で歌い踊っているというのも興味深いです。色彩的に不統一の服装でも、半ズボンと2本線の白いソックスをそろえることで、統一感が増します。「夏」を意識した海辺をバックにして活力のあるダンスが印象的です。今では、「ドラゴンクエスト」等ゲーム音楽の作曲家として有名ななったすぎやまこういちの作曲で、ビックマンモスが歌っているものには「星物語」もありますが、これは、タイガースの「銀河のロマンス」の系譜にある曲かもしれません。「銀河のロマンス」とビッグマンモスの「星物語」の曲想もよく似ていると思いませんか。
なお、「シーサイド・バウンド」は、発売から約20年後の1986年、ドラマ『やったぜベイビー!』(日テレ系)の主題歌に起用され、また、Jリーグ・湘南ベルマーレの応援歌としても知られています。
「シーサイド・バウンド」 https://www.dailymotion.com/video/x1zou46
⑫ 「グリーン・グリーン」
「グリーングリーン」 (Green, Green) は、アメリカ合衆国のフォークグループ、ニュー・クリスティ・ミンストレルズ(The New Christy Minstrels)が1963年に創唱した歌です。なお、日本盤シングルのジャケットを発売するときに、間に中黒点を入れて「グリーン・グリーン」と表記されるようになり、日本では現在も両方の名前が使われ続けており、多くの歌手にカバーされています。
この歌は、1960年代にNHK『歌のメリーゴーラウンド』で使用され、『みんなのうた』では、昭和42(1967)年5月に放送されました。同年2月発売のLP『歌のメリーゴーラウンド第3集』(日本コロムビア KKS-4005)に横田浩和・東京マイスタージンガーと杉並児童合唱団の歌で収録されています。
日本語の詞としては、詩人・児童文学者の片岡輝の作詞により父と子の対話と別れを描いた作品として知られており、これは原詞の翻訳ではなく独自に作詞したものです。片岡の詞には「パパ」が頻繁に出てくるが、原詞にはパパは一切登場せず、出てくるのはママのみです。歌詞中にある“二度とかえって来ない遠い旅路”に出かけた「パパ」の身上に何が起こったかに関しては、時代的にベトナム戦争の反戦歌ではないかをはじめ、様々な解釈が存在しますが、作詞した片岡自身は読み手がどう解釈するかは自由であるとの発言をしています。
片岡による日本語詞は、昭和49(1974)年以後、何度か日本の音楽教科書(現在は、小学4年生)に掲載されていて、多くの人に歌われて知られていますが、小学生の唱歌としては3番までの内容的に比較的明るい(軽い)歌詞内容の部分までしか紹介されていません。実際には、7番まで歌詞があり、4番目以降から歌詞内容が急に重くなります。NHK『みんなのうた』の版(編曲:小森昭宏)では歌詞番号が進むにつれ半音ずつ高く転調(移調)してゆき、歌詞内容と裏腹に前向きな雰囲気をかもし出す。遅かれ早かれどうにもならない「死」が不可避であるという現実にめげず精一杯生きて行こうという応援歌であるとの解釈が一般的になっています。
ビッグマンモスが誕生したのは、昭和50(1975)年ですが、この歌がいつから歌い始められたのかは不明です。山崎圭一のソロを中心に歌は進んでいきますが、後期において、変声(中)後の山崎圭一の映像に、かつてのボーイ・ソプラノの歌声を重ねるのは、むしろ痛々しさを感じてしまったというのも正直な感想です。
「グリーン・グリーン」 https://www.youtube.com/watch?v=_rUdUj8ch58
ビッグマンモスのCD発売に寄せて |
「ママとあそぼう!ピンポンパン DVD BOX」に収められた曲から |
CD「ビッグマンモス SONG COLLECTION」 |
幻の『Go!Go!ビッグマンモス』 |
ビッグマンモスとすぎやまこういち |
「パセリチャンネル」 |
NonNon Nobuyoshi Morii Oficial |