遍  歴

   幼児期



 ものごころがついたとき、私は病床にありました。土曜日・日曜日という病院がお休みの日に限って、よく発熱を起こしました。しかし、昼となく夜となく目が覚めると母はいつも起きてくれていました。母はいつ眠っているんだろう。幼い心にもそういう想いが起こりました。元気に育っていれば、外で友達と遊ぶのが楽しい頃、私にとって楽しみだったのは、本とラジオでした。いや、病気ばかりしていると、それしか遊びがなかったのです。父が月に1回ぐらい買って帰ってくれる講談社の絵本は、何度もせがんで読んでもらい、筋を丸覚えするするほど好きでした。今も残っている表紙がなくなって、はしの方がとろけている「世界の動物」という本は最初に買ってもらった本のうちの1冊です。また、一番好きだったのは、日本昔話で「花さかじじい」「桃太郎」「金太郎」「かちかち山」といった本を通して正義を愛し、悪を憎む心が育ったと思います。子どものときに美しいと思ったものは一生を支配します。その頃読んだ本はものの考え方をつくっていきますし、見た絵は、美しいものに対する好みをつくっていきます。ラジオから流れてくる音楽もまた想像力を掻き立ててくれました。シューベルトの「楽興の時」、シャンソンの「薔薇色の人生」など大好きでした。幼稚園も半分も通っていません。また、そこで教えてもらった童謡はどういうわけか、あまり好きになれませんでした。
 それでは、その頃好きだった歌と言えば、「庭の千草」「青葉の笛」「桜井の訣別」「七里ヶ浜の哀歌」などの美しくも哀しい抒情歌でした。父は自分が少年時代に覚えたこれらの歌をよく歌ってくれました。繰り返し聴くうちに、こんな哀しい歌ばかりが好きになってしまったのでしょう。また、文語体の美しさを自然に体感していました。また、母は料理を作りながら、「浜辺の歌」などを歌ってくれました。メロディラインの美しい曲が好みなのは、この頃にさかのぼります。ステレオはもちろん、蓄音機もない家庭でしたし、音楽を習わせてもらえる家庭でもありませんでしたが、音楽のある家庭だったと思っています。(当時、私の住んでいた地域では、ピアノやヴァイオリンなどの音楽を習わせてもらえる子どもはクラスに1.2名でした。)

   少年期
   

 小学校に入学しても、階名唱ばかりさせられる学校の「音楽の時間」は好きではありませんでした。しかし、低学年頃、全校放送で流れてくるヴァイオリン曲に心惹かれて、放送室の窓の下まで聴きに行ったことははっきり覚えています。その曲名が「タイスの瞑想曲」であることを知ったのはかなり大きくなってからですが。また、古い木造校舎の音楽室の壁面を飾っていた音楽家の肖像は私を惹きつける力を持っていました。バッハ、ヘンデル、ハイドン・・・でも、欲しいといってももらえるものではないので、音楽家の伝記本にそれらの写真が載っているのを発見した喜びはとても大きかったことも覚えています。
 歌の宝庫はテレビにありました。小学校2年生の夏休みの最後の日に、テレビが我が家にやってきて以来テレビ少年になってしまった私のそばには、いつも番組の主題歌を歌う少年の歌声がありました。NHK「みんなのうた」や、「歌のメリーゴーラウンド」で歌う少年たちの合唱もありました。しかし、当時の私にとって、同じ少年の時を過ごしている少年たちの歌声は、あまりにも日常的で美しいなあと感じることはあっても、夢中になるほど興味深いものではありませんでした。それでも、西六郷少年(少女)合唱団や上高田少年合唱団の歌声には憧れのようなものは感じていました。また、児童発声の研究もあまりすすんでいなかった当時、元気よく歌えばよいといった発声では、特に高い声を出すには限界がありました。
 小学校の高学年から中学生の頃、「テレビ名画座」という映画番組があって、古い洋画を3日続けて放送していましたが、ちょうど学校から帰った頃放映していたので、時々見ていました。3日続けて見られるのが魅力で、一度見てよくわからないところも、繰り返し見ることで次第に理解できるようになっていきました。その中でも特に好きだったのが、ドイツの音楽映画でした。ウィーン少年合唱団が出演した「野ばら」や、シューベルトの伝記を大幅に脚色した「未完成交響楽」は、筋を丸覚えするほど気に入ったものです。「野ばら」はもちろん、「未完成交響楽」にも、ウィーン少年合唱団が出演しており、これらの映画を通してボーイ・ソプラノの美しさに開眼していきました。「野ばら」の主演をしたミヒャエル・アンデ少年の歌声がウィーン少年合唱団員の吹き替えであることを知ったのは、かなり後のことです。それより少し前にディズニー映画「青きドナウ」が公開されて、その直後来日したウィーン少年合唱団は、「少女フレンド」や「マーガレット」などの少女雑誌に写真入りで掲載され、一躍少女達のアイドルとなっていました。同じ頃見た、イタリアの名テナー フェルッチョ・タリアビーニが主演したドイツ映画「忘れな草」なども人間の声の美しさに開眼させてくれた映画です。
  同じ年頃の少年なのにどうしてあんな声で歌えるのだろう。声帯模写好きな当時の私がそんな疑問を持っていたある日、ウィーン少年合唱団がろうそくの火を消さずに歌うけいこをするということを書いた本を見る機会に恵まれました。これがあの歌声の秘密だったのかと、早速仏壇の燭台にろうそくを立てて練習してみました。ろうそくの火がゆれるのは発声が悪いことに気がついて、声を上あごの方に抜くと、ろうそくの火がゆれず、自然に頭声発声ができることにも気がつきました。ただし、同級生はそういう私の歌声を全く評価してくれませんでした。当時の私の周囲の男子の間ではボーイ・ソプラノは関心の高いものではなかったのです。そのようなこともありましたが、それ以来、クラシック・ポピュラーを問わず、テレビ・ラジオ・レコード等を通してボーイ・ソプラノの歌声に親しむようになりましたが、それは、好き以上のものではありませんでした。

    思春期


 小学校の高学年から中学生にかけては、音楽の興味はフォスターの歌曲やドイツリートと流行歌(歌謡曲)が同居するようになりましたが、住んでいたところが「労働者の町」という地域性もあって周囲にクラシックファンは全くいませんでした。従って、友人と音楽の話をするときは、御三家(橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦)や加山雄三やグループサウンズということになっていました。しかし、「みんなのうた」や「歌のメリーゴーラウンド」は欠かさずに見ていました。西六郷少年少女合唱団の歌声を聴いては、鎌田典三郎先生に教わったら、あんなに歌えるんだろうかというような想いももっていました。
 変声期は中3の後半にやってきました。声は艶を失い1オクターブぐらいしか出ず、本当に「こんな声じゃいやだ。」と思いました。周りの人からそんな声のことを話題にされるのは恥ずかしくていやでした。そのため、高校に入学したとき、選択教科で音楽はとりませんでした。しかし、音楽への興味を失ったわけではありません。高校に入って、まともに授業をせず、祖国・日本の悪口ばかり喧伝し、安保・ベトナムなどと思想的に偏向教育をする英語教師に反発して独学でドイツ語を学んだおかげで、シューベルトやシューマンのドイツリートはますます好きになりました。また、ハイドンの研究家として名高い大宮真琴先生の解説によるラジオの「家庭音楽会」は、クラシック音楽を幅広くふれるきっかけを与えてくれました。大宮真琴先生の幅広い音楽の教養は、この世界の魅力に目覚めさせてくれました。高校には、中学までとは違って、将来音楽大学に進学希望の同級生もいましたが、あまり親しく付き合いませんでしたので、影響は受けていません。

    青年期以後
    


 大学に入ってから、音楽については大きな変化が生まれました。その一つはピアノを習い始めたことであり、もう一つは、チャイコフスキーやシベリウスなどのクラシック音楽が好きな友人と出会ったことです。こんな年になって始めたピアノですから、あるところまでは進んでも、そこから先がなかなかでした。20歳ごろから記憶が落ち始めるということも実感しました。ところが、そのお蔭で、ショパン、シューマン、リストなどのピアノ曲やピアノ協奏曲をよく聴くようになりました。また、その友人からもらったテノール歌手 松本幸三のイタリア歌曲とアリアのコンサートのチケットがきっかけとなって、イタリアオペラの魅力にとりつかれるようになりました。とにかくあの声の輝きには脱帽です。ちょうど、NHKの第8回イタリアオペラの公演があったときと重なって、私のオペラ熱は高まっていきました。就職してからも、自分を情熱的な人間に仕立て上げるためにイタリアオペラのテナーのアリアを聴くという不思議な体質ができました。当時のお気に入りは、ティト・スキーパやフェルッチョ・タリアヴィーニ。どちらも忍び寄るような甘美なリリコレジェーロのテナーで、「人知れぬ涙」や「フェデリーコの嘆き」「オシアンの歌」などは絶品でした。日本のリリコレジェーロのテナー 五十嵐喜芳にもその片鱗を感じ、コンサートにも出かけたものです。
 その関係もあって、20代はボーイ・ソプラノや少年合唱への関心は少し薄らいでいました。しかし、ビクター少年合唱隊の「天使のハーモニー」シリーズなどは手に入れていました。竹宮恵子が制作した「ガラスの迷路」や「過ぎ行くときと友達」も手に入れて、日本の少年でもこれだけ歌えるんだということに改めて感動していました。
  そのようにして、クラシック・ポピュラーを問わず、テレビ・ラジオ・レコード等を通してボーイ・ソプラノの歌声に親しむようになりましたが、それは、好き以上のものではありませんでした。そのような、もともと音楽については全くの素人愛好家に過ぎない私が、非力を顧みずこのような研究を始めるようになったのは、一人のボーイ・ソプラノの少年と出会いがきっかけになります。

  その少年の名は、村上友一。その出会いは実に神様のおくりものとしか言いようがありません。昭和天皇がご闘病されていた昭和63年(1988年)の11月の休日に、私は、昼過ぎ頃、家で新聞の番組欄も見ずにテレビのチャンネルを回していると、偶然、「全国童謡歌唱コンクール」という番組が始まるところでした。童謡ねぇ、まぁ、子どもの頃好きだった歌があるかもしれないから久しぶりに聴いてみるか・・・そんな軽い気持ちで見ていると、次々と子どもたちの歌が続いていきました。やっぱり、童謡は、こんな感じかなぁなどと思っていると、「子どもの部」の最後の方で、紅葉した木の葉で胸を飾った3年生の少年は、突然よく伸びる澄んだボーイ・ソプラノで「小さい秋みつけた」を歌いました。この少年の歌はどこか違う、ヨーロッパ的な響きだ。きっと入賞するだろうなぁと思っていましたが、意外にも入賞者の中にその少年の名はありませんでした。しかし、私は、5秒ほど出た字幕で少年の名前を覚えてしまったのです。
  時は移り、その記憶も薄れかけた平成3年(1991年)の夏休み、レコード店で日本歌曲のCDを捜していた私は、隣のコーナーに「なつかしの童謡ベスト30」というCDを見つけて、何気なく手にとってみると、その中に2曲、友一君の歌があるではありませんか。1曲は、コンクールでも歌った「小さい秋みつけた」、もう1曲は「花かげ」。録音のいきさつは知らないが、どうしても聴きたくなって買ってしまいました。4年生のときに録音されたというその歌は、以前にも増してさらに叙情的で気品のある歌唱でした。実のところ、私は、それまで「花かげ」という歌が弱々しくてあまり好きではなかったのですが、友一君の歌によってその認識は一変しました。この歌を作った人は、お月様の孤独を感じるほど極めて美しく繊細な感性を持っているのだということに気付いたからです。
  こんな歌心を持っている少年は、どんな少年なのだろうという私の疑問が解けるときが間もなくやってきました。その年の9月3日の夜、仕事の帰りに書店で本を捜していたとき、私の手は、「ショパン」という今まで触ったことのない音楽雑誌に動きました。そして、何と偶然開けたページに友一君を紹介した記事があるではありませんか。日本におけるボーイ・ソプラノ研究の第一人者・増山法恵先生が連載している「ザ・トレブル」の記事によると、友一君はその後次々と声楽コンクールで輝かしい成績を修めたこと、既に変声期に入ってしまったことなどが書かれていました。これはもう奇跡かもしれない。私は、早速北海道の友一君宛にこれまでのいきさつを書いた手紙を書きました。すると、間もなく返事に添えて2枚のCDや、未発表のテープまでが届けられてきました。そのうち1枚のCDは、家にわずか残っていたという貴重品です。また、テープは、誰にでもというものではないので、さらに価値あるものです。その気持ちがたまらなく嬉しく、こうして交信が始まりました。
  ちょうどその頃、私は、仕事の上で大きな苦悩を抱えており、心が曇ることが少なくありませんでした。だから、送られてきた友一君の歌によって、どれほど精神的に救われたかしれません。これまでも歌は好きであったが、歌に人の心を慰め、癒し、励ます力があることを身をもって知ったのは、この時であるといっても過言ではありません。だから、私は、この出会いに感謝せずにはいられませんでした。そして、変声期が逃れられないものである以上、友一君が美しい歌心を持ったまま無事にその時期を乗り越えてくれるように祈りました。
 それ以来、私は、ボーイ・ソプラノや変声期についてこれまで以上に関心を持つようになりました。そして、研究したことを文章化していきたいと考えるようになりました。それは、同時に、ボーイ・ソプラノ時代に残してくれた歌だけでなく、変声後も歌によって私の心を励まし続けてくれている友一君へのささやかな感謝の気持ちにもなりうるのではなかろうかと考えました。この研究は、そのような動機から始まり、平成6年(1994年)4月には「ボーイ・ソプラノの研究」というワープロ打ちの小冊子にまとまるまでに至りました。

      ホームページを作ろう
 
 開館当時    近  影

  その後、この研究は一時中断しました。その最大の理由は、新しい情報があまり入らなくなったからです。ところが平成10年(1998年)になって状況は一転しました。仕事の関係で平成7年より当時最先端であった情報ネットワークを担当していた私は、個人としてもインターネットをやり始めました。その頃、検索機能を使ってボーイ・ソプラノや少年合唱団に関するホームページを訪ね歩いていた私は、いくつかの少年合唱を扱っているホームページにたどり着きました。このインターネットでの出会いはさらに発展していくつもの新たな出会いを生みました。その方々から、内外のボーイ・ソプラノや少年合唱団に関する情報を紹介していただくことによって、身近には殆どいなくても、全国には同じ趣味を持つ人がたくさんいることに改めて気付き、インターネットの可能性を再認識しました。TOKYO FM少年合唱団のコンサートに行くようになったのもそのようなことがきっかけです。
  しかも、この出会いはさらに大きな発展をしました。いくつかのホームページの掲示板に参加する中で、ネタ探しをしていた私は、平成11年(1999年)初詣で宝塚市の清荒神に行ったときに、広報掲示板の新春コンサートのポスターに他の音楽団体に混じって見た宝塚市の少年合唱団「ボーイズ・エコー・宝塚」を会場まで行って取材することにしました。この偶然の出会いが嬉しかったので、全く面識がないのにかかわらず、プログラムに載っていた指導者の中安保美先生のご自宅に電話して感動の言葉を伝えました。すると、中安先生はたいへん喜んでくださって、これまでの演奏会のプログラムなどを私に送ってくださいました。その後定期演奏会には招待までされ、私の研究意欲はそれらの人々との出会いを通してその一年でにわかに高まってきました。そこで、平成6年に創った「ボーイ・ソプラノの研究」を改訂して自費出版しました。
 そうなると、日本の少年合唱団についてもっと知りたいという想いが生まれてきました。その年の秋には、オーストリアでウィーン少年合唱団と合同合宿・ジョイントコンサートを行った岡山の桃太郎少年合唱団の定期演奏会をインターネットで知り、岡山に行きました。さらに、翌年は桃太郎少年合唱団が主管する「第2回全国少年合唱大会」へ。そこでは、全国に40団体近くあった日本の少年合唱団が諸般の事情で、10団体ぐらいに減り、今も厳しい状況におかれていることを知りました。この二つのコンサートを通して、桃太郎少年合唱団の棚田国雄団長先生や、広島少年合唱隊の登浩二副隊長先生と知り合うことができました。電話や手紙をやりとりする中で、交流はさらに深まってきました。これらの先生方が、ただ、自分の指導する少年合唱団の発展だけを考えるのではなく、日本の少年合唱団全体の発展を願って活動しておられることを知り、ファンサイドでもこれに協力することはできないだろうかと考えるようになりました。
 その第1弾は、広島少年合唱隊が主管する第3回全国少年合唱祭に、ボーイズ・エコー・宝塚はじめ知っている少年合唱団を紹介することでした。残念ながら、諸般の事情でボーイズ・エコー・宝塚の参加は実現できませんでしたが、全国少年合唱祭の精神を生かしたホームページを創って、あらゆる角度からボーイ・ソプラノの魅力を紹介し、危機的状況にある日本の少年合唱団を地域の違いを超えて応援しようという想いはつのっていきました。その頃、同時に関心が高まっていた日本で最初の歌って踊れる少年合唱団「ビッグマンモス」の顕彰も行いたいと思いました。日本の少年合唱隆盛のためには、ビッグマンモスの要素も必要と考えたからです。ビッグマンモスのファンの方はもとより、メンバーの方と知り合うことができたことも、情熱をかきたてました。
 クラス合唱以上の経験もなく、声楽を習ったこともない音楽の素人に何ができるだろうかという想いもありましたが、「恥ずかしい」などと言っていたらいつまでたっても何もできない。そのうちに日本から少年合唱団が消滅したらとりかえしがつかない。日本全国に呼びかけて、共感する人を集めよう。団員と観客増加のためにできることなら何でもやってみよう。その第一歩は、ボーイ・ソプラノと少年合唱の魅力を伝えることだ。それなら、これまでに集めた文献や録音・録画資料だって役に立つ。そのとき脳裏に浮かんだのは高村光太郎の「道程」の一節でした。

僕の前に道はない        
僕の後ろに道は出来る        
 
 こうして、平成13(2001)年9月23日ホームページ「ボーイ・ソプラノの館」は誕生しました。開館当初は、開館をお知らせした人1日10〜20人程度だけが訪問するひっそりしたホームページでした。しかし、おかげさまで共感してくださる方や検索機能で「ボーイ・ソプラノ」や「少年合唱」をもとに訪問してくださる方が増えてきました。日本における少年合唱研究の第一人者である増山法恵先生はじめ20を超えるホームページとも相互リンクしていただくことができました。平成14年12月には、「がんばれ!日本の少年合唱団」という特集記事で、本ホームページは「日本の少年合唱団を応援するホームページが現れた」ということで、朝日新聞の全国版に掲載されました。さらに平成15年11月には、依頼もしていないのにYAHOOに登録。というふうに思いがけない展開になってきました。「貴賓室」にお部屋をつくらせていただいた方々をはじめ、ホームページの発展に積極的に協力してくださる方も現れました。さらに、最近では少年合唱団員レベルでのネットワークを広げようという新たな動きも出てきました。私も、ネットを通して知り合った方々と直接会うことで交流を深めていきました。特にフレーベル少年合唱団OB会は、私の状況に合わせて歓迎会まで開催してくださいました。私も、そうなると、各地の少年合唱団の情報を伝えるだけでなく、それまで交流のなかった少年合唱団をつなぐことをやってみようと思いました。それはまだ細い糸に過ぎませんが。また、同時に壁も感じました。指導者が教育関係者の合唱団と、音楽関係者の合唱団では、理念や組織の在り方がかなり違うということです。それが、全国少年合唱祭の発展を妨げているとも思います。しかし、多くの嬉しい出会いもありました。情報提供をしてくださったり、寄稿してくださったりする方との出会いです。また、秋山直輝君とそのご一家との出会いを通して、一人のボーイ・ソプラノを与えられた少年の「人と歌」の成長を追い続けることができています。
 
その後、平成22年には訪問者ののべ人数は、200,000人を超え、改元直後の令和元年5月には、300,000人を超えました。令和3(2021)年9月23日には、開館20周年を迎えることができました。これも協力者・リンク先・訪問者の皆様のおかげです。ボーイ・ソプラノに関心をもつ人も少しずつ増えているのかなと思います。ボーイ・ソプラノや少年合唱をテーマにしたブログ:ツィッターも増えてきました。しかし、日本の少年合唱団の危機的状況は続いています。最近では日本で一番長い歴史を持つ金沢少年合唱団が平成12年に中心的指導者石本一雄先生のご逝去を機に解散しました。東京都江戸川区にあるそよかぜ少年合唱団も解散状態です。そして、ついに創立50周年を直前にして平成21年には栃木少年合唱団が解散しました。平成27年にはボーイズ・エコー・宝塚が休団になりました。平成27年愛知県において次々と誕生した常滑少年合唱団も少女を入団させて常滑こども合唱団として再出発し、名古屋少年合唱団は、指導者の帰国によって現在休団中です。
 創立当初は、小学生だけが団員であったのに、幼稚園児から高校生にまで団員幅を広げて維持している少年合唱団も少なくありません。それが、当初より混声合唱団をつくることを理念にしていたり、変声後も合唱を続けたいという団員の願いに起因するだけではないところに現在の日本の少年合唱団が置かれている状況の厳しさがあります。これは、単に少子化や受験、少年のスポーツ志向だけの問題ではなく、マスコミがこの分野を採り上げないことや日本の社会全体が緩んできて、「今、楽しかったらええやんか」という風潮が蔓延し、規律と品格ある少年文化が衰退してきたことに根本原因があると考えています。一方、クラシックの分野では間歇的に優れた少年が独唱で活躍していますが、特にポップスやミュージカルの分野では、次々と新しい人材が育ってきています。
 さて、令和2(2020)年1月より、中国武漢から広がった新型コロナウィルスは、世界中に広がり、多くの人命を奪い、あらゆる分野の音楽活動を阻んでいます。ワクチンと治療薬普及が待たれるところです。
 今後とも、「ボーイ・ソプラノの館」は、個人の趣味というレベルを超え、社会的使命感をもって運営していきたいと思います。皆様のご支持・ご支援をお願い致します。

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