本居長世と日本の歌

<日本童謡の祖・本居長世>

 野口雨情作詩・本居長世作曲、あるいは中山晋平作曲という童謡の定番は、いずれも死後50年を経過し,著作権フリーだそうですね。野口雨情(20年1月)、本居長世(20年10月)いずれも昭和20年に亡くなってます。中山晋平は昭和27年。

 本居長世は、東京音楽学校(現・芸大)で、中山晋平、弘田龍太郎らを育て、自らも童謡作曲家として、「十五夜お月さん」、「赤い靴」「青い目の人形」、「七つの子」などを作曲。全国を行脚して童謡の普及活動をした。日本童謡の祖といわれてますが、本居長世について講座と演奏会について参考に紹介・・

 ・・講座 三代目海沼実の唱歌・童謡にんげん史 ・・第2回 本居長世・・
   平成15年11月16日 (日)13:00〜16:00
    東京都渋谷区上原3−6−12 古賀政男音楽博物館 けやきホール
    小田急線代々木上原駅徒歩3分 Tel.03−3460−9051
                     http://www.koga.or.jp/
                     http://www.koga.or.jp/window/new.html
     料金 1,000円(音楽博物館入館料込み) (予約必要とある)
  
 (別に書きますが、古賀政男音楽博物館では他にも時々,幅広く講演会・音楽会などしており、他に貴重な展示もあります。)

<お山のなかのきしゃぽっぽ>

11月5日、NHKテレビで、NHKホールでの演奏会案内がありました。オペラかクラッシックの演奏会で、TOKYO-FM少年合唱団の名が大きく出てました。TOKYO-FMの情報もはいるといいですね。

 ホリデイリデイアと同様、東京少年合唱隊の歌う、「通りゃんせ」(本居長世編曲)をCDで聞きました。元の童べ唄とはちょっと違う感じで、もう40年以上前に録音したものと思われない、・・これが天使の歌声というのか・・いずれも新鮮で生き生き溌剌としてます。少年コーラスの魅力だと思います。

 本居長世作詞・作曲の「きしゃぽっぽ」・・♪お山のなかのきしゃぽっぽ・・というのがありますが、「NHKラジオ深夜便−日本童謡の祖・本居長世」で、本居長世メモリアルハウス(松阪市)の館長の話によると、このうたは全国行脚の途中東海道線の中で作って、宿に着くなり娘に歌はせて作ったものとか・・。
 まだNHKもなく、レコード(の普及・・昭和に入ってから)も無かった頃、3人の娘・・みどり、貴美子、若葉・・を連れて、過酷な蒸気機関車の旅をして、昼は学校で,夜は公民館でと演奏会を開いたそうです。約十数年かけ(秋田を除き)全国津々浦々、まわったそうです。実際にその事を知ってる人が身近にいるということはすごいことですし,またそれほど緻密に普及活動をしたことに,やはり童謡の祖としての重みを感じます。

 童謡というのは、世界に無い日本独特のものだそうですね。文部省唱歌というのがそもそも、日本の伝統的なものの否定から始まったのにたいし、大正デモクラシーの中で、鈴木三重吉ら文学者の間で起こった創作活動。童謡第一号は大正7年に「赤い鳥」に発表された「かなりや」。北原白秋、西條八十・・など、作曲家では、山田耕作、成田為三・・など、当代一流の文学者、詩人、作曲家などが参加している童話を含む子供の歌の創作活動という点で世界に類例をみない運動(童話・童謡運動)だそうです。

 もうひとつ、遅れて大正8年に「金の船」が創刊され、主に野口雨情などが活躍。作曲家では中山晋平、本居長世などが活躍。野口雨情はこの頃、「船頭小唄」を作り、これを機会に、童謡も一気に花開く。

 本居長世は、これまた大変スケールの大きな人で、東京音楽学校で山田耕作とかと同期だが、全学部を通して主席で卒業し25歳で助教授になるわけですが、大正9年35歳で「十五夜お月さん」(野口雨情作詞)を作曲、助教授をやめて童謡作曲家となり,童謡普及活動をするわけですね。
 今に残る童謡の名曲と言われるもののほとんどは、この大正時代後半の数年の間に花開いたもので、ところが戦後童謡黄金時代を待たず、ふたりとも終戦を前後してあいついで亡くなってしまうわけですね…・。

お役立ち情報・・古賀政男音楽博物館>
小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、旧古賀邸・古賀政男博物館跡に古賀政男音楽文化振興財団によって、作られたもので、JASRACのビルと、博物館のビルにわかれてます。
 かって、滝沢秀明と今井翼出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDがあり。)で使われ、一部がここに移設されています。(ついでに、「小学生編」撮影当時、二人とも中学2年生で、140に満たなかったようです。)

 音楽博物館としては唯一のもので、日本の明治以来の大衆音楽に尽くした詩人、作曲家、歌手、約100人が1階に顕彰・展示され、地下1階にある音楽情報室の検索装置で試聴することができます。(HP)・・。
田村虎蔵、岡野貞一、滝廉太郎から、船村徹,遠藤実・・あたりまで、唱歌・童謡から歌曲、歌謡曲まで、全部ではないが相当揃ってます。大方の日本の大衆歌を網羅したデータベースといってよいのではと思います。たとえば西條八十では、童謡から歌謡曲その他約6百曲位がはいってます。音源が無く聞けないものもあり、また残念ながら歌の名で検索ができないが、同じ歌でも歌う歌手が違うのもそれが聞けたりします。たとえば、「お山の杉の子」では、「サトーハチロー」で検索すると、加賀美一郎の、川田正子の、川田孝子のとあります・・。今やなかなか聞けない優れた歌と出会うことができます。

・・博物館1階「けやきホール」(220席)は、講演会・演奏会などに使われる他、一般にも開放し、幅広いジャンルの音楽イベントができるそうです。。(HP)・・http://www.koga.or.jp/hall/index.html

【主な顕彰者】
・詩人:野口雨情、西條八十、サトーハチロー、清水かつら、中村 雨紅、佐藤惣之助、加藤省     吾、・・・、
・作曲家:田村虎蔵、岡野貞一、滝廉太郎、本居長世、山田耕作、中山晋平、成田為三、弘田龍太  郎、草川信、河村光陽、梁田貞、鳥取春陽、佐々木すぐる、古賀政男、海沼実、中田喜直、古関祐而、服部良一、吉田正、船村徹,遠藤実・・・
・ 歌手:松井須磨子、藤原義江、佐藤千夜子、藤山一郎,徳山l、関種子、霧島昇、平井英子、河村順子、川田正子・孝子、安西愛子、並木路子、美空ひばり・・・・音羽ゆりかご会・・(その他HP参照、全100人位http://www.koga.or.jp/dendo/index.html)

 野口雨情   http://www.azabujuban.or.jp/kimi/ujo-kashi.htm

さて、11月18日は、作曲家・故古賀政男の99回目の誕生日ということで、来年の生誕100年を前に、NHKTVで特集をやってました。古賀政男は、実に沢山の弟子を育てたわけですが、その一番若い小林幸子が「古賀政男音楽博物館」にいって、中を中継してました。この中には古賀政男の使った品や、旧古賀邸から移したものの他、大衆音楽に尽くした人の顕彰があり野口雨情、本居長世、中山晋平・・など入ってます。

 本居長世は、文学者から始まった童話・童謡運動を、自ら作曲し、かつ広めることによって、「童謡」という分野を確立し根付かせた人だと思いますが、また同時に中山晋平の師でもあるという点では、単なる「童謡の祖」というだけでなく、「日本の大衆音楽」に大きな影響を与えた人ではないかと思います。
 
 古賀政男は、昭和3年学生時代作曲した「影を慕いて」を歌ってもらった人・・中山晋平の歌を世に広めた、晋平の弟子であり歌手・佐藤千夜子の力添えで作曲家になった人で、長世が出なかったら、多分日本の大衆音楽は違ったものになっていたかもしれません。
 
 本居長世作詞・作曲の「きしゃぽっぽ」は、1927(昭和2)年の作品で、箱根の山を汽車が駆け上がっていく様子を描写していると言われ、舌が回らないくらい早く、と娘に歌唱指導したそうです。蒸気機関車というのは、坂道では忙しく石炭をくべないと、逆送して脱線事故もあるといいます。前後に蒸気機関車を連結して、トンネルの中で、煙でもうもう・・そうした緊迫した状況・・・全国行脚の途中の過酷な蒸気機関車の旅・・をさりげなく歌にしているのでは・・・・。

 昭和2年というのは、昭和になって実質最初の年で、アメリカから青い目の人形が贈られてきたことで有名な年。(大正10年につくられた「青い目の人形」の歌は、これとは関係ない。)
本居長世は、10数年に及ぶ童謡普及運動のなか、大正12年に、娘とともにアメリカ・ハワイに音楽親善使節として行ってるんですね。

 大正12年、関東大震災が起きた年、真っ先に救援物資を送り届けたのはアメリカだそうで、救援物資や医療関係者を乗せた船を次々に東京湾に付けたといわれてますね。特に「NHKラジオ深夜便・・日本の歌・心の歌・・日本童謡の祖・本居長世」によると、ハワイの日系移民たちは自分たちの食費さえ切り詰めて祖国へ義援金を送ったといいます。
 間もなくハワイ、アメリカによる手厚い援助に対する答礼として使節団が派遣され、この使節団に選ばれたのが本居長世。この使節団がハワイ、アメリカ各地で歌や踊りを披露してまわったこと。特に長世と2人の娘、みどり、貴美子による童謡は現地の日系人たちに衝撃的な感動を呼びおこしたといいます。

 この後昭和2年に、アメリカから「友情の人形」・・青い目の人形・・約1万2000体が贈られたことに対し、日本からも振袖姿の人形がアメリカへ贈られた話は有名ですが、約20年後に起きる太平洋戦争によって、多くのアメリカ日系人が収容所で強制労働させられたり、ハワイにおいても学校での日本語教育が禁止され、日本語の書物の焼却がなされたなど、長世にとっては残念な結果かもしれません。でも,余り知られて無いが、国際親善など、大変ひろく情熱をもってとりくんでいたスケールの大きな人であることが分かります。

http://sound.jp/toyoaki/motoori/

<本居長世メモリアルハウス(本居長世記念館)>

 国語学者金田一春彦、歌手の安西愛子などが中心となって記念館設立運動を進め、展示物を集め、本居宣長ゆかりの松阪市に設立した。
松浦館長は、高校の教壇に17年間立った後、1986年から文化サークル「かやの木創房」を主宰した。故郷の文化を掘り起こそうと、長世が全国行脚した足跡をたどった。  
2000年10月には、自宅二階を改装してメモリアルハウスをオープンした。長世の娘・若葉さん(83)(神奈川県大和市)が所蔵する長世自筆の楽譜(原譜など500点)や、遺品約百点を展示している。近鉄松阪駅より車で5分という。

松阪市には,他に「本居宣長記念館」がある、宣長は歌でも知られ、生涯を通して1万首以上の歌を詠んだとされ、宣長と歌にちなんだ資料88種類123点が展示されているという。
 三重県松阪市下村町2203-2
 ・開館時間:10:00〜17:00  (必ず問い合わせた方がいい。)
 ・入 館 料:高校生以上500円
 ・問い合せ:0598-29-6706、6715
 開館記念コンサート http://jr2uat.cool.ne.jp/space/press2003/hotnews69.htm

http://www.echna.ne.jp/~kumachan/iihanasi/83b.html

先日、15年11月30日の朝日新聞、「読者のページ」に「平和の使節」と題し、・・11月10日に東京の日本青年館で、昭和2年に、アメリカから送られた、「青い目の人形」とその答礼の「日本人形」計111体が集まり“同窓会”。平和を願い、今年も各地で里帰りの日本人形展が開かれた。・・という記事があり、日本人形を前に『青い目の人形』を歌う子供たちの写真が大きくのってました。

本居長世は全国行脚・・北海道は勿論、台湾、朝鮮、樺太にもおよんだといいます・・や、アメリカ・ハワイで、娘に「青い目の人形」(藤間静枝 振り付け)の踊りを踊らせ、歌をうたい大変好評を博したといいます。

◇本居長世作品(合唱曲)◇

秋のおとずれ      (二部)      (川路 柳虹作詞)
蟻の行列        (四部)      (本居 長世作詞)
嬉しき日        (男性三部)    (吉丸 一昌作詞)
落葉栗かよ       (同声二部)    (北原 白秋作詞)
枯山歌         (三部伴唱付独唱) (野口 雨情作詞)
如月の夜        (同声二部) (佐竹 忠治作詞・石井 潔編曲)
如月の夜        (混声四部)    (佐竹 忠治作詞)
郷愁          (二重唱)     (北原 白秋作詞)
桐の花         (女声三部)    (西條 八十作詞)
荒城の月        (同声四部)(土井 晩翠作詞・滝 廉太郎原曲)
木枯          (同声二部)    (青木 歌子作詞)
國學院大學校歌     (混声四部) (芳賀 矢一作詞・山岸磨夫編曲)
山椒の木        (男性四部)    (野口 雨情作詞)
ジャンヌ・ダルク *  (独唱及び三部伴唱付二重唱)(西條 八十作詞)終戦讃歌  (混声四部)    (不詳作詞)
春宵          (同声二部)    (西條 八十作詞)
大漁唄         (部分四部)    (本居 長世作詞)
宝船          (男性三部)    (古 歌作詞)
玄鳥          (三部)      (沢村 胡夷作詞)
露           (三部)      (鈴木 鼓村作詞)
涙の幣         (四部)      (吉丸 一昌作詞)
婆やのお家       (男声四部)    (林 柳波作詞)
春           (混声四部)    (本居 長世作詞)
ほろ酔いのワルツ    (二重唱・喜歌劇「死神」より)(本居 長世作詞)
祭り囃子        (同声三部)(福島 貞夫・金田一 春彦作詞)
祭り囃子        (混声四部)    (金田一 春彦作詞)
夢は何とて       (女声二部・尺八助奏付)(生田 春月作詞)
別れ路         (二部)      (本居 長世作詞)
お会式行進曲      (混声四部)    (林 柳波作詞)
重誓偈         (独唱付混声四部) (仏説無量寿経作詞)
般若心経        (男声三部)    (玄奨作詞)
妙中尼         (交声曲)     (高安 月郊作詞)

国語辞典の編集の他、唱歌や童謡の世界でも有名な、国語学者・金田一春彦(大正2年、東京都文京区生まれ、昭和12年東京帝国大国文学科卒業)は、本居長世に師事した熱心な押しかけの弟子だそうですが、野口雨情や本居長世の研究、童謡の紹介のほか、平家琵琶は自らも奏でることで知られているようです。本居長世という人は知れば知るほどおどろきです。

 金田一先生は学生時代に、まだ東京音楽学校生で、本居門下生でもあった藤山一郎が本名・増永丈夫で歌った「ジャンヌ・ダルク」(西條八十作詞。)という歌を聴いてすばらしいと思ったといいます。本居長世は、10数年にわたって、日本全国津々浦々、旧樺太まで行脚したといいますが、800曲近い作品を残してるようで、童謡の他、「通りゃんせ」「向こう横丁」「咲いた桜に」など日本古謡の編曲、「夢」「月の国」「浮れ達磨」などの小オペラ、「荒城の月」(滝廉太郎原曲)、「婆やのお家」(林柳波)、「郷愁」(北原白秋)、「山椒の木」(野口雨情)などの合唱曲や、祝典曲、仏教曲、御製御歌等があるんですね。いくつかを参考にピックアップべてみました・・。
   (参考)
  金田一春彦編「本居長世作品選集」如月社、昭和57年
  金田一春彦・本居若葉共編「本居長世童謡選集・・七つの子」」如月社昭和62年


 NHKラジオ深夜便「日本の歌こころの歌」は、深夜3時台ですが、時々いいのをやってました。
11時くらいに、その日の予定を流しています。

                <CD紹介>
  CD「NHKラジオ深夜便―日本の歌こころの歌 7−日本の名唱」  (全24曲)
                         コロンビアCOCP-31191
    ある晴れた日に(三浦環)、女心の歌(藤原義江)、からたちの花(関屋敏子)
    ローレライの歌(関種子)、ふるさとの(木下保)他全24曲
    (なお、昭和47年にコロンビアからLP『三浦環名曲集』というのがでました。)


  人間の記録27、三浦環著、吉本明光編「三浦環 : お蝶夫人」日本図書センター1997.6
                               ・・・三浦環回想録
  瀬戸内晴美著「お蝶夫人 : 小説三浦環」講談社1969・・・図書館に

<作曲家 本居長世の碑>




 昭和60年4月4日 本居長世生誕100年にあたり序幕だそうです。説明には、「童謡は、第一流の詩人が子供のために詩を書き、第一流の音楽家が子供のために曲を付けた日本の文化財です…。」とあり、次に童謡の中での、最初の芸術的な童謡としての「十五夜お月さん」の意義が続きます。
 
 記念碑建設実行委員会(委員会会長 金田一春彦)の名が別に掲示されてて、70名のうち主だった者を掲載順に挙げると:
 藤山一郎、金田一春彦、安西愛子、西條嫩子(ふたばこ)、芥川也寸志、五木ひろし、海沼美智子、 楠本憲吉、砂原美智子、高峰三枝子、由紀さおり、高橋圭三、竹下景子、団伊玖磨、中田喜直、長門美保、中山卯郎、野口不二子、森昌子、森繁久弥、山川静夫、山本健吉・・(他全70名)
  その他そうそうたる人たちが連ねている。このうち、海沼美智子は川田三姉妹の一番下で、海沼実の「音羽ゆりかご会」の代表をついでいる。中山卯郎は中山晋平子息、野口不二子は野口雨情の孫で、よくテレビにでる。

目黒不動尊はJR渋谷駅東口から東急バス(渋72系統)がいい。


<本居長世と金田一春彦>

本居長世(明治18年(1885)4月4日 〜昭和20年(1945)10月14日。)は、江戸時代の国学者・本居宣長の子孫ですが、宣長4世・豊穎(とよかい)の孫、つまり宣長の6代目(大平系)にあたる。(ちなみに3年前(2001)で、本居宣長没後200年だそうな。)
生後1年で母と死別、父も家を去り祖父豊穎(とよかい;大正天皇の皇太子時代の侍講を勤めた.)に育てられたそうです。

明治41年東京音楽学校本科を全学首席で卒業。同期に山田耕筰がいたが、とても長世の比ではなかったといいます。その後も邦楽調査員補助となり母校に残り、25歳で助教授になる。

長世は童謡以外にも、さまざまな活動があり、大正7年には、「如月社」を結成し、邦楽と洋楽の調和を探る。この活動を通してやがて尺八の吉田晴風や箏の宮城道雄と組んでの新日本音楽運動へと発展、民謡興隆の原動力となったといいます。邦楽を好んだ長世の関心は奥浄瑠璃、琉球歌謡、流行歌にまで及び、文字通り今日の日本の大衆音楽に大きな影響を与えてると考えられます。(「江戸祭の唄」,「哀別」「別後」など、民謡に類別される歌も作っている。)
「如月社」は現在でもあって、本居長世の作品の楽譜や、本を扱ってるようです。

金田一春彦氏は、国語学者として有名でテレビによくでますが、方言にも精通しており、電話を利用した犯罪があった場合、犯人のアクセント等から、出身地の推定して犯罪捜査への協力をしていて、しばしばニュース番組等で見かけるときがあります。
彼が国語学者になったのは、本居長世の影響だったと書いています。旧制高校時代に、本居長世宅におしかけて「弟子入り」する。そのきっかけが、藤山一郎が本名・増永丈夫で歌った長世の歌曲に感動したということだそうです。勿論金田一春彦氏の父親は、さらに有名な国語学者金田一京助。アイヌ文学研究、アイヌ語学の創設者で、「辞海」「明解国語辞典」「新選国語辞典」など辞典の編纂にかかわった。

 でも父親の金田一京助は相当教育熱心で、それが春彦氏にはプレッシャーになっていたらしい。そのせいか氏は音楽に惹かれていった。この点で長世も金田一春彦も同じで、本居長世も、当然国語学をする事を期待されてたのにも関わらず、音楽の道に入った。そして、金田一春彦には、国語学を勧めたようです。

 長世の曲には、合唱曲「祭り囃子」のように、金田一春彦の詩に曲をつけたものもある。
なお、長世も御前演奏したり、「御歌」といって、三笠宮の若い頃の詩に曲をつけるなど、祖父豊穎のように、皇室関連の仕事をしていたといいます。
 
 昭憲皇太后詩 本居長世曲 「まいのそで」・・まいのそで かえすもあわれ・・
 
 本居長世が目黒不動尊のそばに長く居住し、「七つの子」、「赤い靴」、「青い人形」等の作品を作り出したわけですが、金田一春彦氏は、目黒区に住み、童謡・唱歌のサークル「童謡の里めぐろ保存会」活動を行っているそうです。(昭和60年4月4日発足、会員数約360人、コンサートは平成7年度から開催)

 沼津の沼津港口公園には、やはり金田一春彦の筆による本居長世記念碑が建っていているそうです。
  http://www.city.numazu.shizuoka.jp/bunkazai/bungaku/nagayo.htm


 
 明治維新以後、和歌山本居家は東京に出、以後の墓所は谷中霊園となり、谷中霊園には、「本居家之墓」があり、長世はここに眠るといいます。

<本居長世と「新日本音楽」活動>

 本居宣長の正系で、将来は祖父の後を継いで国文学者になることを期待されていた本居長世が、祖父の反対を押し切って音楽の道に進むきっかけは、独逸協会(独協)中学に入ったことだそうですね。中学の講堂の大きなグランドピアノがあって、明治の中頃のことだからそんなものを置いている中学校は他にはまずなく、ドイツ系の学校なので式典のときなどは外国人の音楽教師がグランドピアノを流麗に奏でたといいます。長世はこの黒光りする巨大な楽器から流れ出る軽快で美しい調べに酔った。NHKラジオ深夜便によると、どうしてもピアノが欲しくてたまらなくなった長世は紙に鍵盤を書いて机に置き毎日ピアノを弾くマネをして叩いていたという。

 東京音楽学校に入って、学業の成績は、いつも主席だったそうです。ピアノのほうは、ドイツ人教師のハイドリッヒそして、フォン・ケーベル(哲学者でもあり、夏目漱石の「ケーベル先生」に描かれている。)の授業を受けたという。独協中学出身の長世はドイツ語が堪能であり、ドイツ人教師と親しく交流することができたといいます。
 本居長世にピアノを師事した藤山一郎によると、当時ピアノの名手というのは、本居長世と、その弟子・弘田龍太郎だったといいます。

 あまり知られてないが、本居長世には歌曲・童謡など800曲近い作品がある。因みに、山田耕筰は700曲近く(うち軍歌が100曲以上)という。楽譜は、春秋社等の他、佐竹楽譜は如月社系で、本居長世の楽譜を専門とするようです。
 本居長世の作品には近世邦楽的な要素が見られるといわれ、[お山の大将](西條八十)の「お山の大将 俺ひとり・・あかい夕日の 丘の上]から「こども四人があおくさに・・」にかわるところのように、途中で急に曲調がかわる(転調が多い)など特徴がある。山田耕筰にも[お山の大将]や[俵はごろごろ](野口雨情)があるが本居長世のが一般に歌われている。山田耕筰の「俵はごろごろ」など、モノトーンさを感じさせるのとは一味違って、そこには哀調を帯びた包み込む「暖かみ」が何ともいえなく魅力で好きです。金田一春彦も「十五夜お月さん」など本居長世の歌の魅力の一つに何より「暖かさ」があるとも書いてます。・・ひとりしみじみと聴く(謂うところの癒し)の歌には大変いい歌だと思います。このあたり岡田孝はコロンビア少年合唱団とみごとに歌ってると思います。この歌は、外国曲の紹介が多いNHK『みんなの歌』(1967/6)でも、立川澄人とひばりケ丘少年少女合唱団が歌ってて、LPになってると思います。

 そのルーツとなったのは、明治41年、東京音楽学校を主席で卒業した長世は卒業後すぐに母校に招かれ(文部省)邦楽調査掛として、箏曲や長唄など日本の伝統音楽の研究活動に従事する。洋楽にしても、日本の音楽との調和は大きな課題だったようだ。大切なことは長世はこうして、日本的なるものを外国ににではなく、日本の伝統音楽の中に求めていくということ、それがフレームワークになっていく。そして、「春の海」で知られる邦楽家・宮城道雄と「新日本音楽」という活動を展開する。これは、日本の伝統を洋楽の中に生かすことを目指したもので、その後日本の声楽曲における作曲のパイオニアとして活動することになる小松耕輔、弘田龍太郎、梁田貞らの作曲研究会に大きな影響を及ぼしたといわれます。
 1920(大正9)年には,宮城と作曲家本居長世の作品発表会が,「新日本音楽大演奏会」と名付けられ,ここで発表された「十五夜お月さん」 が大きな反響を呼び、人気童謡作家として知られるようになる。

 ついでに、こうした童謡運動と並ぶ新しい文化運動に、昭和の初めの新民謡運動(童謡・新民謡運動)があげられる。新民謡には、[須坂小唄]「中野小唄」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)などのいわゆる民謡の他、「旅人の唄」「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)・・などの歌曲もある。本居長世も「豊作唄」「江戸祭りの唄」など新民謡に類別される曲を作曲している。

 新民謡運動に集まった野口雨情、中山晋平、本居長世、藤井清水、佐藤惣之助、北原白秋、西条八十、・・歌手の佐藤千夜子、藤本二三吉、・・・はその後の昭和の歌謡・歌曲を担う中心人物となっていく。新作地方民謡が沢山作られるとともに、「船頭小唄」「紅屋の娘」( 野口雨情/中山晋平)・・のように、新民謡は歌謡・歌曲として盛んになり、その後の歌の原型がみられる。

 (昭和3年[波浮の港]を歌った佐藤千夜子・・中山晋平の弟子で、晋平の歌を世に広めた歌手・・は、レコード歌手第一号と言われ、また、同年、まだ明治大学学生だった古賀政男の[影を慕いて]を始めて歌い、今までとはまったく系列の異なる作曲家古賀政男を世に出すきっかけとなった。

 最近忘れられようとしてるようですが、日本の貧しい時代の歌の中には、何か温かみ・・やさしさ・・が感じられるものが少なくないというのも、こうした音楽の歴史的風土があるからでようか。そういういろいろな意味では,本居長世は今日の大衆音楽にも大きく影響しているのではないでしょうか。

 なお、本居長世は本居豊穎など本居家の者とともに、文人書家として名を連ねてもいる。他に、西園寺公望、近衛文麿、川端康成、佐々木信綱・・、などの名がみられる。(『大日本書画名家大鑑』荒木矩 昭和9年(1934))


◇CD等紹介・・合唱曲◇
・CZ28-9103 最上川舟唄―合唱名曲コレクション30   東芝EMI(株
【12】ちんちん千鳥
詩:北原白秋/作曲:近衛秀麿/編曲:林雄一郎
合唱:関西学院グリークラブ
【13】婆やのお家    
詩:林柳波/作曲:本居長世/編曲:福永陽一郎
合唱:同志社グリークラブ
【14】からたちの花
   詩:北原白秋/作曲:山田耕筰/編曲:林雄一郎
合唱:関西学院グリークラブ

・VICTOR SJX-1058(RB074)
婆やのお家
東京リーダーターフェル・フェライン(荒木宏明)

婆やのお家
 http://www.lcv.ne.jp/~chorus/yamabiko/wave_ensou.htm


◇本居長世主要作品(童謡等)◇ 
人買船 (野口雨情)
四丁目の犬 (野口雨情)
十五夜お月さん (野口雨情)
青い眼の人形(野口雨情)
七つの子 (野口雨情)
俵はごろごろ (野口雨情)   *
汽車ポッポ (本居長世)
めえめえ子山羊(藤森秀夫)
 ないしょ話 (本居長世)
ニャンコロリン(本居長世)
運動会 (本居長世)
 キャラメル(本居長世)
お馬のお耳 (野口雨情)
向う横町 ---- 江戸時代童謡/編曲 本居長世
通りゃんせ ---- 江戸時代童謡/編曲 本居長世
居眠り地蔵(竹久夢二)
歌の中 (野口雨情)
呼子鳥 (野口雨情)
信号燈(海野厚)
乙姫さん(野口雨情)
ダリヤ(若山牧水)
お月さん(西川勉)
あの山蔭(野口雨情)
山彦(野口雨情)
海ひよどり(野口雨情)
鳥羽絵(野口雨情)
江戸祭の歌 (野口雨情)
わらび (北原白秋)
豊作唄 (野口雨情)
からす(島木赤彦)
こもりうた(北原白秋)
にわとりさん(野口雨情)
小石 (野口雨情)
帰る雁 (野口雨情)
三日月さん(野口雨情)
霜柱 (野口雨情)
泣く子 (野口雨情)
お人形さんの夢 (野口雨情)
お城(久保田宵二)
姨捨山

  
〈本居家の系譜と長世〉
 敗戦後のみならず、明治以来、日本が西洋の文明に追いつくことを目標にして西洋一辺倒だった19世紀末においてさえ、たとえば日本の江戸時代の浮世絵が、ゴッホなどに代表される19世紀末の印象派の画家たちに大きな影響を与えたといわれている。当時二束三文でしかない、包み紙にしかならなかった「浮世絵」をみた、ヨーロッパの画家たちは、そこに衝撃を受けたという。
 しかし、音楽の分野では、日本の音楽と西洋音楽との調和は、大きな課題ではあったが、絵画と同じで、依然、フランス印象派とか、ドイツロマン派とかいって崇め、「日本語」の語法・アクセントさえも、西洋音楽を至上のお手本とするものだった。したがって、多くの作品の中には、芸術と崇められたものがある反面、日本の感性とはかけ離れたものとなって、ぜんぜん顧みられることのないものも少なくない。
 宮城道雄、本居長世、弘田龍太郎らで進められてきた「新日本音楽運動」は、日本語を使う日本人の手で、本居宣長に代表される日本の伝統美学に根ざす伝統音楽と、西洋音楽との融合・・西洋音楽の中に、伝統音楽の美学を取り入れる・・をめざすものであったということができよう。
 本居宣長(1730〜1801)は、伊勢国松坂生まれ、日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆する。宣長長男春庭・・盲目の国学者(家督を養子太平に譲った。)・・とともに、松坂 新町 樹敬寺に墓がある。

 宣長は、揺れ動く人の心・・美学・・を、「物の哀れを知る」と言い、歌や物語は物の哀れを知ることから出てくる物であると言っている。

 本居長世は、江戸の国学者本居宣長6代目に当たる。代々後継ぎは国学者でなければならない厳しい国学(国語・国文学)者の家に生まれた。2才で実母を亡くし父も出奔し孤児となり、国文学者の4代・祖父豊穎に育てられた。

 さびしい子供時代をおくったことが、童謡のやさしさなどその後の活動に大きな影響を及ぼしたという。そこで、その本居家(本居学派ともいえる。)の系譜について簡単に見てみる。(晩年、長与は「長豫」と改める。)

 昔は、家督相続するのは「長男」と決まっていたので、男子がいなかったり、早く死んだりして「養子」をとることが多い。本居家もそうで、さらに国学者でなければならない。そして、宣長以降2代続いて養子が家督をついで、いずれも国学者である。

 宣長長男本居春庭(もとおり・はるにわ)(1763〜1828)は、13歳の時に賀茂真淵『にいまなび』を写す。以後、書物や地図などを写し父の研究を助けるが、病弱で目を患い32歳で失明。その後、35歳の時にいとこと結婚するが、家督を養嗣子・稲懸大平に譲り、自分は「厄介」として家に残る。失明後にも歌、また詞の研究で顕著な業績を残す。現在中学校の「国語」教科書に載ってて暗記させられた用言・助動詞の活用形(4段活用)の研究に大きな功績を残した人でもある。
(参考書)足立巻一「やちまた」(本居春庭の評伝)朝日文芸文庫
 大平は、のち紀州藩に仕えることになったが、藩命によって以後和歌山に居を移した。ここに和歌山本居家(大平系)となった。和歌山本居家二代当主本居内遠から、墓は東京に移っている。

 2代  本居大平(もとおり・おおひら)(1756〜1833)・・和歌山本居家。

 宣長の信頼が厚く、寛政11年(1799)本居宣長の養子となる。3年後、32歳で失明した宣長の長男春庭に代わって家督を継ぐ。宣長死後は春庭に代わって本居家を相続し、本居三四右衛門と称して、盲目の春庭を養護した。のち紀州藩に仕えることになったが、藩主治宝の命によって和歌山に居を移し、『万葉集』『源氏物語』『古事記』等について侍講することとなった。墓は和歌山市男ノ芝丁の臨済宗 吹上寺にある。

 3代  本居内遠(もとおり・うちとお)(1792〜1855)・・和歌山本居家二代当主。
本居豊穎の父。大平養子。15歳の時宣長の著述を読み、以後、植松有信や鈴木朖の講説を聞く。大平に入門。40歳、大平の娘藤子と結婚、養子となり、名を内遠と改める。義父大平の後を継ぎ、紀州徳川家に仕え『紀伊続風土記』編纂。

 また『新撰紀伊国名所歌集』に携わる。安政元年江戸の藩校古学館再建で江戸に下り講釈をするが、翌年赤坂藩邸に置いて死去。長男豊穎が代わりに下向し大任を果たす。和歌山本居家の内遠の墳墓は、東京都品川区、東海寺大山墓地にある。

 4代  本居豊穎(もとおり・とよかい)(1834〜1913)

 本居宣長の曾孫。歌人,国文学者, 帝国学士院会員、文学博士、東宮侍講。父内遠、母藤子の長男。母の指導宜しく父の後を継ぎ紀州藩の江戸古学館教授。維新後は明治天皇・に仕え東宮侍講も務めた。後継者に恵まれず、娘の没後、婿(5代)も離縁し、孫長世(6代)を育てる。

 国学の家の子として、豊穎の後を継ぐはずであったが、独逸協会(独協)中学に入ったことで、急速に音楽の道に進みたいと思うようになる。
彼自身も国語学・国文学に造詣が深く、作曲にあたっては、言葉を重んじた。母校・東京音楽学校の教壇にたち、広田龍太郎、中山晋平はじめ、草川信、成田為三など、その後の日本の作曲の中心として活躍する多くの音楽家を教えた。また、みどり、貴美子、若葉の3人の娘を連れて全国行脚して、童謡普及に尽くした。
 
 JR日暮里駅南口から谷中霊園内の桜並木を通って、交番角を左側に入った徳川墓地を囲む一帯、「乙10号―左4側」区画に、「本居豊穎の墓」、妻「本居鎮子墓」、本居家の墓がある。長世は、「本居家の墓」に入ってる。谷中霊園には、宮城道雄(1894〜1956)の墓(乙4号7側)もある。  
        
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魁としての本居長世

 本居長世は、「十五夜お月さん」が作られた大正9年頃より、目黒不動の近く、三折坂下に居を構え、作曲活動をしていた。そして、目黒不動には、昭和60年本居長世生誕100年を記念して「作曲家本居長世の碑」が建てられた。その碑には、藤山一郎の筆になる「十五夜お月さん」の譜面と、金田一春彦の筆、長世の写真が刻まれている。

♪十五夜お月さん ご機嫌さん ばあやはお暇とりました。・・・

と始まる、野口雨情の、「十五夜お月さん」、・・<一家離散の憂き目に会ったこども>の、満月に寄せる悲しみを歌ったものだが、童謡が作られた時代は、一家離散の憂き目に会ったこどもも、少なくなかったと思われる。この歌は、そうしたこどもへのやさしさではないでしょうか。

 実はあまり知られてないが、作曲者・本居長世自身、この歌そのものままに、3歳で実母を亡くし、父も出奔、祖父である東宮侍講・本居豊穎に育てられた。父母の名がどこにも出てこないのはこのためで、さびしい子供時代を送ったという。このことが、その後の本居長世の童謡などの音楽に大きな影響を与えたようだ。

 本居長世は、和声学についても造詣が深く、転調を好んだので、「お山の大将」(あかい夕日のおかのうえ・・)、(「青い目の人形」(・・日本の港へ着いたとき・・)、「俵はごろごろ」(お米は・・)などにみられるように、単調でない日本的感性を醸し出している。

 さて、音楽の道に進んだとはいえ、国文学者・本居豊穎に育てられた本居長世は、国語・国文学に造詣が深く、その中で作曲に当たっては、原作の言葉を重んじ、アクセントに忠実なメロデー作りをしていて、この分野でも魁であるという一面も忘れてはならない。もちろん、アクセントだけが曲の要素ではなくそのようにしてるようだが。

 昔、欧米一辺倒だった音楽界では、依然「ドイツ・ロマン派」とか「フランス印象派」などの名で代表されるものを至上のものとしていた。そして一般に、「“ドイツロマン派の語法”(アクセント)」を始めて導入したとして、山田耕筰が評価される。
「漢字と日本人」、「中国の古典文学 : 作品選読」(伊藤漱平編、東京大学出版会)などを書いている高島俊男氏は、この点について著書で次のように書いている。

・・・彼(山田耕筰)は旋律と日本語のアクセントを一致させようとした最初の人とされている。そして最初の試みが大正14年の「からたちの花」だとされている。ただしほんとうは、その5年前に本居長世の「お山の大将」がその最初の試みなのだそうだ。「からたちの花」がたいへん著名で、しかも山田耕筰が「オレがはじめてやった」と吹聴するので、そっちに名誉を奪われてしまったらしい。(高島俊男著『お言葉ですが』文芸春秋社1999)

 金田一春彦は、日本語のアクセントについて沢山の著書があるほか、なにか電話を使った犯罪の時、アクセントからその出身地、職業などを言い当て捜査に協力しているという、アクセントについては、右に出る人がいない。また、金田一春彦は、本居門下に入って、音楽の造詣も深い。彼は音楽における、アクセントについて著書「童謡・唱歌の世界」(教育出版)で次のように書いている。

・・・旋律の上に、歌詞のアクセントを反映させることは、「尋常小学唱歌」の時に、すでに見られたが、それは第一節の歌詞のアクセントに旋律を合わせたもので、第ニ節の歌詞のアクセントには及ばなかった。…童謡では一番、二番で歌詞のアクセントが違えばそれに応じて旋律をかえることも行なわれた。「からたちの花」(山田耕筰作曲)が有名であるが、「お山の大将」(本居長世作曲)がその先駆といわれる。
 一番見事な例は「証城寺の狸囃子」(中山晋平作曲)で、寸部の狂いも無い出来である。
 「ちんちん千鳥」(近衛秀麿作曲)も細心の出来であり、「雨降りお月さん」「肩車」(中山晋平作曲) も良い。・・(P.99)
 
 童謡は、大正半ば頃(7〜9年)できて、大正後半までの5年くらいの間に今にのこるほとんどの曲ができていて、山田耕筰の曲が出てくるのは、大正末から昭和の初めにかけてだ。

 金田一春彦は、さらに次のようにアクセントに優れた作曲家として中山晋平を挙げている・・彼は山田や本居と違って、言葉のアクセントということについてあまり口にしないから、ちょっと気付きにくいが、アクセントのあしらいの点で誰よりもうまいと思う。
 山田耕筰のものは、いかにもアクセントにあった旋律を作っていますと言ってる様で、普段の言葉遣いに近すぎる。そこへ行くと、中山は、旋律の流れを変えることなく、アクセントを活かした天才である。・・

 山田耕筰のものは、普段の言葉遣いに近すぎる。・・これは、「からたちの花」のように歌によって選択的にはよいが、たとえば「砂山」「俵はごろごろ」のように、確かにあまりにも普段の言葉遣いとあまり変わらない(モノトーン)ものになってしまってるものがあるのも事実。
 彼の「お山の大将」「俵はごろごろ」、「兎のダンス」・・・・など歌われない理由かもしれない。 これに対し、中山晋平などのは、そうなっていない。言われるようにひろく「“日本語”と西洋音楽の融合」となると、「日本語」の話と音楽との融合した話でもあり、やはり本居長世等の活躍分野だっただろう。

 NHK[ラジオ深夜便]で、松浦館長は、記念館が作られた背景について、敗戦直後に亡くなった長世の活動を埋もれさせたくないという趣旨が強くあったようだ。


                                 
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