土管坂(常滑市)
 「土管坂」は常滑市内にある坂の一つ。窯業の発達した町には、陶土の産出の関係もあるのかもしれないが、坂道の多いところが目立つ。常滑もその例に漏れず、市街の真ん中でもかなり急勾配の坂がある。
 土管坂の土管は、そういう急傾斜地に人為的に作らざるを得なかった切通しの崩落を防ぐ役割を果たしている。
 ちなみに、写真向かって左は見るからに土管だが、右手側の壁面を埋め尽くしているのは、焼酎瓶だそうな。

大御堂寺・源義朝廟(美浜町野間)
 義朝墓碑と木刀の関係。廟のすぐ近くでサイズをいろいろ取り揃えて販売されている。ただ、大サイズでも本物の木刀よりははるかに小さく、実戦品ではない。木刀の1本1本には奉納した人の名前などが書かれている。
 同じ場所には義朝と同時代を生きた人たちの墓碑もあるのだが、一人だけ別時代の人なのが織田三七郎信孝。
 本能寺の変後、羽柴秀吉は信長嫡男・信忠の子である三法師を織田家の継承者とした。これに対し、信孝は柴田勝家に担ぎ出されるも、勝家は賊ヶ岳で秀吉に敗れて自刃。これによって三法師が織田家の正統継承者となったが信孝の不満はおさまらず、再度秀吉に反旗を翻す。結局信孝は敗れ、ここ大御堂寺に蟄居させられていたが、ついに秀吉の命令で自刃することになった。そのときに残した辞世が「昔より主を討つ身(内海)の野間なれば 報いを待てや羽柴筑前」というもの。自分の身を、家臣に裏切られ殺害された源義朝になぞらえ、羽柴筑前(秀吉)に対する憎悪を剥き出しにした壮絶なものだった。時に天正11年(1583)5月2日。
 信孝にとっては恨み骨髄の秀吉が築いた大坂城が落城し、息子の秀頼らが自害したのは元和元年(1615)の5月8日。信孝命日の直後だったために、豊臣滅亡は信孝の怨念のなせる業だったという噂もあったようだが、自身が行う「主殺し」の罪業を薄めるために家康が因果応報を演出したというのが実際だろう。 

野間灯台・愛の南京錠伝説(美浜町野間)
 美浜町・野間にある野間灯台は、密かに縁結びスポットとして知られている。誰言うともなく、この灯台のフェンスに南京錠をかけていく風習が始まって今に至る。一昔前には錠前の重みでフェンスが変形するほどだったとか。
 しかし、この近くは三河湾国定公園に指定されていて、「付近を汚すと罰せられますよ」という但し書きもされている。フェンスに錠前をぶら下げていく行為は、国定公園を汚す行為にはあたらないものだろうか。写真にあるような落書きは完全にNGだと思うのだが。
 
 
大慈山中之院・軍人像(南知多町山海)
 247号線からは少し外れて、山海の奥地に入り込んだところにある中之院。そこに安置された軍人像。石像のように見えるが、正確にはコンクリート製の塑像のようだ。
 もともとは名古屋市千種区月ヶ丘にあった。「近場だし行ってみようか」と思い立ったものの、よくよく調べてみると知多半島の先端の方に移されたという。いろいろあって、今回初めて拝見する事が出来た。
 像の多くは昭和12年の上海上陸作戦で戦死した人をかたどったものだという。戦死者の遺族が、戦没者一時金を使って、写真に残る故人の面影を再現し、昭和12年から18年にかけて建立された。
 終戦後に進駐軍がこの像の破却を命じた時、この像を管理していたお坊さんが、「この像を日本人の手で壊すことは出来ない。どうしてもというなら私を殺してあなた方が壊せばいいだろう」とがんばったので、現在にまで残すことができたとのこと。
 目立つ道案内があるわけではないので、若干探しづらい。地図はこちら