『死刑執行→無罪放免?』暫定対応


 死刑の話
2004.02.07

 
 以前、「死刑執行された囚人が、なんらかの原因で生き残った(あるいは蘇生した)場合は、拘留を解かれて釈放される」と言う話を掲載しました。それから比較的短期間の間に、のんびりとしたペースで展開しているはずの当サイト掲示板に、結構な数の反響が寄せられました。そろそろ話題がループしだしそうな気配だったので、ここで一旦、この話に関する諸情報をまとめておきます。本来ならば注釈として付記しておくのが良いとは思いますが、何しろ話が法律の分野に踏み込み、あまりにもややこしくなりそうなので、事情に詳しい専門家の方宛のご意見伺いと言う意味も込め別項としました。高度に専門的な話題で、多分に誤った情報が含まれる可能性があることはあらかじめお断りしておきます。

 まず、話をすすめる前提となる情報から。

■死刑に関する条文が含まれる法令
 死刑について言及し、今回の話に関係してきそうな法令は、確認した範囲内では以下の通りです。

情報提供:ultraCSさん
刑事訴訟法

 第四百七十五条  死刑の執行は、法務大臣の命令による。
 ○2
 前項の命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。


 第四百七十六条  
 法務大臣が死刑の執行を命じたときは、五日以内にその執行をしなければならない。

 第四百七十七条  
 死刑は、検察官、検察事務官及び監獄の長又はその代理者の立会の上、これを執行しなければならない。
 ○2
 検察官又は監獄の長の許可を受けた者でなければ、刑場に入ることはできない。

 第四百七十八条  
 死刑の執行に立ち会つた検察事務官は、執行始末書を作り、検察官及び監獄の長又はその代理者とともに、これに署名押印しなければならない。

 第四百七十九条  
 死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する。
 ○2  死刑の言渡を受けた女子が懐胎しているときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する。
 ○3  前二項の規定により死刑の執行を停止した場合には、心神喪失の状態が回復した後又は出産の後に法務大臣の命令がなければ、執行することはできない。
 ○4  第四百七十五条第二項の規定は、前項の命令についてこれを準用する。この場合において、判決確定の日とあるのは、心神喪失の状態が回復した日又は出産の日と読み替えるものとする。

刑法

 第十一条  
 死刑は、監獄内において、絞首して執行する。
 2  死刑の言渡しを受けた者は、その執行に至るまで監獄に拘置する。

(以下、管理人追記)
 第三十二条 
 時効は、刑の言渡しが確定した後、次の期間その執行を受けないことによって完成する。
 1 死刑については三十年

 第三十四条 
 死刑、懲役、禁錮及び拘留の時効は、刑の言渡しを受けた者をその執行のために拘束することによって中断する。
 2 罰金、科料及び没収の時効は、執行行為をすることによって中断する。

 第四十六条 
 併合罪のうちの一個の罪について死刑に処するときは、他の刑を科さない。ただし、没収は、この限りでない。

 第六十八条 
 法律上刑を減軽すべき一個又は二個以上の事由があるときは、次の例による。
 1 死刑を減軽するときは、無期の懲役若しくは禁錮又は十年以上の懲役若しくは禁錮とする。
(管理人追記ココマデ)

 監獄法
 第七十一条
 死刑ノ執行ハ監獄内ノ刑場ニ於テ之ヲ為ス
 ○2大祭祝日、一月一日二日及ヒ十二月三十一日ニハ死刑ヲ執行セス

 第七十二条
 死刑ヲ執行スルトキハ絞首ノ後死相ヲ検シ仍ホ五分時ヲ経ルニ非サレハ絞縄ヲ解クコトヲ得ス

 なお、戦前の軍刑法では死刑の場合、原則は銃殺刑で、担当将校がとどめを刺していたようですが。実際、戦地では、斬首刑や絞首刑も併用されていたようですが、軍ですから、とどめは刺したんでしょうね。

 陸軍刑法第二十一条
 陸軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ陸軍法衙ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス

 海軍刑法第十六条
 海軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ海軍法衙ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス


(以上、情報提供:ultraCSさん)

 どうやら、今回の話のような状況が生じた場合の事については、はっきりとした法的規定はなさそうです。

■判例
 法律の条文に明確な規定が無い事例に司法が判断を下す場合は、一般的には過去の似たような事例に対する司法の見解・判例が重視されます。しかし、死刑執行後蘇生した受刑者、あるいは執行に失敗した受刑者の例は現在のところ未確認です。

情報提供:長崎奉行さん
 件の話はいかにも同時代性の強そうな雰囲気で、昔はそうだったというニュアンスが感じられなかったのでとりあえずは、死刑に関する法令がほぼ現在の形になったであろう戦後のデータがあれば事足りるのではないかと思います。

 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1901/number.html

 ここを見る限り、死刑宣告をされながら生きて娑婆に帰ったのは再審無罪になった人か恩赦を受けられた人のみになるかと思います。
 再審無罪は今回お話とは関係がないとして、ひっかかるのが「恩赦」という言葉。
 goo辞書によると(以下引用)

おんしゃ 1 【恩赦】

 確定した刑の全部または一部を消滅させ、あるいは公訴権を消滅させること。内閣が決定し、天皇の認証により行う。大赦・特赦・減刑と刑の執行の免除および復権の五種がある。奈良・平安時代には、天皇の権限で慶事や凶事に際して行われた。
(引用ここまで)

とのこと。
 「確定した刑の全部または一部を消滅させ」とあるので、「刑は執行されたから拘留したり再執行したりはしない」という考え方とは別次元の制度だと思います。


(以上、情報提供:長崎奉行さん)

■法曹界、研究者間の通説
 未確認です。

 周辺情報だけでもかなり重くなりましたが、ここからは類話乃至は参考として寄せられた情報を紹介します。ただ、長崎奉行さんの投稿を見るとわかりやすいのですが、どうも現行の各法が施行されてから今に至るまでの間に、「死刑囚の処刑に失敗した」、あるいは「一度は死亡したものの、後から蘇生した」という事例そのものが存在していなさそうな気配です。従って、現段階では「どの説が正解と断定できるような性格の話ではない」というのが死刑失敗の話に対する当方の結論で、以降の話は、「もしそういう事態が発生した場合はどうなるか」という可能性の話としてご理解ください。

1.「死刑執行失敗後は釈放される」説
 刑事訴訟法では、一事不再理という原則がはたらき、一度刑の執行をうけたら、同じ罪について2度刑をかせられないとされています。例えば、殺人で懲役をくらったら、そのおつとめをはたせば、同じ殺人については再度懲役をくらわないのです。
 とすると、死刑も同じで、一度絞首刑に処せられて、たとえば縄が切れたとかで仮にまだ生存していたとなると、もう二度と絞首刑にされることはないのであり、そのように考えれば、釈放ということになるでしょう。

(情報提供:rerereさん)

 そもそもの発端となった説と、同系統の解釈になるかと思います。「一事不再理」という法律上の取り決めが根拠となっているだけに、単なるうわさというよりも説得力が増した話になっていると思います。

2.「死刑執行失敗後は終身刑扱い」説
 憲法に二重処罰の禁止を掲げている限り、再度死刑を行うことはできません。死刑が失敗に終わると、釈放されることなく、独房で死を待つということです。ただ、昔、死刑が行われ、囚人の遺体を家族が引き取り、その遺体が蘇生したことがあったそうです。この人は再度、刑務所に入れられることなく普通に生活できたそうです。
(情報提供:EUROBEATGUARDIANさん)

 日本国憲法は日本のあらゆる国内法の基盤となっている法律です。前述の一事不再理は、そもそも憲法で謳われている二重処罰の禁止に立脚したものなので、根拠とするところは1説と同じです。最大のネックは、日本に終身刑という制度がないため、「釈放される事無く、独房で死を待つ」ことが許されるかどうかは疑問、という点です。なお、上の話の後半部にある蘇生した人の事例は未確認です。あるいは、現行法施行以前の話なのかもしれません。

3.「死刑執行失敗後、再執行」説
 もともとは知人の弁護士から聞いた話です(多分そうだ、というレベルの話でしたが)。個人的には一番現実的な線ではないかと思います。以下にその根拠を。

 3説は、二重処罰の禁止、一事不再理には抵触しそうですが、一度は首を吊ったものの、何らかの事情で生き延びた受刑者に再度首を吊らせることが、二度目の刑罰にあたるのかどうかの判断は微妙だと思います。首を吊った段階で死刑執行が完了したとみるのか、受刑者の死亡が確定した段階で刑を終えたとみるのか、まずはそこを判断する必要があるとは思いますが、裁判官でもない一般人が何を言ってもまったく無意味なので、以下で下す判断も、あくまで仮定の話になります。なお、現状では実際のところ、死刑の執行と死刑囚の死は、不可分に結びついているものなのだと思います。

 司法が死刑をどのようなものであると判断しているかについては、「現行の死刑執行法は、受刑者の首に縄を施し、これを緊縛する事によって窒息死に至らしめる執行法」(昭和35年9月28日 東京地裁 昭和33年(行)第96号)とのこと。これをみると、一応は受刑者が窒息死した段階で刑が完了すると解釈できそうに思います。縄が切れるなどして死ななかった場合に関しては、再執行になりそうな雰囲気ですが、蘇生した時はどうなるのでしょうか…。

 また、現実的には次のような観点から、死刑失敗への対処が決定されそうに思います。司法による法律の判断は、もちろん法の条文に従って下されますが、法令に明確な規定が存在しない状況に対しては、その法が制定された経緯を斟酌し、制定の理念に沿った判断が下されるのが一般的です。

 日本国憲法が究極的に指向するものは、極めて明快で、ズバリ「公共の福祉」です。堅苦しい言い方ですが、単純に言ってしまえば、社会全体が幸福かつ平穏無事であること、といったところなのでしょうか。日本のあらゆる法令は、この公共の福祉実現のための道具です。決して個人を守るためのものではないので、裁判では往々にして、『小を殺して大を生かす』(かなり露悪的な言い方ですが)判決が出ます。例えばこのコラムを書いている時に、ちょうど奈良の法隆寺前で100年以上も営業してきた店が、道路幅拡張工事のために強制撤去された、というニュースが報じられていました。このようなシチュエーションで、住み慣れた家を追われると言うのは、個人の生活に対する重大な脅威に当ると思いますが、その犠牲の上に道路が拡張され、多くの人がその恩恵に浴することができれば、憲法はそれを容認します。もちろん、個人の幸福を積み重ねた先に社会の幸福があることにも間違いは無いので、個人の権利と社会全体の利益のどちらを優先するかは、裁判官が自分の良心に従い、骨身を削る思いで判断しているはずです。

 話が逸れましたが、一事不再理も死刑制度も、等しく公共の福祉を実現するために想定された決まりごとです。前者は、国民の誰かが犯した罪状に対し、不当に重い刑罰が課せられることが無いようにするためのきまりです。後者に関しては、死刑制度が存在する理由について司法が見解を示した判例があります。「刑法が死刑を存置するゆえんは、社会全体の根本的な法益に対する極悪な侵害を社会公共の福祉達成のため一般に予防するために出でたものである」「国民の生命は、凶悪な犯罪人のそれより貴重であり、社会全体の根本的な法益に対する極悪な侵害を社会公共の福祉達成のため一般的に予防するのに刑法は死刑を存置する」(昭和31年10月29日 東京高裁 昭和30(う)第656号)というものです。一事不再理と死刑の存在意義を踏まえたうえで考えると、死刑がこれほどまでに重い制度であると判断されている以上、二度目の死刑執行は、一事不再理よりも優先するのではないだろうか、というのが私の思いです。一度は死刑を宣告されたほどの凶悪犯を釈放するのと、特例的に一事不再理の原則を破るのは、どちらが公共の福祉に対する脅威となるか、と言うわけです。
 
 つらつらと書き綴ってきましたが、結局のところ法律に関する実効性を伴った判断を下せるのは裁判官だけであり、それ以外の人間はたとえ弁護士であろうズブの素人であろうと、何を言っても詮無きこと、というのが現実です。この話題に答えが出るのは、話のような事態が実際に発生した時なのでしょう。

本稿の判例は『判例検索CD−ROM Version2.1a』(第一法規出版株式会社)よりの引用。
死刑執行者数に関して参照したサイトは『漂泊旦那の漂流世界』様より『犯罪の世界を漂う』。


■ その後(2004.07.30 追記)
 有力情報を提供していただきました。

 
初めまして。実はこの度、死刑を執行されてから蘇生したという者の話を発見しましたので、ご報告させていただきます(以下、引用)

 死刑を執行された者が生き返ったら、もう1度殺すか、それとも執行は終わったものとして放置するか。明治6年1月石鎚県(いしづちけん=松山付近)で絞首された田中耕作は、死体下げ渡しを受けた親族が家にかつぎ帰ったところ「脈動ヲ発シ漸々蘇生」してしまう。司法省は「已ニ絞刑処分後蘇生ス。復論ズ可キナシ。直ニ本籍ニ編入スベシ」と指令、執行者側の進退伺にも「罪ノ課スベキ無シ。無罪」とした。復活の奇跡か?
       (「図解による法律用語辞典 全訂新版」自由国民社 より)

 現在の刑法が施行される遥か前の出来事ですが、恐らくこの話が大元になっているのではないでしょうか?

(情報提供:Mマンさん)

 本文を見る限り、これ以外の類似事例を紹介していない事から、日本ではこれが死刑後に蘇生した最初で最後の事例となっているようにも取れます。引用箇所は、ページ下段にまとめられた『刑法つれづれ草』というコラム。各時代の法と刑罰に関する話を例示する事で、その時代時代の法観念を具体的に理解するための物という断り書きがあります。法律の専門家である執筆者の感覚として、コラムで紹介された個々の事例に見る法観念は、現在的感覚からは多かれ少なかれ乖離していると考えているようです。上の話に関して言えば、三権分立が機能しているわけではなさそうので、やはり現代的な事情とは違うのではないかな、と思います。