都市伝説的事件簿・号外


 もく星号事件
2004.06.06

 
 今回お話する「もく星号事件」の内容は、もともと都市伝説的事件簿に収録するためにまとめていたものです。少々ややこしい事実関係の説明のために紙幅を要しそうだったので、別立てで1本の話としてまとめてあります。

 都市伝説がらみで○○事件と来ると、どうしても鮫島っぽい胡乱さが漂ってしまいますが、事件簿の方で紹介しようとしていたものですから、これは現実に起こった事件です。何が都市伝説的であったかと言えば、「幽霊」の証言が一部の新聞で報じられたこと、そして事件の性質から今日に至るまで詳細不明なままになっている謎が多く、様々な憶測を呼んだことです。

 「もく星号」は、終戦から6年後の昭和26年(1951年)に就航した日航の旅客機で、戦後初の民間航空機でもありました。高嶺の花ながらようやく一般人も利用可能な航空機の往来が始まっていた時期だったのですが、まだ「戦後」を引きずっていた頃でもあり、もく星号は機体それ自体もパイロットも、アメリカのノースウエスト社から借り受けて就航したものでした。また、日本の空もまた占領軍の統治下に置かれており、もく星号の航路も米空軍の関係者によって統制・管理されていました。そして、そんな中の昭和27年4月9日、もく星号は羽田空港から全航路中最初の経由地・名古屋に向けて飛び立った後に消息を絶ったのでした。

 その日も普段と同じように空を行っていたはずのもく星号でしたが、離陸直後の「伊豆大島三原山方向に向かって飛んでいる」という内容の無電連絡を最後に行方不明になります。名古屋到着予定時刻を過ぎてもその機影は一向に見えず、ついに運輸省や航空局、そしてマスコミなどの関係各方面は事実関係の調査に乗り出しました。やがて、米軍の捜索機が静岡県浜松市沖の遠州灘に浮かぶ、もく星号の機体の一部と思しき物を発見しました。また、同じ頃には現場近くの海域には沿岸警備の任務に当たっていた米軍掃海艇が航行していたことも分かります。やや遅れ、ラジオでは乗客全員の無事を伝えるニュースが報じられました。情報の早い一部の新聞社も、これに同調します。中には生存者の談話を掲載した新聞もありました。

 ところが翌10日。もく星号は三原山の山腹に無残な姿を横たえている所を発見されました。乗員乗客は全員死亡。当時としては最悪の犠牲者数を記録した大事故として、今も日本の航空事故史に深く記銘されています。また、事実とあまりにもかけ離れた内容を報道してしまうという一部マスコミが犯した痛恨のミスも、日本報道史に記される結果となりました。

 なぜ大島に墜落・大破していたはずのもく星号乗客の無事が報じられ、あまつさえ乗客の談話までが掲載されたのか、「物語特ダネ百年史」には次のように記されています。

(以下引用)
 『どうしてこんな間違いが起こったのか。それはだいたいつぎのようなことになるらしい。米空軍の捜索機の報告による「屋根らしいもの」と「付近を航行中の二隻の掃海艇」とが、ぎょう幸を願う人々の心の中で一つの推理を生んだ。それには、日航当局が発表した「もく星号は海上に不時着しても、最悪の場合でも、五分間ぐらいは沈没しないで浮上しているはず」などという自慰的な言葉もおおいに作用している。

 沈没に当たって、掃海艇がすぐそばにいれば当然「救助するであろう」という推理が、いつの間にか「救助した」にすり変わってしまった。一説には、米軍からの英文電報の「救助するであろう」を「救助された」と誤訳したとも言われる。

 それが電波にのって"現場"に近い静岡に打ち返された。このラジオを聞いた人々は、それを信じきった。警察当局でもこのラジオを聞いた人々の話をきいて、事実だと自認した。それが"現場"の発表となって、東京に電話され、それがまた電波にのって打ち返される。この悪循環が、無線時代には、思ったより早く回転するため、はじめのニュース・ソースである人物は、そのニュースの出所が自分自身であることに気がつかず、他のニュース・ソースが確認したものと考えてしまう。

(中略)

 ところが、長崎の新聞だけが、この虚報に輪をかけて、ひっこみのつかないミスをやってしまったのだ。

 『漂流中を全員救助』の見出しまでは、東京の大新聞や民放の一部でさえやった間違いと五十歩百歩の差だったが、この新聞にとってまったく不幸だったのは、乗客中に長崎の平和博覧会に招かれていた漫談家の大辻司郎がいたことだった。

 同紙は『危うく助かった大辻司郎』との説明つきで、イスにかけて語る同氏の写真を掲載し、『漫談の材料が増えたよ――かえって張り切る大辻司郎氏』の見出しにつづき、すでに三原山で即死しているはずの大辻氏が、「長崎の復興平和博覧会に招かれていく途中でした。この事故で出演がおくれ、長崎の人にすまないと思っています。しかし、二度と得られない経験です。僕の漫談の材料がふえたわけで、わざわいがかえって福となるとはまさにこのことでしょう。長崎平和博では、さっそくこの体験談をやって、おおいに笑わせてやるつもりです。これから長崎に急行します」という談話までのせてしまったのである。

 これはまったく恥のうわぬりで、同紙はすぐ翌日の新聞で社告を出して読者に詫びた。この大ミスは、汽車で先行していた大辻司郎の秘書某が、全員救助の"ニュース"を福岡で知り、長崎の新聞社に連絡したさい、気をきかせすぎて宣伝のために創作した"幽霊の談話"だったという。このもく星号の虚報は、新聞に深い反省を強いた。以後、新聞の報道は相当に慎重になった。』
(引用終わり)

 幽霊の談話についての顛末は、以上のようなものです。

 ところで、もく星号事件が日本の航空事故史を語るえで大きなウエイトを占めているのは前述の通りですが、これにはこの事故が大誤報の件と切り離しても、少なからずの疑惑を内包したままフェードアウトしていった特異な事故であったことも無関係ではないようです。当時の日本の空が米軍に管理されていたのも既述ですが、その関係で日本側の調査班が事実関係の調査を行う段になって米軍関係者の協力を取り付けられないことがあり、協力が得られないばかりか重要証拠の隠滅が行われたのではないかという疑いまでもがあったようです。事故当時は朝鮮戦争が行われている最中で、アメリカが戦争での最前線基地となる日本で問題を起こすことを嫌っていたであろう事は容易に想像できますし、その事が諸々の憶測を呼び、事件の真相をさらに謎めいたものとしています。社会派の推理作家として知られる松本清張氏は、もく星号事件から材を取った作品を発表しており、その評価には賛否両論あるのも確かですが、この松本作品は決して絵空事ではないと考える向きもあるようです。

 果たして、事件の背後に仄暗い謀略の数々が存在しているのかどうかは定かではありませんが、マスコミのミスの方には興味深いものがあります。別にマスコミを糾弾する意図があるわけではありませんが、今よりずっと未成熟だったとは言えマスコミですら犯したようなミスですから、現代を生きる人たちがその轍を踏まないとも限りません。今現在においてもっともらしく出回っている情報も、元を正せばもく星号事件と同じような凡ミスから始まる虚報、というようなことも間々あるのかもしれません。

▼参考文献
高田秀二、1968年、『物語特ダネ百年史』、実業之日本社
内藤一郎、1994年、『真説日本航空機事故簿』、亜紀書房