豊 川 信 金 と 佐 賀 銀 行
Financial Demagogie

 2003年の年末、佐賀県でとあるチェーンメールが飛び交いました。内容は、当地にある佐賀銀行の経営不安・経営破綻の可能性をほのめかすものでした。もちろん、この内容は全くのデマでした。約2ヵ月後の2004年2月17日、佐賀県警と佐賀署がこのデマメールを送信した佐賀県内の女性を信用棄損容疑で書類送検しています。このことが報道されたときに、騒動がどの程度の広がりを見せたかについても報じられていました。それによると、騒ぎの時に引き出された現金の額は、前年同日に比べて120億円ほど多い約180億円、件数にして3万2000件増の9万2000件だったとのことです。(2月17日付 読売新聞Web版より)

 ところで、これとよく似た騒動が、佐賀銀行から30年前の1973(昭和48)年の12月13日に、愛知県で発生しています。当時としてはそこそこ大きなニュースとして取り上げられたようで、その頃の記憶がある人も少なくないでしょうし、大学の心理学・社会学の授業では教養科目レベルでも取り上げられるほどの事例なので、リアルタイムで事件を経験したわけではない人の中にも、「過去にそのような事件があった」程度の認識を持っている人が少なくないと思います。これは、うわさ研究のエポックメイキング的な事件ですので、以前の「オルレアンのうわさ」同様、付録と言う形でここに紹介しておきます。今回参考にしたのは、1974年に発表された『デマの研究−愛知県豊川信用金庫取り付け騒ぎの現地調査』です。若干探しにくい論文で、都道府県立図書館クラス以上の公共図書館か、大学図書館の書庫ぐらいでしか見つけられないかもしれませんが、豊川信金騒動に関して言及した多くの資料はこれを参考にしたのではないかと思われる詳細な調査報告です。

 騒動の舞台となったのは、愛知県宝飯(ほい)郡小坂井(こざかい)町。愛知県東部に位置する町で、名古屋からの距離は50〜60km程と言った所。実際のところ住人には名古屋市との日常的交流のない人も多く(大学生や一部の勤め人が名古屋まで通勤通学しているくらいでしょうか)、大多数の名古屋市民にはその存在すら認識されておらず、名古屋市との結びつきはほとんどありません。隣接する県下第二の都市・豊橋市との関係が強い町です。この町で発生したのが、いわゆる「豊川信用金庫取り付け騒ぎ」でした。

 このときに流れたデマ()が、「豊川信用金庫があぶない」または「つぶれる」と言う内容のものでした。事実無根なのは佐賀銀行の場合と同じです。警察は当初、このデマが豊川信金の営業を妨害しようと言う悪意から流されたものではないかと疑い、デマの発生源について捜査を進めました。その結果この騒動は、デマの発生から伝播、そして収束にいたるまでの経路が詳細に解明された稀な事例となっています。以下は小坂井町を所轄する愛知県豊川警察署が捜査した内容です。

 騒動からは5日前にあたる12月8日の朝、国鉄飯田線(当時。現JR飯田線)の車内で、来春卒業予定の三人の女子高生のおしゃべりが卒業後の進路についての内容になったことからこの事件がはじまります。三人のうちの一人(仮にAさん)は、豊川信用金庫への就職が内定していたのですが、彼女とは別の一人が「信用金庫って危ないんじゃないの?」と冗談めかしたことを言います。言われたAさんは単なる冗談としてさほど気にはとめていなかったようですが、小坂井町に隣接する豊川市国府(こう)町に住むおばの家(Aさんの当時の下宿先)に帰ると、おば(Bさん)との会話でこのことを話題に乗せたようです。どのような形で豊川信用金庫のことが話題になったのかは不明です。

 その日の夜、Bさんは豊川信用金庫本店の近くに住んでいた実兄の妻(Cさん)に向かい、電話で「うちの近所に豊川信用金庫があぶないといううわさがあるのだが、本当かどうか調べてほしい」と頼んでいます。Cさんは当然そのようなうわさは知らないので、Bさんに向かって「単なるうわさに過ぎない」と答えています。

 しかし、Cさんは翌9日の夜、近所の美容室に行ったとき、美容室の主人Dさんに豊川信金の「うわさ」のことを話しました。さらに翌10日、こんどはDさんが親類の女性であるEさんにそのことを話しました。このとき、Eさんのところには、小坂井町のクリーニング店店主Fさんが遊びにきていました。この時点では、Fさんもこの話を、単なる「うわさ」に過ぎない内容だと認識していたようです。帰宅後、そのことを妻(Gさん)に話していますが、その後3日間は、Fさん夫妻は目立ったアクションも起こさずに過ごしていきます。

 そして、13日の午前11時半ごろ、Fさんのクリーニング店に一人の男性が電話を借りにきました。この男性は電話で、自分の家の人に「今すぐ豊川信金に行って120万円を引き出してくるように」と指示しています。この男性は「うわさ」のことは全く関知せず、単に個人的な必要に迫られてこのような指示を出したそうです。ところが、傍らでこれを聞いていたGさんは、反射的にあの「うわさ」のことを思い出し、外出していた夫Fさんを呼び戻すと、すぐに豊川信金に向かって預金180万円をおろしました。その後、友人知人や得意先に電話したり、近所へは直接出向いて豊川信金が危ないということを伝えました。その中にはアマチュア無線家も含まれており、自分が伝え聞いた内容を無線によって仲間に伝えたようです。そして同日の正午過ぎには、豊川信用金庫小坂井支店へ預金の全額引きおろしにやってくる人が目に見えて多くなっていました。13日に預金をおろした人は59人、おろされた金額は5000万円だったそうです。

 この日、豊川信金小坂井支店に客を運んだタクシー運転手の証言として、面白い話が伝えられています。昼頃にタクシーに乗せた客は「豊川信用金庫があぶないらしい」、二時半頃に乗せた客は「あぶない」、四時半頃の客は「つぶれる」、夜の客に至っては「もうあすはあそのこシャッターはあがるまい」と言ったのだとか。

 翌日になると、事態はすでにパニックの様相を呈していました。事態の収拾を狙って信金側が張り出した張り紙は、恐慌状態に陥った客には悪いほうへ悪いほうへ曲解されてかえって逆効果になり、小坂井支店だけで1650件、金額にすると約4億9000万円の金が動きました。

 14日になると、うわさにはさまざまな尾ひれがつき、派生デマも発生していたようです。「銀行の中に使い込みをした者がいるらしい」→「職員の中に五億円を持ち逃げした者がいて経営がおかしくなった」。「理事長が死んだ」→「理事長が自殺した」→「理事長が不況を苦にして自殺した」→「理事長が不況を苦にして首をくくって自殺した」。「家具店に融資をしすぎ、おかしくなった」。小坂井町や豊川市に隣接する豊橋市にもうわさは飛び火しました。「豊橋市内の第一勧銀にも客がいっぱいつめかけている」といううわさが流れたようです。また、豊橋市には豊川信用金庫とよく似た名前の豊橋信用金庫が存在し、情報の混同による混乱に備え、窓口に通常より多くの現金を用意していたとのことです。

 中には、「豊川信金が危ない」というのはデマだと言う情報もいくつかありました。この部分に限定して言えば真実であったのですが、しかし「なぜそのようなデマが流れたのか」という説明に関しては、これまた事実無根のデマでした。曰く、「朝鮮人が豊川信金に融資を断られ、その腹いせにあちこちに電話をした」。似たような話として、「町内のある部落の人が融資を断られ〜」というものもありました。また「町内にあるとある工場の労働組合の集会で、組合の委員長が豊川信金が危ないと発言した」という話もありました。

 ところが騒ぎが大きくなってくると、マスコミも当然これを報道するようになります。14日夕刊から15日朝刊にかけ、新聞各紙はこの騒ぎを経済問題ではなく、社会面で「デマ騒ぎ」であることを明言して取り上げました。テレビにしても同様です。ただし、一部にはこれらの報道を見て、騒ぎの余波で豊川信金がつぶれるのではないかと不安にかられてかけつけた人もいるようです。また、豊川信金側の対応も小慣れてきて、大蔵省東海財務局長(当時)や日本銀行名古屋支店長が連名で豊川信金の経営を保証する張り紙を出したり、理事長自ら押しかけた客の対応にあたったことも功を奏したようです。16日ごろになると、警察は前述したデマの伝播ルートを解明し、これをマスコミに公表したところで一連の捜査が打ち切られました。豊川信金やマスコミの対応の成果が現れ、事態は急速に収束に向かっていきました。

 しかしそれから一週間あまりが経っても、警察発表を信じようとしない人たちもいました。警察の発表を事態を早期に収集するための政治的なものであると捉え、真実は別にあると考えた人たちは、町内在住の識者と呼べそうな人たちだったようです。また、騒動後に調査者が現地で聞き取り調査を行ったとき、モランがオルレアンの事例のときに見たのと同じ「自分は信じていなかった」という反応が多く見られたことも付記しておきます。

 佐賀銀行にまつわるデマメールが飛び交ったのは、豊川信金騒動の免疫が薄れてきたためなのか、それとも、いざデマに巻き込まれてしまうと理屈など関係なしに不安をかきたてられてしまう人間の本質的なもろさによるものだったのかはよくわかりません。『デマの研究』では、豊川信金騒動があれほどの広がりを見せたのは、デマの初期段階でクリーニング店主夫妻と言う、広範に渡るコミュニケーションのネットワークを持つ人達が介在したためであると分析しています。佐賀銀行の場合は、書類送検された女性が12月25日の午前1時半に友人ら26人に28件のメールを送信したのが騒動の発端になっています。携帯電話の登場によって、一般人が豊川信金騒動時には特筆すべきほど広範囲だったのと同等のコミュニケーションネットワークを獲得したと解釈するべきなのでしょうか。もっとも、佐賀銀行のデマメールについての記事はあくまで、「デマメールが飛び交い、同時期に取り付け騒ぎが発生した」という内容を伝えているだけで、メールがどの程度の範囲まで拡散し、実際にメールの情報に踊らされて銀行に駆け込んだ人がどの程度の数だったのかについては触れられていませんから、携帯メールの影響力に関する評価は、詳細がわかるまで保留しておいたほうが良いのかもしれません。

■付記(2004.07.30)
 佐賀銀行騒動についてこちらで紹介して以降、実際に佐賀在住の方からこの件に関して何通かメールを頂いたりしました。騒動の身近にいた方の実感として、多くの人が銀行へ走ったのは、メールに影響されてというよりは、実際に銀行前に出来上がった長蛇の列を目の当たりにし、それに不安を煽られての事だったようです。



参考文献
伊藤陽一、小川浩一、榊博文 、1974年、『デマの研究−愛知県豊川信用金庫取り付け騒ぎの現地調査』、綜合ジャーナリズム研究No.69(70-80)・同No.70(100-111)


 当サイトの別項では、「デマ(Demagogie)は政治的な意図をもって広められる扇動的・謀略的なうわさ」と書いていますが、今回参考にした文献では、デマと言う言葉には厳密な定義を求めず「うわさ」とほぼ同じ意味で使っています。本稿でもこれに倣い、取り付け騒ぎの際に流れた事実無根の情報を「デマ」と表現しています。
 また、本文中『部落』という表現を用いていますが、騒動当時に流れたデマの内容に忠実であるためのものです。現在でこそ「部落」と「同和問題」は分かちがたく結びついていますが、当時の時代背景を考えると、単に集落の意味で「部落」としたものなのかもしれません。原文の中で「部落」がどのような意味合いを持つのかまでは読み取れませんでした。ご了承ください。