明智光秀生存説を騙る

 比叡山には、江戸時代に明智光秀によって寄進された石灯籠があるという。ある程度日本史の事に明るい人ならば、すぐにこの石灯籠の話が持つ奇妙さに気づくだろう。

 明智光秀とはもちろん、京都・本能寺で主君織田信長を打ち滅ぼした、あの明智光秀である。本能寺の変は天正10(1582)年の出来事であった。徳川家康による江戸開府は慶長8(1603)年。そして、件の石灯籠に刻まれた寄進の日付は慶長20年2月17日。ここに全文を紹介すると「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」。ところが、光秀は本能寺で主君を倒してから10日ほどの内に羽柴秀吉に敗れ、敗走の途中に京都の小栗栖で土民の手にかかって死んでいるはず。要は、比叡山に残っている石灯籠は、本来なら「あり得べからざるもの」なのである。

 さて問題の石灯籠だが、たまたまこれの存在を知るきっかけとなった本の中には、冒頭でも書いたように「比叡山にある」としか書かれていなかった。そこで、ネットを使って【比叡山】にある【明智光秀】寄進の【石灯籠】を検索してみると、件の石灯籠は比叡山の松禅寺という寺にあるとするサイトがいくつか見つかった。ところが、ネットはもちろん地図や、京都府・滋賀県の電話帳を探してみても比叡山に松禅寺という寺があるふうではない。代わりに見つかったのが松禅院という、滋賀県大津市阪本本町にある寺院だった。どうやら、状況から察するに光秀の石灯籠があるのはここなのではないか。この石灯籠にひどく興味を惹かれた私は、一度現物を見ておこうという気になり、機会を見つけて滋賀に赴く事にした。今回は「騙る」系コンテンツではあるが、無駄に格調高っぽい似非紀行文風にまとめてみようと思う。

 レンタカー屋で借りてきたスパシオが一台通るだけでいっぱいいっぱい。則面がわにあと10cmも寄せれば、助手席側の脇腹を隣り合った斜面にこすりつけそうだったし、その反対側によれたら、1〜2m下の畑に転落しそうな狭い幅員の道であった。信じられない事に、車載のカーナビにはここが県道であることを意味するヘキサが表示され、ご丁寧にも滋賀県内の県道網の一端を担っている事を表すナンバー47までが振られていた。典型的な『険道』である。別の明確な目的のために走っているのでもなければ、険道レポートとしてドライブレポートのコンテンツにアップしたいほどだったが、今回はドライブ目的で走っているのではない。やがて、ただでさえ狭い滋賀県道47号線・伊香立浜大津線はうっそうと茂る林間の道になり、ブラインドカーブの連続になった。もし今対向車が来たらどうなるのだろうと思わずにはいられない。この道を走り続けて目的の場所にたどり着けるかどうか、流石に不安になり始めたとき、進む道の前方に寺院と思しき建造物が見えてきた。飯室不動堂である。目指す石灯籠が存在するという松禅院は、その敷地内にあった。

 松禅院は、境内でも最も奥まった場所に位置していた。初冬の午後4時前、天候が雨ということもあったが、何より頭上を覆うように聳え立つ木立に光をさえぎられ、松禅院周辺は日暮れ前の数分のような暗さであった。デジカメで現地の様子を撮影したものの、ほとんど真っ黒で何も映っていなかったほどである。紅葉の時期、天気がよければ風情のある空間だっただろうが、その時は、光秀の石灯籠と対面する緊張感もあり、幽玄を通り越して鬼気迫るものさえ感じさせる雰囲気であった。

 しかし、すでに述べたようにあたりは日没前とは思えない暗さであった。しかも、松禅院は門こそ開かれていたが、一般客が入り込んで良い場所なのかどうかも定かではなかった。誰かと出会えば問題の石灯籠について尋ねる事もできたが、流石に許可もなく一般公開されているかどうかも怪しい私有地に入り込む事はできなかった。隣接する慈忍和尚の墓の側から、生垣の隙間を通して松禅院の敷地内を覗く。まぁ、これはこれで不審な行動である。それらしい石灯籠はあったが、暗かったのと、何より距離があったのとで灯籠に光秀の名が刻銘してあったとしても確認は不可能だった。そもそも、本当に松禅院にその石灯籠があるという確証がないのが弱みであった。聞けば光秀寄進の石灯籠、昔は横河飯室長寿院の跡地近くにある慈忍和尚の墓の前にあったというが…。

 目立った収穫はなかったが、歴史上(正史上)存在するはずのない石灯籠があるとしたら、あの松禅院のような静謐な空間こそが似つかわしいのかもしれない。そんなふうに妙に納得しながら松禅院を後にした。ただし、往路を阪本方面に戻るのではなく、県道47号を雄琴温泉側に向かうルートに進路をとった。こちらも往路と似たり寄ったりの狭路だったが、それでも先ほどに比べればいくらかマシかもしれない。

 結局現物を見つけられなかった光秀寄進の石灯籠とは、実は光秀が本能寺の変に端を発する山崎の合戦後も生き続けたという伝説の物的証拠となるものである。そしてこの伝説には、さらに興味深い続きがある。生き延びた光秀は一時期比叡山にこもり、南光坊天海と称する怪僧になったというのである。光秀=天海の妥当性はさておき、史実に見られる天海は、『黒衣の宰相』と呼ばれ、徳川幕府の政治に隠然たる影響力を及ぼし、108歳(記録によっては134歳などというものもある)という恐るべき長寿を全うしたとされる人物である。蛇足ながら、川中島で武田信玄と上杉謙信の一騎打ちを見たというのも、この天海である。なおこれは、巷間よく知られている『謙信の太刀を信玄が軍配で受け止めた』という話ではなく、もつれるように入り乱れて戦う両軍の先頭で、刀を切り結ぶ2人の僧形の騎馬武者を見た、というものだ。

 国道161号線に出て、大津市街の方向、坂本城址に向かう。光秀の居城だった場所である。後年光秀の領国は丹波(現在の京都府北部)にまで広がり、山陰路の敵に対する軍事行動の絡みもあって、領国内では亀山城など丹波の比重が相対的に大きくなっていたであろうことは想像に難くないが、それでも坂本城には光秀の一族が居住していたらしく、いわば「生活の基盤」だったようだ。光秀は、信長によって比叡山焼き討ちが行われた元亀2(1571)年に、近江志賀郡を与えられ、翌3年からこの城の普請に着手している。

 織田家の重臣であり、歴史に名高い本能寺の変を引き起こした張本人として知られる光秀だが、その出自と前半生には謎が多い。出自に関しては、美濃守護土岐氏の傍流であり、現在の岐阜県可児市付近に在った明智氏の流れとする説が比較的よく聞かれるが、同じ美濃の中でも明智郡明智町の住人であったというものもある。さらには若狭の刀鍛冶の息子であるとされたり、時には全く氏素性の分からない者とさえ言われる。奇しくも、不倶戴天の敵となった秀吉が、やはり氏素性の分からない成上がり者であるとはされつつも、尾張中村の出身であるという程度まで分かっているのとは好対照である。若き日の光秀は、当時土岐氏を追って美濃を治めていた斎藤氏と何らかの形で接点があったのかも知れないが、それもはっきりしない。一時斎藤氏に仕えたとか、その逆に斎藤氏に本拠地を追われたとかいう。家康の陪臣だったという説もある。また、一時細川藤孝の下に出仕していたともいう。諸説紛々で真相は定かではない。より確実な経歴となると、越前の大名朝倉義景に召抱えられた、というあたりからだろう。光秀は鉄砲の扱いに長じている点を買われ、朝倉家に仕官したという。やがて光秀は朝倉家で、都を追われて流浪の身になっていた足利家の御曹子、足利義昭と出会う。義昭の兄、第十三代将軍足利義輝は陪臣にあたる三好氏らによって殺害され、その頃は彼らの傀儡で、義昭から見れば傍流になる足利義栄が将軍職についていた。義昭は、自分が将軍の位につくために力添えをしてくれる大名を探していた。そして、家格も高く北陸地方に大きな勢力を張っていた朝倉義景を頼ってきたのである。義景は義昭を歓待こそしたが、義昭を奉じての上洛の兵を起こそうとはしなかった。やがて義昭は義景があてにならない事を悟り、今度は当時急速に台頭して来ていた織田信長を頼る事にした。光秀はこの時、信長と義昭のパイプ役として重要な役割を果たしたため、比較的容易に織田家の重要ポストに食い込む事ができたとされるが、このあたりの経緯も実はそれほどはっきりしていない。ただ、後の時期まで光秀が幕臣であり、織田の家臣でもあるという特殊な立場にいた事は間違いなさそうである。当初光秀は、朝廷、将軍家、京の公卿らとの外交において活躍したが、軍事・内政の局面でも成果を残し、次第に織田家の屋台骨を支える重臣たちの一角を担うほどになる。そういう時期に光秀が手に入れたのが坂本城だった。

 現在、坂本城址は公園として整備されていて、公園内には光秀の銅像が立ってもいるが、往時を偲ばせる遺構は何一つとして残っていない。謀反人の城だといって、山崎の合戦後に徹底的に破壊されたのだろうか。

 坂本城址の次に向かったのは、光秀「最期」の地、小栗栖だった。坂本城址からは10kmあまり、車なら20分ほどの距離である。思いの外近いというのが正直な感想だ。間には低い山もあるが、信号待ちも渋滞もない光秀の時代、馬を飛ばせば今日とさほど変わらぬ所要時間で小栗栖から坂本まで往来できたであろう。現在の小栗栖は宅地化が進み、戦国時代の面影は少しもない。団地が立ち並び、近くには大型ショッピングセンターもある。すっかり様変わりした小栗栖の一角、本経寺の近くにはしかし、今日まで明智藪と呼ばれた竹薮の名残を示す石碑が建っている。光秀はここで土民に襲われて深手を負い、少し進んだ所で、もはや助からぬと家臣の溝尾庄兵衛に首を討たせたという。そして、その首は粟田口あたりの泥田の中に埋められた。しかし、間もなく掘り出され秀吉に届けられている…。

 光秀=天海説の真偽はともかく、「小栗栖の最期」には少なからずの疑問点がある。果たして天海が姿を変えた光秀だったかどうかについて論じる前に、当時小栗栖で起こったとされる事を検証する必要はある。まずそのときに起こった事を、現在分かっている限りでできるだけ詳細に記述してみる。

 六月二日の未明、本能寺に信長を倒した光秀は、自らの足元を固めるために様々な動きを画策するが、芳しい結果は得られないままだった。そして、そうこうしているうちに中国地方で毛利氏と対陣していた羽柴秀吉が、予想外の速さで畿内へと引き返し始めていた。柴田勝家はじめ、秀吉以外の重臣たちは皆めいめいの敵を抱えて身動きできない状況なのが普通だったのだから、やはり秀吉の行動の速さは驚異的だったと言えよう。そして六月十二日、光秀が秀吉の行動に対して有効な対抗策を講じるよりも早く、秀吉の先遣隊は明智軍対羽柴軍の決戦地になると目された山崎の町、そして天王山を占拠した。初動で秀吉に遅れをとった光秀の戦略は、その後も後手後手に回らざるを得なくなる。翌十三日の午後四時ごろ、ついに山崎の合戦が開始された。両軍の兵力差は大きく、間もなく数で劣る明智軍の壊走が始まった。光秀は一時、勝龍寺城(京都府長岡京市)に入城する。そして、大道を閉鎖して逃走する明智軍の殲滅を狙う秀吉の作戦を見抜き、雨天で月の無かったその日の夜、夜陰にまぎれて間道をひた走り、本拠地坂本城を目指した。その途中、醍醐のあたり、一般には小栗栖で、付き従う騎馬武者たちと列をなして進んでいる時に、土民の手にかかり殺されている。光秀に致命傷を負わせたのは中村長兵衛という百姓だった。長兵衛は竹槍で光秀のわき腹を深く傷つけたとされる。そして手負いの光秀は、前述の通り粟田口で「秀吉の手に渡るならば」と家臣に首を討たせ、その首は近くの深田に埋められた。しかし、その首は間もなく土地の農民の手で掘り出され、秀吉に献上されている。別の場所に埋められていた胴体と継ぎ合わされて晒されたとも言う。光秀の首が本能寺で晒されたのは、十七日の事だった。

 言うなれば、以上が光秀の死亡記事ということになるのだが、奇妙な点は多い。まず第一に、襲撃時の状況である。闇夜、列をなして駆け抜ける騎馬武者の中から、光秀の顔も知らないであろう農民が、過たず光秀を突いたと言う。しかも、その得物は竹槍だった。造作のしっかりした槍であれば、騎馬の突進力を生かして甲冑を貫く事も可能だったと考えられているが、武器の扱いにも慣れていない農民が、手製の竹槍で、おそらくは上等な誂えだったであろう光秀の甲冑を貫通し、あまつさえ致命傷を与えるというのは非常に不自然である。そもそも光秀は、豪傑のイメージこそ無いが一軍の将である。不意をつかれたとは言え、非戦闘民の横槍に手も無くやられるというのも考えにくい。さらに付け加えるなら、事件の約五十年後に、当時の事に関する調査が行われた時には、土地の者で「中村長兵衛」なる人物を知る者は皆無だった。五十年という時間は、若干微妙な長さではあるが…。

 また、「小栗栖」から数日後に晒された首というのも怪しい。旧暦六月は真夏である。光秀の首が断たれてから晒されるまでは、現在の暦で言うなら7月中旬から下旬頃の出来事だった。当然、京の街角に晒される頃には、人相の判別も難しいほどに腐敗が進んでいる。果たしてこの首が真に光秀のものだったのだろうか。顔の造作が全く異なる別人であれば判別は可能だったかもしれないが、光秀には容貌のよく似た影武者がいて、そもそも小栗栖で討たれたのは実はこの影武者だったという話もある。また、政治的な必要性から、秀吉陣営が偽装したものなのかもしれない。

 以上のことを踏まえて考えるに、秀吉陣営が光秀の死亡確認をできずに、光秀の死亡を捏造した可能性は決して低くない。だからといって光秀が山崎後も生き長らえたという断定はできない。あくまでも、秀吉サイドが確実な形で光秀の死を確認できなかったかもしれない、という程度の話である。

 仮に光秀が山崎の合戦後も生き延びていたとして、それがなぜ南光坊天海につながるのか。実は光秀と天海を結ぶ「証拠」は栃木県の日光地方に数多く残されている。日光の「明智平」という地名を命名したのは他ならぬ天海であったし、日光東照宮には、目立たない場所にではあるが、明智氏の家紋である桔梗紋が多数記されている。また、三代将軍家光の名付け親は天海であり、日光東照宮には天海自身の手による家光命名時の紙片が残されていて、それを二つ折りにすると、家光の名が記された部分は「光秀」と読めるという。また、家光の乳母・春日局は光秀の重臣だった斎藤利三(山崎の合戦後死亡)の娘であるお福だった。そして、お福を登用したのが天海である。お福は、表向きは公募に応じた者の中から選ばれた事になっている。

 家康と天海の出会いにも奇妙な部分がある。その時期は諸説あり定かではないが、2人は初対面であるにもかかわらず、密室で四時間、二人きりで話しこんでいたとされる。なお家康は、家臣水野勝成に対して、光秀にあやかるように言った事があるとも言う。なぜそのような事を言ったのかは定かではないが、家康はどういうわけか、光秀を買っていた節がある。家康は形式的には信長の同盟者だったとは言え、属国のような扱いを受ける事もあったし、期待をかけていた長男信康を信長の命で処断したという経緯もある。家康は後年、豊臣家との対決姿勢を強めていく中で信康が存命であったら自分がこれほど苦労する事も無かっただろうに、という旨の述懐を残しているほどである。光秀の謀反によって最終的に天下を拾ったのも家康だし、社交辞令的に光秀を糾弾する事はあったとしても、本心では光秀をどのように思っていたか。

 また、豊臣家滅亡のために奔走したのも天海である。関が原の戦いでは、石田三成率いる西軍は、東軍に内通するものが相次いだために、敗北している。実は、西軍諸将降誘の術を家康に献策し、背後で動いていたのは天海なのである。また、大坂役の発端となったのは方広寺鐘銘事件であるが、この難癖以外の何物でもない口実をひねり出して家康に与えたのも天海だった。

 以上が光秀=天海説の根拠とされるものの概要である。他にも有名無名の伝説が残されているし、かなりトンデモな根拠も多いが、ここでは比較的客観性があり、かつ信憑性もありそうなものを例にあげてみた。ここだけ見てみると、荒唐無稽で奇妙奇天烈なだけの俗説では無いようにも見えるが、結局のところこの説は、どうにも心許ない状況証拠の積み重ねから導き出される仮説であり伝説でしかない。数少ない物的証拠の一つである件の石灯籠にしても、そもそも「光秀」なる寄進者が惟任日向守と呼ばれた明智光秀その人と同一人物であったことを証明する術は無い。より信憑性のある物的証拠となると、信用の置ける新たな史料の発見という事になろうが、それも望み薄である。光秀=天海説は、現実的な仮説とするには少々難のあるものではあるが、一定のロマンを託し得るものである、といったところが妥当な評価だろうか。

 さて結局、小栗栖に入ったところで大渋滞につかまり、日も暮れてしまった。京都市郊外のこの地域の道は、夕暮れ時になると家路を急ぐ車列などで混みあうのだろうか。もはや明智藪や光秀の胴塚を探す事はできなかった。なんとも情けない形でのタイムアップだった。


順逆二門無し 大道心源に徹す
五十五年の夢 覚め来て一元に帰す
明智光秀 辞世

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