菱〜武田三代 |
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(1)武田信虎編 ■信虎と甲斐源氏 武田信直は、明応3年(1494)に武田信縄の子として生まれた。後に信直は、名乗りを武田信虎と改める。本稿では、一般に良く知られているであろう信虎の名で、この人物の生涯を追っていくことにする。 当時、武田氏は甲斐守護の職についていたが、それも名ばかりのことで、武田氏に甲斐一国を平らかにするだけの力は無かった。国内は、麻のように乱れていた。信虎が生まれた頃も、父信縄は信虎から見れば叔父にあたる弟信恵との戦いに明け暮れていた。信縄と信恵の争いは、二人の父であり信虎の祖父にあたる信昌が、家督こそ長男信縄に譲りはしたものの、次男である信恵の方を可愛がり、家督を信縄から奪い取って代わりに信恵に継がせようとしたことに端を発している。後に信虎が長子晴信を廃嫡して次男信繁に家督を継がせようとしたこと、さらに信虎の子であるところの晴信(信玄)も長男義信と不和になり、四男勝頼を後継に据えようとしたことを思えば、父親と長子の不和に起因するお家騒動は、この家系に付きまとう宿命のようでさえある。もっとも、このような事態が繰り返されるのも、全く理由の無いことではなかったのかも知れない。 一般に、「甲斐源氏武田氏」などと言う。源氏と言えば武士の棟梁であり、その点からいえば、武田家は部門の家柄としては抜群の毛並みと言うことになる。源氏が甲斐の地と本格的に縁付いたのは新羅三郎義光の時であるが、武田の家名は、源頼朝の挙兵に際して富士川の戦場に馳せ参じた武田信義に始まる。信虎とその子信玄の時代、日本は足利将軍家の治世であったが、家格という事になれば武田家は足利家にも引けをとらない名族である。それが証拠に武田氏一門は、安芸や若狭をはじめとする各地の要職(守護職)に任じられ、その土地土地で分流を興している。その分流諸派の中にあって南北朝時代以降、甲斐武田氏は武田の宗家となった。氏素性の分からぬ成り上がり者の多い戦国大名達とは一線を画す格式高い存在であったと言える。 押しも押されぬ名門の武田家であったが、厄介なことに「甲斐源氏」は武田氏だけではなかった。確かに武田氏は数多存在する「甲斐源氏」の本流ではあったが、それは甚だ危うい座だった。武田家の歴史の中で、甲斐源氏本流の座を狙って台頭してくる同族との戦いは決して珍しいことではなかった。特に子が親を襲い、臣が君を追い落とす戦国の世にあっては、武田家に取って代わり、甲斐源氏の頭領になろうと言う野望を抱く者が現れたのも当然の流れと言える。信昌時代には、武田氏は一度は傍流の座に甘んじ、雌伏の末再び本流に返り咲いたと言う経緯もある。そしてどうにか甲斐源氏の惣領の座に収まることができたのに、今度は武田氏同士、しかも兄弟で争うという骨肉相食む泥仕合に陥ったのである。 信虎が生まれた時期には、信縄は信昌・信恵に対して優位に立ち、とりあえず家督争いは小康を得ていた。しかし、永正2年(1509)に信昌がこの世を去り、その翌年には信縄も逝去した。ここに若干14歳の武田信虎(当時は信直)が武田家の家督を相続した。潜在的に数多くの争いの火種を抱えていた甲斐の国の情勢は、まだ年若い信虎が甲斐守護職に就いたことで俄かにきな臭いものになった。信縄在世中には自分の領地で息を潜めていた叔父(油川)信恵は、このときを待っていたかのごとく信虎に対して反旗を翻している。弱年の信虎にとって最初の苦境であったが、永正年5(1512)年10月には油川信恵を討ち果たし、甲府盆地から敵対勢力を一掃することに成功した。同年中には郡内(現在の山梨県南東部地区)の反乱軍も掃討している。 ■甲斐統一への戦い しかし、信恵を倒したとは言っても、信虎の甲斐国主としての座は安泰ではなかった。その頃、富士山麓地域には豪族の小山田氏が一大勢力を張っており、甲斐守護職であるはずの信虎の支配下には入っていなかった。信虎の次なる相手はこの小山田氏、小山田信有であった。この戦いの決着は、永正7年(1514)に信虎側の勝利と言う形で着いている。一応は信有が信虎に降伏する形をとってはいるが、降伏後の処遇は、信有が信虎の妹を正室とし、信有を武田氏の一門衆として迎えると言うものであった。仮にも争いに敗れた者に対する処置としては、異例の優遇策であったと言える。小山田氏の勢力が、甲斐国内において一種独特の存在であったことの表れであると言えるだろう。以降、小山田氏は「御親類衆」として武田家中の重鎮的存在になるのだが、このときの信虎対信有の決着が、七十年後の武田家滅亡への伏線となったのかもしれない。 小山田氏を下しても、信虎の国内勢力との戦いはまだ終わりではなかった。小山田氏を勢力下に組み込み、ひとまず東方の安全を確保した信虎は、残る西部地域の制圧に着手する。敵は大井信達。信達の背後には、甲斐国内にまで勢力を伸張しつつあった駿河の今川氏の存在もあった。敵は強大であった。今や甲斐の東側を勢力下に置いている信虎も、駿遠の大名・今川と結びついた大井氏が相手では分が悪かった。実際に対大井氏戦略は、目立った戦果の無いまま苦しい戦いが続いた。転機が訪れたのは永正14年(1521)のことである。小山田軍が敵方の吉田城(富士吉田市)を陥落させたことで、甲斐西部のパワーバランスが変化し、今川氏側に味方していた国内諸豪族に動揺が走ったのである。その結果、それまで敵対していた者たちが次々と信虎に帰参してきた。これにより今川氏は甲斐国内に戦線を張り続けることが困難となり、本国に撤兵せざるを得なくなった。今川の後ろ盾を得ることができなくなった大井氏は、間もなく信虎に降伏した。このとき大井信達は、自分の娘を信虎の正室として差し出している。この女性が大井夫人である。後に晴信、信繁、信廉を生むことになる。また、大井氏を下したことで甲斐統一を果たした信虎は、本拠地をそれまでの石和から躑躅ヶ崎に移した。ここに甲府の歴史が始まる。躑躅ヶ崎館の「城下町」には、それまでは各々の本拠地にてんでばらばらで暮らしていた国内諸豪族の屋敷も造られた。このことは、信虎が名実ともに甲斐の支配者となったことを象徴するものだったと言えよう。この頃信虎は、従五位下・左京太夫に叙任されている。本稿では便宜上、出生時からこの人物を「信虎」と呼んできたが、彼が実際に名を信直から信虎に改めたのは正しくこの時である。もともとこの人物には虎に対する特別な思い入れがあったらしく、信虎が用いた朱印の図案も虎をあしらったものであった。 名実共に甲斐の国主となった信虎ではあったが、勢力の伸張に伴って新たな敵が増えるのは必然であった。信虎の場合、その敵とは今川氏だった。今川氏との衝突は国内統一のために避けて通ることのできないものだったのも事実だが、一連の抗争で武田氏と今川氏の関係は悪化し、大永元年(1521)9月には今川家家臣・福島正成率いる大軍が甲府に向けて進軍してきた。一万五千とも一万八千とも言う。どうにか甲斐統一を果たしたとは言え、いまだ国内の支配体制が安定していない武田氏側は再び苦しい戦いを強いられることとなった。一時は信虎の下に帰参した豪族の中には、再び今川軍に組する者も現れた。結局、一万八千の大軍を迎え撃つために信虎が集めることのできた兵力は、わずかに二千だったとも言う。この時ばかりは信虎も決死の覚悟を固めたのだろう。本来は戦時拠点にはほど遠い躑躅ヶ崎館と共に、積翠寺の山中に築かせた詰めの城・要害山城に大井夫人を避難させると、10月16日、飯田川原(甲府市)に今川軍を迎え撃った。地の利は武田軍にあった。数においては圧倒的に不利だったが、緒戦で武田軍は自軍の兵士数を実際以上に見せかける虚兵の計などを用いて、数に勝る今川軍を押し返すことに成功した。しかし、なおも苦しい対陣が続く。 11月3日。戦陣にある信虎のもとに、大井夫人が男児を出産したとの報が伝えられた。後の武田晴信、徳栄軒信玄である。幼名は太郎であった。一説に勝千代とも言う。太郎も勝千代も武田家嫡男の伝統的な幼名である。戦のさなか、御曹子誕生の知らせを聞いた将兵の士気は大いに上がったと伝えられている。士気横溢の武田軍は、11月26日には上条川原においてついに今川軍との決戦に臨み、大将である福島正成以下六百余名を討ち取った。今川軍の死傷者は述べ四千人に達したと言う。数字自体はいささか誇大広告のきらいもあるが、この劇的とも言える大勝利によって、信虎の武威は甲斐国内に轟き渡った。この戦いの勝利をもって、甲斐国内はようやくにして真の統一が果たされたと言って良い。国内に信虎の敵は無くなり、いよいよ版図拡大を目指した対外侵略戦争が開始される。甲斐の国は山がちな地勢で国力は乏しい。積極的に周辺地域に侵攻し、これを併呑して国を富ませていかなければ、遠からず武田家が列強に踏みにじられることは目に見えていた。 ■信虎の対外施策 国内を統一して足場を固めた信虎が最初に挑んだ外なる敵は、小田原を拠点にして関東へと勢力を伸張しつつあった北条氏綱だった。これには氏綱の台頭によって圧迫を受けていた扇谷(おうぎがやつ)上杉朝興が、天文2年(1533)に信虎と連携して氏綱と対抗するため、自分の娘を太郎の正室として差し出してきたと言う事情があった(なお、朝興の娘は翌年懐胎死している)。また、それ以前にも朝興の仲介によって信虎は自分の側室を迎えており、対外侵攻初期の段階ではかなり関東方面への侵攻を意識していたようだ。実際に信虎は朝興の要望に応えて関東に侵攻している。ところが敵もさるものであった。元は今川の一部将でありながらついには一国の主となり、戦国時代の幕を切って落とした北条早雲の息子・氏綱は、駿河の今川氏輝に要請して信虎を背後から牽制した。果たして、武田家と今川家の関係は再び悪化し、信虎は今川封じのために駿河に出兵している。一方氏綱は、信虎が駿河にまで出張っている間に甲斐国内へ侵攻していた。このとき、北条軍を迎撃した信虎の弟・勝沼信友が討ち死にしている。信虎は、駿河の今川、相模の北条と言う二面の敵と戦わなければならない苦境に追い込まれていた。 しかし、天文5年(1536)になって今川氏輝が急死した。これは信虎にとって幸運な出来事と言えた。今川家では、俄かに氏輝の跡目をめぐっての内乱が発生した。いわゆる「花倉の乱」だ。結果としてこの闘争に勝利して今川家を継いだのは、家臣の多くの支持を得、信虎も支援した承芳であった。後の今川義元である。この一件で義元に恩を売ることに成功したことで、武田家と今川家の関係は一気に好転した。信虎は娘(晴信の姉)を義元の正室として今川に輿入れさせ、同盟関係を成立させている。これにより、今度は北条家の立場が危ういものとなりかけたが、氏綱は信虎と和睦し、武田家との関係を修復することに努めた。信虎側にしても、北条を攻めるのは容易ではないと言う判断が働いたのだろう。両家の和睦は成立し、信虎は次なる攻略目標を信濃に定めた。 なお、義元は自分の家督相続にかかる信虎の労に報いて、京都の公家・三条公頼の娘を晴信の娘に迎えるよう取り計らってもいる。どうも信虎には権威主義的な一面があったらしい。名門甲斐源氏の家に生まれたのだからそれも致し方の無いことであろうが、京の公卿との縁組が、都を遠く離れた山国の大名にとって直近の戦略上さしたる意味を持っていたとは考えにくい。三条氏の三姉妹は、それぞれ管領細川家と本願寺顕如に嫁している。後年、本願寺との縁を活かして信玄は遠大な信長包囲網を敷くことに成功しているが、そのことをもって晴信と三条氏の縁組に政略的な臭いを嗅ぎ取るのは結果論というものだろう。あるいは、いつか上洛する日を夢見て貴族社会とのパイプを作っておこうと考えたのかもしれないが、武田家の名族としての矜持に起因するところの大きい縁組だったのではないか。 さて、信虎の信濃侵攻であるが、これは対今川・北条関係が一応の安定を見る以前から続けられていたものだった。甲斐と信濃は国境を接する国同士で、当時両国を結ぶルートには2通りがあった。八ヶ岳の東を抜け佐久郡に至る道と、甲府盆地に隣接する諏訪地方への道である。信虎は、小豪族同士がひしめき合う佐久郡への侵入を試みたこともあったが、これは思うに任せなかった。享禄元年(1528)からは諏訪地方を治める諏訪大社下社の大祝・諏訪頼重と足掛け八年にわたる戦いを続けてもいた。しかし、これも目立った成果はあげられず、天文4年(1535)には頼重と和睦し、後には娘を嫁がせて諏訪家との同盟を締結し、信濃侵攻の方針を諏訪地方攻略から再び佐久攻略へと軌道修正した。天文9年(1540)には佐久郡に侵攻し、1日に36の城を落としたと伝えられている。翌天文10年(1541)年は葛尾城(埴科郡坂城町)にあった村上義清、そして諏訪頼重と共に海野幸綱を攻めている。信虎はこの戦いによって新たな領土を得ることこそ無かったが、佐久郡の支配をより確固たるものとした。 ■国外追放、そしてその後 ようやくにして信濃侵攻が結果を出し始め、信虎も意気揚揚だったのであろう。6月には娘に会いがてら、駿河の今川義元のところを訪ねるほどの余裕を見せている。ところがこの駿河行きの直後、信虎の運命は一気に暗転した。信虎が駿河に入った途端、突如として甲斐駿河国境の道が封鎖され、信虎は甲斐に戻ることができなくなったのである。実の息子晴信と娘婿義元が結託して行った無血クーデターだった。この事件はあまりにも苛烈な信虎の政策が原因だったと言われる。甲斐統一にむけた戦いの間はいざ知らず、それが終わった後にも領民に重税と厳しい軍役を科しての再三の出陣。しかも、それは目立った成果を挙げることはできず、大局的戦略を欠く甚だ場当たり的な軍事行動だったため、人々の不満は倍増した。家臣が信虎の専横を諌めれば、信虎はこれを斬り捨てた。信虎に愛想を尽かして他国に逃れた家臣もいた。息子晴信に対しては冷淡に接し、次男である信繁に家督を継がせると公言してはばからないこともあった。自分の行く末に暗雲を感じた晴信、信虎に対する不信感を抱いた板垣信方・飯富虎昌らの家臣団、甲斐全体を覆っていた厭戦ムード、晴信を与し易しと踏んだ義元など、さまざまな人間の思惑が信虎を国主の座から引き摺り下ろしたのである。この一件により晴信は生涯親不孝者の烙印を押されることとなったが、当時の甲斐国民は信虎の追放を知り皆大いに喜んだと言う。信虎は牛馬の類にまで憎まれていた、などと伝えられるほどの嫌われようだった。 もっとも、信虎の側にも情状酌量の余地はある。14歳にして武田家当主となって以来、信虎の人生は戦いの連続であった。やらねばやられるが習い性になり、獰猛なまでに戦い続けなければならなかった。そしてその戦いの日々を勝ち抜くことができたのも、猛々しい信虎であればこそだった。戦鬼の如く、まさしく虎の如く、閉塞した旧体制を破壊する純粋な力が信虎であった。そうでなければ武田家は戦国大名への転身を果たすことのないまま潰えていたかもしれない。時代の変革を果たすには破壊的な力が必要なのだろう。その点では後の時代の織田信長が思い出されるが、信長がそうであったように、一つの時代を終結させ、次の時代に向かう段階に於いてあまりに強力すぎる力は取り除かれる運命にあるのだろうか。猛将武田信虎は、すでに有名無実化していた守護大名武田氏を戦国大名武田氏へと生まれ変わらせたが、時代が彼に求めたのはそこまでだったようだ。すでに時代の変わり目を超えていることに気づかず、明確なビジョンも持たないまま戦いを繰り返した信虎は、周囲の人間によって強制的に歴史の表舞台から退場させられたのである。 さて、国外追放とは言ってもそこはかつて甲斐の国主だった人物のことである。信虎を拾うことになった義元の元には、本国の晴信から十分な金品が贈られていた。この支援は信虎が死ぬまで続けられたようで、甲斐を追われたとは言っても有態に言えば強制的に隠居させられたようなものだったのだろう。しかし、当時の47歳の信虎は、胸の内でいまだに野心の炎をくすぶらせていたようである。その暮らしはおよそ楽隠居と呼ぶものにはほど遠いものだったに違いない。甲斐放逐から20年近くが経った永禄3年(1560)、信虎が寄宿していた今川家で大事件が発生した。尾張に向け大軍を進めていた当主義元が、桶狭間で織田信長に討たれたのである。義元の後を継いだのは嫡男氏真だった。しかし、信虎の目は即座に氏真が凡庸な人物であることを見抜いたようである。密かにそのことを本国の信玄に伝え、自身も今川家乗っ取りの方策を立てていたという。だが、これは事が成就する前に計画が露見して氏真との関係が悪化し、挙句に信虎は今川家からも追放される憂き目にあっている。 今川家を追われた信虎ではあったが、それでも甲斐に戻ることはできなかった。行く先を失った信虎が向かったのは京だった。嫁である三条夫人の実家を訪ねたり、あるいは高野山に登ったりしたことが伝えられている。また、将軍足利義輝に謁見してその御相伴衆になったことも分かっている。御相伴衆とは、平たく言えば将軍の供回りで、実質的には何の権力も持たない大名の隠居につとまるのだから、つまるところは名誉職である。瑣末な事柄については断片的な情報が残されているが、信虎が日々をどのようにすごしたかについての詳しい資料は残されていない。息子によって甲斐国主の座を追われたあの日以来、信虎の存在はこの国の歴史、そして武田家の歴史にとってさえもさしたる意味を持たないものとなっていた。やがて、信玄は武田家当主の座についてから三十余年後、上洛の夢を果たさぬまま五十三年を一期にこの世を去った。京に武田の旗を立てることこそかなわなかったが、信玄が戦国の巨星と呼び習わされるほどの傑物だったことに疑いの余地は無い。自分を追って甲斐国主の座に着いた息子が、稀代の英雄の座に駆け上るのを信虎はどのような思いで見ていたのだろうか。都を遠く離れた山国で戦いに明け暮れる信玄の姿を、もどかしい思いで眺めていたのだろうか。 信玄逝去の翌年、天正2年(1574)に、信虎は「信玄死す」の報を聞きつけて信濃国高遠城に姿をあらわした。そこで孫の勝頼との対面を果たしている。齢はすでに八十を超えていたが、このときの信虎の様子については恐るべき逸話が残されている。勝頼以下、居並ぶ家臣を前にして信虎は、武田家に伝わる名刀・筑前左文字を抜き、その刀で二度三度と虚空を斬った。そして曰く、「自分はこの刀で、かつて自分に讒言した家臣五十余人を手打ちにした」と。信虎の異様な振る舞いに場の空気は凍りついた。その時、一人の家臣が隙を見て信虎から刀を奪い取ったのだと言う。 信虎は、その年の内に高遠に没した。享年81歳。再び甲斐の地を踏むことは無かった。 同じ年、勝頼は上野や遠江をはじめとする各地に侵攻して諸城を落とし、信玄時代をさらに超える武田家の最大版図を築き上げている。そしてその翌年の天正3年(1575)、運命の戦場・長篠に立つ事になるのだった。もちろん、信虎は長篠の大敗のことなど知らない。思えば信虎はその生涯をかけて、武田家が栄光の坂道を登りきり、その頂に立つ直前までを見届けたことになる。信玄の雄飛と、それを受け継いだ勝頼がたどり着いた栄華の頂点は、武将としての生涯のすべてを戦いに費やした信虎の存在なくしてあり得ないものだった。武田家の蹉跌を目の当たりにすることなく、夢を抱えたまま死ぬことができた信虎は幸せだったのかもしれない。 |