山内千代の夫を騙る

2006年の大河ドラマは、「山内一豊の妻」らしい。で、山内一豊って、誰?
1.再来年のことを言うと鬼が笑う
2.例のごとく愛知県出身の人らしいので
3.「山内一豊」という男
4.まるっとお見通し…とは行かぬ妻
5.遅ればせながら高知城に行ってみた


1.再来年のことを言うと鬼が笑う

 2006年NHK大河ドラマが、故司馬遼太郎氏原作の「功名が辻〜山内一豊の妻〜」に決定した。主人公の「山内千代」役に仲間由紀恵さん、準主役の「山内一豊」役に上川隆也さんが選ばれたとのこと。パチスロ機種ではないが、「主役は千代」なのである。一豊ではない。古くは「おんな太閤記」、近年の「利家とまつ」の流れを踏襲した「賢妻もの」のようだ(こういう言い方があるのかどうか知らないが)。ホームドラマ路線の「トシマツ」で視聴率的にそこそこ成功したことに気を良くしたNHKが味をしめ、二匹目の泥鰌を狙ったらしいことは想像に難くない。

 とは言え、原作である「功名が辻」はかなり有名な作品である。はっきり言ってしまえば、この作品がなければ多くの日本人は「山内一豊」という戦国武将など知らなかったに違いない。事実、2004年7月現在「山内一豊」をキーワードにしてググってみると、トップに表示されるのは、山内一豊本人を扱ったサイトではなく、山内一豊「夫人」を主題にしたらしいサイトなのである。内助の功で夫を支えた賢夫人の物語があって、はじめて一豊はある程度の知名度を維持しているといった有様だ。世が世なら、「千代さんの旦那さん」と呼ばれてもおかしくないような人なのだろうか。かく言う私も、この山内一豊という人物のことを良く知らない。かりそめにも戦国コンテンツを開設していながら、知らない。

 名前くらいは一応知っているが、時に山名持豊と混同してしまう。山名持豊は、細川勝元と対立して応仁の乱を引き起こした人物、山名宗全その人である。こちらは結構な人物であるが、もちろん一豊とは名前が似ているだけの赤の他人の関係だ。

 何をした人物か。最初は織田信長に仕え、その後織田家の家内人事で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の部下となり、天下人に付き従ったことで遠江掛川城主に任ぜられる。石高は、10万石に届かないほどだと思う。秀吉の死後、関ヶ原の戦いが勃発するに当たっては、豊臣恩顧の大名の中でもいち早く徳川家康に対して恭順の意思を示し、戦後はその功に報いて土佐高知の藩主となり、20万石あまりを領するようになった。余談として、土佐転封の際、土佐の旧領主・長宗我部氏に仕えていた土着の武士たちと対立し、その結果として土着武士を冷遇する領国体制を作り上げた。これが幕末の坂本竜馬の頃にまで尾を引く土佐国内のわだかまりの原因となった上士・郷士の階級システムだ…。

 どうしても、あまりパッとしない人物というイメージが付きまとう。実際、大きな仕事を成した人物と言うわけではないし、信長・秀吉・家康という3人の天下人に縁のある人物とは言え、彼らの事業にさほど重大な影響を及ぼしたとも思えない。強いて言うなら、関ヶ原の時に家康に掛川城を明渡したことがそうだったと言えなくもない。その他、「『千代』って本名なのか?」、「1年話題がもつのか?」、「土佐人は山内にあまりよいイメージを持っていないのではないか?」などなど、疑問は尽きない。くどいようだが、「功名が辻」を知らない人間には、馴染みのない人物なのだ。私は「功名が辻」を読んだことがないので、この体たらく。

 かの「独眼竜政宗」以来、私は戦国大河を欠かさず見ている。おそらくは、「功名が辻」も見るだろう。だがその時、素性の良くわからない人物のドラマを1年間見続けるのはつらい。せっかくだから、ドラマの開始までゆるりと一豊と千代のことを勉強していこうかな、と思う。

 これまた余談だが、せっかく主演が仲間さんなら、某局のヒットドラマに倣って主題歌はあの人に歌ってもらいたいところ。
(2004.07.24)
 
2.例のごとく愛知県出身の人らしいので
 江戸時代以降に全国各地を治めた殿様連中の、実に7割までが愛知県出身者らしいと、物の本で読んだことがある。天下統一事業を成し遂げた織豊政権と江戸幕府の起源が尾張・三河(いずれも現在の愛知県)にあるわけだから、それらの中核を成していたのは当然本拠地の地元民で、彼らが各組織の重要なポストを占めていたためである。そしてちょっと調べてみたところ、やっぱり一豊も愛知県出身者らしかった。

 と言うわけで、一豊の出生地に行ってみた。

 実は、一豊の出生地には二説(実数はもう少し多いかもしれないが)ある。愛知県岩倉市説と愛知県葉栗郡木曽川町説だ。一豊は、織田伊勢守信安の家臣、山内守豊の次男として生を受けた。守豊は木曽川町にあった黒田城主を務めていたのだが、一豊誕生の年、天文15年(1546)頃は、ちょうど岩倉城主であった信安のところに出仕し、所在が流動的になっていた時期なのである。一般的には黒田城が一豊出生の地とされているようだが、とりあえず2ヶ所とも訪ねた。

 岩倉城址は、岩倉の街中、何の変哲もない県道沿いにある。やはりと言うか、現地の解説看板には一豊に関する記述は一切ない。

 永禄の頃、尾張で急速に勢力を伸張していたのが織田信長だったが、国内の織田氏一門は何系統かに分派しており、決して一枚岩ではなかった。信長にしてからが、永禄2年(1559)に弟・信勝(信行)の謀反に遭い、これを誅殺している。この謀反事件の際、信安は信勝と同盟を結んでおり、連座するような形で攻め滅ぼされた。岩倉からは隣国美濃が近いこともあって、斎藤義龍とも結んでいたらしく、尾張統一を目指す信長にとってはまさに「獅子身中の虫」だったようだ。一豊の父・守豊は信安旗下の武将だったため、信長が起こした信安派討伐軍との戦いに巻き込まれ、主君に先立って討ち死、同じ時に兄も死亡している。幼年の一豊は信安を頼って岩倉城に落ち延びたが、結局この城も落ち、主従は乱離の憂き目に遭った。なお、岩倉城から信安を追ったことで信長の尾張統一事業は完成を見た。その翌年に発生した大事件が桶狭間の戦いだったわけだが、それはまた別の話。住処を追われた一豊がどうなっていくかも、またの機会に(現段階では一豊がその後どうなったのかを知らないということもある)。

 黒田城址の方は、岩倉城も小奇麗だったが、それよりもさらに良く整備されている。黒田小学校の一画が史跡となっている。一豊(と言うか「功名が辻」)と言えば「馬揃え」らしく、いちばん右の写真がその場面なのかと思ったのだが、どうやらこれは一豊立志の像らしい。

 左写真は「一豊まつり」の幟と「黒田城 山内一豊出生地」の看板。2004年の一豊まつりは、8月1日あたりに開催されるようだ。祭りの内容は未確認。右が、近隣の商店街で見つけた「一豊くん出世カード 加盟店」のプレート。鎧を着ているのが「かずとよくん」、左の女の子?が「ちよちゃん」。ちょっぴり欲しい、「一豊くん出世カード」。システム・特典などは不明。

 どうやら木曽川町の人たちは、郷土の英雄である一豊、そして千代と共に歩んできたらしい。大河ドラマ化が決定したからと言って俄かに木曽川町を訪問したどこぞのみーちゃんはーちゃんとは、年季が違うのである。
(2004.07.24)
3.「山内一豊」という男
 「新選組!」の最終回を見た。ラスト二回しか見てないが、泣いた。むせび泣いた。思えば竹中直人氏の「秀吉」の最終回でも涙したし(このドラマのラストで秀吉は死なない。秀吉の「陽」の部分を象徴するかのごとく、類縁者一同うちそろって踊るシーンで一応は幕。竹中氏が「毛利元就もよろしく」と言う来年の番宣もあったが)、悪名高いトシマツのズンドコダンスでもとりあえずは泣いた。今振り返ってみると安い涙である。「独眼竜政宗」のラストは、三浦友和氏演じる伊達成実が、朝になって謙さんの政宗の所に出仕して来たら、政宗が座ったまま死んでいたというようなラストだったと思うが、今見たらきっと滂沱の涙を流す。無声慟哭。「武田信玄」での信玄公逝去のシーンは記憶にないのだが、重臣一同が信玄公の亡骸を荼毘に付すシーンはあったはずだ。ここが泣きのポイントで、これまた今見たら「御旗楯無もご照覧あれぇ〜!!」とばかりに奇声を発し、大泣きする自信がある。

 話が脱線した。「新選組!」は、時節柄か近藤勇の斬首直前で終わったが、人が死ぬのは悲しいものだ。しかし、悲しんでばかりもいられない。かの一休宗純は言った。「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」と。正月近くなり「新選組!」が最終回を迎え、近藤勇が死んだとなると、次に死ぬのは義経である。そしてその次が、千代および一豊である。夫妻にお迎えが来るのは時間の問題、うかうかしていればあっという間だ。行き当たりばったりで始めた「連載」。前回からはもう半年近いブランクが空いた。残された時間は、少ない。

 今回は、山内一豊という男の履歴について、調べられた範囲で少し突っ込んだ事を書いてみようと思う。「千代」こと見性院についてはいずれまた。聞くところによると彼女の本名には「マツ」説もあると言う。『功名が辻』に限った話をする時は「千代」、史実の領域で話す時は「見性院」とすることになると思う。とりあえず今回一豊の妻メインの記述はこれだけである。

 山内一豊。「やまのうちかずとよ」と読む。以前はそんな風に言っていたが、「やまのうち」は俗称らしい。一応山内家の出自は藤原氏と言うことになっている。平将門を討った俵藤太こと藤原秀郷の流れとされる。

 生まれは、前回も触れたが天文15年(1546)、織田信安の家臣で尾張国黒田城主であった山内守豊の次男だった。幼名は辰之助。14歳の時に父と兄を無くし、以後数年間は苦難の道のりを歩むことになるが、永禄10年(1567)頃に織田信長に仕え、流浪の生活にピリオドを打った。この頃の信長は、美濃の攻略を達成し、越前朝倉氏のところに身を寄せていた足利義昭から頼られ、これを奉じて上洛を果たすなど、波に乗っていた。今風に言うなら押せ押せの勢いの企業で、人はいくらいても足りない状況だったのだろうか。まあ、とりあえず信長に仕えるようになったのはその頃らしい。そして間もなく、その成長企業の出世頭だった羽柴秀吉の下につけられることになった。

 どうも「始めに妻ありき」で性格は温順そうなイメージを持ってしまう一豊だが、そんなことはない、戦場でもしゃかりきに頑張る男だったらしい。天正元年(1573)、朝倉氏と戦った越前刀根崎の戦いでの一豊の槍働きを伝えるエピソードがある。この戦いで信長は、妹婿である近江浅井長政の裏切りに遭い、下手をすれば袋のネズミになって前後に敵を受けなければならなくなるほどの危機的状況に追い込まれている。もちろん背後を脅かされることになれば、当初予定通り朝倉氏を攻めるなどと悠長なことは言ってられなくなるわけで、撤退を開始することになった。しかし、撤退戦というのは過酷なものである。特にその殿軍をつとめる将兵は、死地に赴く覚悟でこの役を果たさなければならない。この決死隊に、一豊の直属上司、秀吉が立候補したのである。結果的に秀吉はこの任を成功させ、後世に「藤吉郎の金ヶ崎退き口」と伝えられる功績を残すとともに、出世の蔓を掴むことになったのだが、その軍の中に一豊もいたわけだ。そして朝倉でも剛勇の誉れ高かった三段崎勘右衛門を組討の末に倒し、首級を挙げた。自ら顔面に矢を受けながらの激しい格闘だった。後日、信長はこのことを知り、一豊の家臣に手ずから薬を与えると、一豊の看病を怠りなく続けるように厳命したと言う。

 上司秀吉も大手柄を上げた。そして何より、一豊自身も信長の耳にまで入る殊勲を挙げたから、この時に一豊は、小さいながらも自分の領地を有する領主となった。近江の唐国四百石だった。その後も秀吉の下で勲功を重ね、少しづつ知行を増やしていったが、知ってのとおり、本能寺の変を経て秀吉は信長の後継者になる。その部将である一豊も加速度的に領地を増やしていった。最初の近江長浜以後、播磨の有年(うね)、再び長浜、若狭の高浜、三度近江の長浜とあちこちに移封されている。そして小田原征伐が完了して秀吉の天下が完全なものとなった時に、遠江掛川六万石に封ぜられた。この移封は、同じ頃江戸に入れられた家康を監視する目的のものであるとともに、家康が東海道を西上して大坂に攻め上がってきた場合の備えだったと言われる。それほど一豊は秀吉に信頼されていた。

 慶長3年(1598)、秀吉が死んだ。ここで天下取りに向けて蠢動しはじめたのは、秀吉自身が危惧したとおり、徳川家康その人だった。石田三成は豊臣家中の反家康勢力を束ね、これに対抗しようとした。そしてついに武力衝突に至ったのが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いである。この段階で大坂城に弓を引いて秀吉の遺児・秀頼と対決する形になることを避けたかった家康は、三成を城から誘い出して討滅するためにある企てを実行に移した。「会津の上杉景勝が秀頼に対する謀反を企てている。自分は秀頼の名代として、景勝を討ちに向かう」。対外的にそのように宣伝しながら、大軍を率いて東国へ向かった。三成はこれを見て、家康の背後に追い討ちをかけるべく、機をはかって挙兵した。当然、景勝との挟撃も視野に入れての軍事行動だっただろう。もちろんこの三成の行動は、家康の狙い通りのものだった。問題はそこから先だ。家康の作戦行動の成否のカギを握る重大要素の一つが、三成方の動向をいかにして探るかにあった。

 ここでやっと一豊の出番である。一豊も家康に従軍していたのだが、陣中にあった一豊のもとに、大坂にいた見性院からの文が届いた。文は文箱に入れられ、文箱には封印が施されていた。一豊は封を解かず、これを家康に献上した。箱の中に入っていたのは、三成陣営に属する増田長盛・長束正家が連盟した大坂方への勧誘状と、妻の添え状だった。妻の手紙には、大坂で三成挙兵の動きがあること、自分のことはいいから家康に忠誠を尽くせという内容が書かれていたという。ここで、一豊に対する家康の印象がグーンと良くなったはずである。いかにもパフォーマンスじみているが、これは密書による妻からの指示に従ったものだったという。密書は使者の傘の緒に忍ばせておいたとかなんとか。

 見性院の文を見た家康は、ついに三成が動き出したことを悟り、反転西上すべく軍議を開いている。その席上で一豊は、進軍経路上に位置する自分の掛川城を家康のために明渡すと公言した。これによって軍議の流れが決まり、参加していた諸将も、家康に味方して三成を討つ腹を決めた。

 一豊はその後に控える関ヶ原の戦場では、手柄と言うほどの手柄を立てていない。しかし、戦後には大幅加増の二十四万石で、土佐の高知に封ぜられた。戦前のパフォーマンスが効いたのだろう。そして領国経営に着手し、明治まで続く土佐藩の基礎を築き上げた後、慶長10年(1605)9月20日、60歳を一期にこの世を去った。実子はなく、家督は甥に継承された。

 一応、今回調べてみた範囲ではこんな感じである。物語性はあるが、やはり派手な活躍をした人物ではない。ちょくちょくと戦国史のハイライトに絡みはするのだが、決してスポットライトの中にはいないのである。

 それにしても今回、あまり良質のソースには恵まれなかった気がする。歴史書の類は皆無だった。ていうか、このストーリーからは『功名が辻』臭がプンプンするのだが、小説を元にした読み物を参考にしてしまったのではあるまいか。

※2005.02.02 もう少し詳しく調べてみました。
 
(2004.12.23)
4.まるっとお見通し…とは行かぬ妻

 一豊のことを調べていると、どうしても妻に関する記述が多く目に付くし、そもそも『功名が辻』は山内一豊の妻が主役の物語である。そろそろ『功名が辻』を読んでも良い頃合だろうと思う今日この頃だが、ここらで一度、一豊夫人の事もまとめておこう。と言ってもこの一豊夫人、夫同様と言おうか夫以上に、出生にまつわる謎が多い。まとめ作業はいきなり躓きそうな雲行きである。

 彼女の出生地については、長らくの間近江説が優勢だったようだ。浅井氏の家臣・若宮喜助友興の娘で、弘治3年(1557)に近江飯村(滋賀県近江町)で生まれたとする説である。この説では、放浪中の一豊が千代(見性院とする…とか言っていたが、「千代」の方が入力が簡単なので…)と出会い、後の結婚につながったとされている。弘治3年と言えば、一豊の父や兄が討たれたとか討たれなかったとか言われている時期だ。

 これに対し、ここ十年ほどの間に俄かに注目を集めるようになったのが、美濃郡上八幡出身説。父とされるのは郡上八幡城主・遠藤盛数。少しばかり調べてみた範囲では、現段階ではどうもこちらの郡上出身説の方に分があるようだ。と言うのも、前出の近江出身説には決定的な根拠がなく、何となく話だけがひとり歩きしてしまっていたらしいのである。「もしかしたら郡上八幡の出身なのかもしれない」となったのは、高知女子大学の丸山和雄名誉教授らの研究チームによる調査の賜物だそうだ。根拠とされる史料は、『寛政重修諸家譜』、『東家遠藤家記録』、『秘聞郡上古日記』など。こう言ってしまっては何だが、どれも聞いた事のない史料だ。この中で『寛政重修諸家譜』については少しばかり説明が必要で、ここに収められている遠藤家に関する記述では、遠藤盛数の三人の娘の一人が「山内対馬守一豊室 母東常慶女」とされているのだが、山内家側では、一豊室を「若宮喜助友興」としている。「アッパー」で触れたが、一豊に側室はおらず、妻と呼べる人は千代ただ一人だったとされているため、どちらかが正室でどちらかが側室と言うわけでもなさそうだ。

 まあ、ずいぶんとややこしい話になっているらしい。しかし出自には不明な点が多いが、彼女の「内助の功」を伝えるエピソードは多い。例の「傘の緒の文」もそうだが、やはりこの種の話は馬揃えのときの「名馬購入」によって止めを刺される。要はこういう話である。ある時、安土城下に東国一と謳われる名馬がやってきた。家中の者たちは皆この名馬を欲しがり、一豊もまたそういう一人だったのだが、馬につけられた値は黄金十両。とても手が出ない。そして、そのことを知った千代はおもむろに黄金十両を一豊に渡し、その名馬を買わせた。やがて京の都で馬揃えが行われた時、一豊は買った名馬に跨ってこれに参加した。それが信長の目に止まり、以降一豊は信長に活躍をアピールする機会に恵まれるようになった。一豊はそうして掴んだチャンスを物にしていったので、とどのつまりは名馬購入が出世の糸口になった、と。

 この話にはちょっとした裏話がある。千代の父は嫁入りの時、「ここぞと言う時に使え」と言って黄金十両を彼女に手渡した。結婚して間もない頃は小身だった一豊夫妻。生活は困窮を極め、生活はまさに塗炭の苦しみだったが、それでも千代は黄金十両を鏡箱の底にしまいこんだままにし、決して切り崩そうとはしなかった。どんなに生活が苦しかろうと、「ここぞと言う時」ではないと考えたためだ。しかし、名馬の購入は違った。ここで東国一の馬を手に入れ、織田家中に山内一豊のあることを天下に知らしめれば、十両の黄金は、いずれ十両以上の価値を持つようになるに違いないと考えたのである。

 この名馬購入の逸話は、「そういうことがあったらしい」という程度には大方のコンセンサスを得ているようだが、多少の粉飾がこらされている可能性もある。しかし、千代はつねに質素倹約に勤めていたようで、貧しくてまな板さえ買えなかった赤貧時代には、枡を裏返してまな板の代わりにしていたなどと伝えられており、黄金十両の鏡箱とこの枡の二つは、山内家の家宝として、かなり時代が下るまで残されていたそうだ。どうやら戦災によって失われたようである。

 ことほど左様に一豊を支えた千代は、一豊の没後も12年間生き、元和3年(1617)に亡くなった。千代は、さすがに司馬遼太郎氏の小説の主人公になるだけあって、かなり良く頑張っている。その頑張りぶりはさしずめ、「何から何まで、千代にお任せくださりませ」といったところであろう。彼女の本名さえも異説があるから、お好み次第で「千代」を「松」にして、「松にお任せくださりませ」と言い換えるのも可。

 ………なんだろう、このデジャビュな感じは…。
(2005.02.11)

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