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                    HowとWhy


 今から50年も前に書かれた「HowとWhy」と題するコピーが手元に残っている。
 私が書研に研修生として入所した時に裁判所書記官研修所長をしておられた佐藤千速先生が書かれたものである。
 同窓会機関紙「書記官」の「書研創立30周年記念特集」の中に掲載されている。
 「HowとWhy」,これが強く印象に残っている。
 そのコピーが,今も捨てられないでいる。

 平成30年に(「コートマネージャーとしての裁判所書記官」(新日本法規出版株式会社)を出版した。
 そこには,若い頃に書いた「書記官実務原論」が掲載されている(同書第2章「裁判所書記官の実務」第2「書記官実務原論」)。
 裁判所書記官は,何のためにあるのか(Why),何を(What),どのようにする(How)ことが求められるのか。
 それについて書いたものだった。私は,あるべき未来に向けた「理論」を欲していたのだろう。
 その発想の源(原点)は,この佐藤先生が書かれた「HowとWhy」の一文にあったように思う。

 時代は変わり世代は変わり,環境が変わっても,変わらないものもある。
 裁判実務にたずさわる,今とこれからの裁判所書記官の方,裁判官その他の関係者の方々にも,そっと心の隅に置いていただければと思う。
 手元から失われる前に,記録にとどめておきたい。


      HowとWhy
                        佐藤千速(第6代裁判所書記官研修所長)

 書記官事務というと,訴訟法規の解釈,運用の問題とか,調書その他の書類の作成についての論議がとかく多くなるが,もっと広い面からこれを捉えて考える必要がある。書記官は,訟廷のマネージャーである。弁論の準備を促す等のことを含む当事者との各種連絡,裁判官のセクレタリー的活動など,そのマネージャーとしての活動は,多岐に亘り,組織化してこれを眺めにくい面を持っている。そのため全体としての書記官像の中から見落されがちである。このことの外に,例えば,民事の執行に関する事務についていえば,かなりの実質的な部分を書記官が行っていることに気づくのである。今後も,書記官事務のこれらの面についての論議を発展させる必要があるように思う。
 さて,書記官事務はいわゆる実務であるから,事務処理の方法を学ぶことが必要であることはいうをまたない。これは,英語の表現を借りるならば,”How?”ということを知ることである。従って,経験が大事であることは当然である。書記官経験1年生でも,過去の経験の蓄積を受け継ぐことにより,自らを富ませ,何十年の経験者に匹敵することができる。そのためには,具体的な仕事の処理に際して,謙虚に先輩の教えを乞うことである。生きた事件に即してその処理を学ぶこと,これ研修である。このように経験の蓄積が大事であるが,単なる機械的な事務処理は避けなければならない。理論的な裏づけのない事務処理は,あまり進歩がないのみならず,時に危険な場合すらある。表見上は同じ事件に見え,従って同じ扱いが相当であるように見えても,事件の性質が違うため処理方法を異にすべき場合もあるからである。何故このような取扱いをするかということを知っておく必要がある。再び英語の表現を借りるならば,”Why?”ということを知ることである。そして,この「疑問」が,実は事務の改善,合理化の契機ともなるのである。反省なき事務の繰り返しの中からは,進歩は生まれないのである。
 われわれの生活はますます複雑,多岐を加え,従って,これまで経験しなかったような事件に遭遇することもあると思われる。これは,過去の豊富な経験のうえに不断の研究を重ねることによって,はじめて打開することができると考える。実務の毎日が即研修の毎日であり,進歩の毎日でなくてはならない。
   (昭和55.2.17)  (同窓会顧問・第6代書研所長)
富士見同窓会機関紙「書記官」(書研創立30周年記念特集)103号6頁

 昭和46年4月書研・富士見同窓会「書記官」67号26頁「人物点描」によれば,
佐藤千速氏は,昭和30年司法研修所教官,33年最高裁刑事局二課長,35年同局一課長,40年刑事局長を歴任。
 好きな言葉は「不怕人老 只怕心老」とある。調べれば,怕は(はく・おそれる)で,「人の老いるをおそれず,ただ,心の老いるをおそれる」の意。





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