『坂柿一統記の世界』
  さかがきいっとうき
新刊案内『坂柿一統記(抄)』
(菅沼昌平著、山本正名校訂・解説) 風媒社から令和2年9月1日発売(2000円+消費税)



菅沼昌平は儒学者か

1 昌平は儒学者か
 『坂柿一統記(抄)』の中で、あるいはその紹介文の中で、菅沼昌平は「村医者であり、儒学者でもあった。儒医である。」と書いた。
 これに対し、ある人から、メールで「気になる点」として、こんな質問を受けた。
 「昌平はまた儒学者→儒学を以って任じる医者 職業的な儒者ではないのではないでしょうか。」
 これは、私がまとめたものに何か勘違いか調査不足があったかと心配になったが、この指摘はありがたく、私にとっていい質問と思った。
 出版した者にとって、誰しも読者からの反応、とりわけ質問などは歓迎すべきものと思う。さらに興味が湧き、探究心や研究心が深まるからである。

2 当座の回答
 私は、それまでに歴史書を読んだ限りの浅学の知識を基に、思いつくまま早速、次のような返信(回答)メールを送った。
 「儒医」 広辞苑によれば「儒学者であり、医者である人」ですが、江戸時代、医者になるためには、漢文で書かれた古代中国の医学書の理解が必須であり、また、儒学は幕府公認の学問でしたので、医者は、漢文の読める、儒学にも詳しい人物だったと思います。
 昌平は、「儒学者」といっても程度問題で、その概念にも幅があり、どの程度の者が「学者」と呼ばれるか分かりませんが、医業を営みつつ、論語や孟子などを読み、幕府公認の朱子学を「学ぶ者」であったと思います。儒学者というのは、今日でいう「職業的な学者」というより、儒教が基本とする仁・義・礼・智・信を学び、自ら実践し、また、儒教の大切さを人に教え広める人を指して言う場合もあったと思います。
 昌平は、山奥深い村で、農業兼山主兼医者兼名主後見など、多様な職業、役職に従事する者であったので、「職業的な儒学者」とは言えないでしょうが(儒学者という身分はなかった)、儒学を志し、関連書も広く深く読み、儒教書(「孝経」)の写本を作り村民に配って教育者としても振る舞っていた知識人ですので、その意味では、「儒学者」(儒学を修めた人、儒者ともいう)と言っていいと思います。」

3 質問者からの補足メール
 これに対し、次のような返信メールをいただいた。
 儒者の件は、江戸時代の儒者の定義は幕府や藩などの政策ブレーンなどを指す場合が多く、中江藤樹など私塾を開き経典の四書などを講じた人たちの類型に入れて、「町儒者」としたほうがよいかと思います。
 享保以降、儒学も分化していきますので、・・・なんとなく「儒者」という言葉に違和感を覚えた次第です。ただ、当時の医師は、医学を仁術として孔子の教えや中国思想をどん欲に取り入れ古医法とよばれる、医学のルネサンスともいわれる日本の古学に近い厳しい原典に基づく読解法を身に着けていますので、(吉益一派など)やはり儒者ともいえるかもしれません。ただ、一般の読者には違和感を覚える方もいるかも・・・と考えました。

4 儒者,儒学者の意味
 「一般の読者には違和感を覚える方もいるかも・・」となると、「気になる点」が気になり、また自分の知識、研究がどれほど正確なのか不安を覚え、もう少し文献を調べてみることにした。
 デジタル大辞泉の解説では、
1 儒学を修めた人。儒学を講じる人。儒学者。
2 江戸幕府の職名。若年寄に属し、将軍に儒学の経典を進講し、文学のことをつかさどった。数人いたが、林家は特別で、代々その任にあった。儒官。ずさ。
とあった。この2の意味でないことは確かである。1に「儒学を修めた人、儒学者」の意味があり、これに入らないだろうか。
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、
 儒学者(じゅがくしゃ)とは、儒教を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり、研究・教授する人のことである。一般的には儒者(じゅしゃ、ずさ)と称され、特に儒学を学ぶものは儒生(じゅせい)と呼ばれる。
 この「儒教を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり、研究・教授する人」が儒者、儒学者と呼ばれるとすれば、昌平は、この部類に属するのではなかろうか。
 また、『日本国語大辞典』によれば、
 じゅがくしゃ 儒学者 儒学を研究する人。また、儒学についての知識や理解が深い人。
とあって、「儒者」,「儒学者」の意味内容には幅があるような捉え方である。

5 歴史的背景
 しかし、国語辞典で国語的な意味を並べるだけでは、さらなる質問には答えられない。歴史的な意味あいはどうか。
 「国史大辞典」の「儒者」の項を調べると、
 儒者 中国の孔孟の学を修め、その教義を奉ずる学者という。
とある。
 さらに同辞典で「儒教」の項を調べれば、日本の状況について、
 十六世紀後半以降、すなわち近世に入ると、儒教の社会に対する影響力は、それ以前と比較して、格段に大きくなった。それは、一面では、将軍や大名など、高い地位にある為政者の教養として、広く重んぜられるようになったためであり、また一面では、武士をはじめ一般の人々のための日常的な道徳の教えとして普及したからである。それにより、儒学ないし儒学を中心とした漢籍に関する学問としての漢学は、この時代における学問を代表する地位を占めるようになった。思想界の動向にも、儒教の影響が大きい。そのような状況が生じた基本的な原因は、この時代に入って、政治的秩序が安定し、人々の関心が、現実社会の中での生き方、すなわち道徳や政治の問題に、主として指向されるようになったことにあったと考えられる。
とある。これを読めば、江戸時代における儒学の浸透と庶民の生活領域への影響が見えてくる。

6 儒学者の特徴
 その江戸時代において、「儒学者」とは、どのようなものをいうのだろう。
 引き続いて、その「国史大辞典」の項を読むと、日本的儒教の特色の一つとして、次のように書かれている。
 儒学の専門家は、中世までは、貴族や禅僧など、特定の身分の人々にほぼ限定されていたのに対し、近世になると、武士や庶民などさまざまな身分から学者が輩出した。それらの学者が開いた私塾などによる教育活動と、他方で出版事業が発達したこととにより、学問的研究の成果は一般に公開され、能力さえあれば誰にでも近づきやすいものとなったのである。また、学者の世界の中ばかりではなく、一般の社会に生活する人々に対しても、平易な文章や講話などによって、儒教的な道徳の教えなどを説こうとする学者が思想家も、石田梅岩・大原幽学・二宮尊徳ら、多く現れ、それにより儒教の思想は、いわば通俗化された形態で、広く民衆の間にまで普及した。このように自由で開放的な風潮に支えられたことにより、近世の日本儒教は独特の発展をとげ、日本人による知的活動の成果を代表するものとして、わが国の思想史上に、仏教における鎌倉仏教と並ぶほどの、重要な意義を担うものとなっている。
 江戸時代には、儒教思想の担い手の中心は武士であったが、江戸中期を過ぎる頃には、民衆の間にも広がり、百姓からも儒学者が出たという。豪農や庄屋・名主、あるいは僧や医者などは儒学を学び、寺子屋や私塾で庶民に儒学の教育をし、「論語」や「孝経」等を広め儒学の普及に努めた。
 さらに、「日本史大事典」によれば、
 儒者 本来、儒学を修め信奉する人一般をいう。(略)現在では、近世日本で儒学ないし儒学的教養の伝授を業とした人々を指すのが普通である。彼らは、科挙制度がなかったため政治的エリートないしその予備軍ではなく、しかも出自は多様で世俗的な、当時の中国や朝鮮の両班(ヤンパン)とは異なり、日本にもそれまでなかった特殊な知識人層をなした。そして近世を通じてしだいにその数を増し、広範な儒学的教養の浸透を導き、種々の儒教思想をみずから生み、当時の思想史・文化史の重要な担い手であった。
とある。

7 菅沼昌平の位置づけ
 そういう日本の儒学思想史上において、『坂柿一統記』、菅沼昌平の存在と活躍は、どのような位置づけになるのだろう。
 昌平を含め菅沼家では祖父の代から「私塾」を開き教育活動を続けていた、昌平は「論語」や「孟子」などを学び「孝経」を何巻も写本を作成し、配布している、孔孟(孔子と孟子)の言葉を引用し「仁」の思想を中核に、村民の事件を解決し融和を図っている。こうしたことを考えれば、昌平は、まぎれもなく江戸時代の在村の儒学者の1人に数えられるのではないかと思う。
 前記の辞書には、在野で儒を説く者として「町儒者」の言葉が出ているが、この時代、「町医者」があれば「村医者」がおり、「町儒者」がいれば村には村の儒者,「村儒者」もいたと言えるだろう。
 昌平は、医者であり儒者でもあり(儒医)、「村の儒学者」であり、その時代の「知識人」であった。振り返って見れば、「当時の思想史・文化史の重要な担い手」ともいえる人だったに違いない。
 三河の山奥の振草郷で、江戸時代に「学者」がいたなどというと、たいそう大仰に聞こえるかも知れないが、「儒学者」と言っても、今日いうところの職業的、専門的な「学者」というものではなく、むしろ「儒学」を学び研究する者という意味に近かったのではないかと思う。
 元東大名誉教授伊東多三郎は、『近世史の研究 第三冊』中の「江戸時代の学者の生態と学者批判論」(329〜330頁)で、次のように書いている(〔〕内及びアンダーライン部は筆者注)。
 これらの幕藩権力内部の学者〔お抱え〕に対して、在野の学者が少なくないことも、現代には見られぬ特徴である。在野の学者の中には、牢人〔浪人〕学者・庶民学者が大部分を占めているが、牢人学者は、その生活の地盤からいえば、職業人としての性質を持つものである。彼等の生活は幕府や諸藩の扶持手当を受けたり、民間有志の助成・謝礼などを受けたりして営まれたが、特に富商・地主などを中心とする民間文化階層の厚い支持を以て、学術の普及・思想の伝播にひろく貢献した。庶民学者は学術普及の波に乗って、大都市だけでなく、地方の城下町・在郷町・農村に現れたもので、すべて家業の傍ら学問活動をし、学者として名を伝えられた人々である。これらのほかに、地方では医師・神職・僧侶などの特殊身分の者で、学問文芸に通達した者も少なくない。
 以上のとおり、江戸時代の学者を分類することができるが、在野の学者が大きな比重を占めていたこと、家業を持ちながら学者として業績を残した人物が多かったことが、現代では想像もしがたいほどの特徴である。」
 「江戸時代の倫理思想では、儒教の立場に基づき、学問の理想を修身斉家治国平天下に置き、特に道徳修養による人格の形成を重んじたから、その方向で人生的意義を探求実践することが、学問の根本と考えられた。このような儒教的な学問倫理は、現代の学術の在り方とは異なるので、それをすぐ現代の学者に当てはめることはできない。

8 村の儒学者
 具体的に山奥の村でいう儒学者,庶民学者とは、どのような人物であろうか。
 青木美智男元専修大学教授は、「信濃を軸に近世におけるさまざまな知のありようを描く」として、「村の儒学者」の標題の下で、信濃出身の2人の儒医、伊藤忠岱(ちゅうたい)と松尾亨庵(こうあん)を取り上げている(「事典・しらべる江戸時代」(2001年・柏書房)511頁)。
 伊藤忠岱は、信州(長野県)春日村出身の儒医で、通称は大助ともいった。安永7年(1778)に農民の子として生まれたが商家へ養子に入り,文化元年には、昌平と同じく吉益南涯の門人となり(町泉寿郎(日本医史学雑誌第47巻第4号(2001))吉益家門人録(三)に「文化元甲子年11月改元 875伊藤大助 信州佐久郡春日村」の記録がある。)、医業のかたわら、孝経や傷寒論等、多数の儒書の筆写と刊行を行った(講談社デジタル版「日本人名大辞典」参照)
 松尾亨庵は、信州伊那郡今田村(現飯田市)で、寛政7年(1795)医師の子として生まれ、諸国を遊学、儒学、医術を学び、文政年間(1818〜29)に村内で開業し、塾を開き、また農民を救うために開墾にも力を入れた(飯田市立図書館ホームページ「松尾亨庵資料とは」参照)。
 なお、松尾亨庵については、川村肇氏(現獨協大学教授)が近世民衆教育史研究の観点から書き著した『在村知識人の儒学』(平成8年(1996)・思文閣出版)の中に、江戸時代の在村知識人、村の儒学者の1人として、その活動内容が紹介されている。

9 儒教精神の民衆への広がり
 前国立歴史民俗博物館館長(東京大学名誉教授)の宮地正人氏は、「幕末維新期の儒者達」(講演録)の中で,在村の儒学者について,次のように述べている(https://www.nishogakusha-u.ac.jp/eastasia/pdf/kanbungaku/10kanbun_01.pdf)
 一九世紀を社会的政治史の立場から見ていく場合、注意しなければならないことは、この儒学というものが、サムライ階級だけではなく、村々の名望家、豪農商の人々によっても学ばれ、彼等に儒学を教える儒者が村々に遊歴し、または村に住みついて教育をおこない始めたことだと、私は思っているのです。そこにはサムライ階級にとっての儒学とは全く異なる特質がありました。サムライ階級にとっての儒学とは、何よりもまず主従の義、忠孝の道を教え込まれる学問でありましたが、村々の豪農商、名望家には、御恩に報じて命を捧るべき主君は存在していないのです。百姓である彼等は、年貢と夫役を領主に納め、そのみかえりに、領主は家来たるサムライを動員して、彼等の生命と財産を守らなければならない責任を帯びています。領主は一代、百姓は永代であって、両者の間に人身的主従関係はなんら存在していません。とすれば、このような身分的には被支配階級の上層たる彼等が、儒学から何を学んだかが、興味深い問題となるでしょう。それは封建的な忠孝の道というよりも、儒学が本来的に内包している人としてのあるべき道、人間が人としてよりよく生きなければならないと考えられている道、いいかえれば朱子学的普遍主義にもとづいた人道と人倫の道となる筈です。
 山奥の村で医者として儒学者として生きた昌平は,その著「坂柿一統記」の中で,孔孟の言葉を引用しながら,いかに生くべきかをテーマにしているようでもある。論語の「一以貫之」の言葉を引用しながら,折りに触れて,子や子孫に対し,「孝」と「仁」の大切さを説いている。正に「人道と人倫の道」を求めて歩いた人生の記録となっている。

10 検討結果
 以上,知識の乏しい者は,哀しいかな権威を借りて自説を補強することになるが,それらの学者の言葉をフィルターとして,昌平の思想や活動を透かして見れば,儒学者としての昌平の存在は,より大きく浮かび上がってくる。
 菅沼昌平もまた、「村の儒学者」、儒者の部類に入ると言って間違いない。伊藤忠岱は多くの儒書の筆写を残し、松尾亨庵は多くの漢詩を残し、後進を育てた。そこから人となりや思想などが推察される。
 菅沼昌平は、自らの体験と思想を記録に残している点で、我々に,より儒学者の姿として明瞭に迫ってくる。ただ,後進がなく,その後に思想や文化の継受がみられない点は惜しいところと思う。

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